前回(→こちら)の続き。
「藤井システム」に影響をあたえた将棋は様々だが、そこに関わっているのが、
「ある女性のフリフリ」
その局面がこれ。
これだけ見たら
「また藤井が魅せてくれたぜ!」
色めき立つかもしれないが、実はこれがある女流棋士の将棋なのである。
一体、だれのものなのか。
今のヤング諸君にはわからないかもしれないが、答は林葉直子さん。
1990年度、王座戦の畠山鎮四段戦で見せた、なんともユニークな形なのである。
林葉さんというと、正直なところスキャンダルのイメージが強いかもしれないが、女流棋士だったころは、非常に才気あふれる将棋を指していたもの。
また、そのビジュアルや文才など、幅広い魅力を持った人気棋士だったのだ。
そんな彼女は「初手▲36歩」など、独特の戦型レパートリーを持っていたが、中でも目を引くのがこれだろう。
飛車を振ったあと、相手が左美濃にしたら、すかさず振り戻して玉頭をねらう。
プロの序盤はこまかくて、むずかしいことも多いが、これはわれわれアマチュアにもわかりやすいどころか、すぐにでも実戦で使えそうではないか。
林葉さんは才能型なので、あまり深い研究があったわけではなかったのか、畠山鎮にしっかりと受け止められ完敗した。
とはいえ一見奇襲のようでも、相手の一番うすいところを攻めるという意味では理にかなっており、きわめて論理的な発想ともいえる。
この指し方が、矢倉一辺倒で(いつの時代もプロ将棋は同じ戦型に偏りがちなのだ)同じ形の将棋ばかり取材させられていた、観戦記者たちの心にヒットした。
ある記者が、
「一回振った飛車が同じ位置に戻るから《ブーメラン飛車》と呼んではどうか」
そう提案したのを受け、別の記者も、
「振り飛車を、もう一回振るわけだから《フリフリ飛車》というのも捨てがたい」
これには発案者の林葉さんが、
「フリフリ飛車がかわいくていいですね」
ここに新戦法「フリフリ飛車」が誕生したのだ。
この作戦は単なる一発ねらいではなく、同じ年の女流棋戦でも採用し、中井広恵女流王位に勝っている。
で、なんとこの将棋を、藤井猛九段は指しているのだ。
以下、河口俊彦八段の『対局日誌』から(改行引用者)。
序盤の藤井君の作戦は奇想天外。左美濃に対し、1筋に飛車を回して、1筋、2筋の歩を交換。つづいて銀冠の銀を棒銀形にくりだした。
後で「変な手を考えるね。研究してあったの?」と訊くと
「いや、その場の思いつきです。林葉さんがあんな形を指していましたね」
藤井君はケロリとしていた。そうなんだ、かねてから林葉さんはセンスがいいと思っていた。
明らかに、「フリフリ飛車」のことだ。
この将棋が1995年で、なんとあの伝説の井上戦の5か月前のこと。
ちなみに、こういう形。
たしかに、林葉さんの影響が見える。
藤井システムには、本当にさまざまなアイデアが組みこまれている。
こういう将棋を(また女流だからといって)見逃さないセンスもさすがだ。
さらにおどろいたことに、あの羽生善治九段もしばらく後にこの「フリフリ飛車」を指している。
1996年3月の全日本プロトーナメント(今の朝日杯)準決勝。
相手は屋敷伸之七段。
結果は羽生が逆転で敗れたが、△85歩の玉頭攻めがきびしく、中盤以降はずっと必勝形だった。
このシーズンは羽生が「七冠王」を達成した年で、羽生七冠も優秀と認めるフリフリ飛車。
注目すべきは、この年の羽生は七冠の他にも、NHK杯と早指し選手権も優勝していたこと。
つまり、この全日プロを取ればタイトルだけでなくトーナメントも全冠の、グランドスラムならぬ「ゴールデンスラム」達成だったのだ。
七冠にくわえての、さらなる大記録(今思い返しても、ちょっと信じられないよ……)をかけて採用したのが、この「フリフリ飛車」。
羽生が、決して伊達や酔狂で選んだわけではないことが、おわかりいただけるだろう。
ちなみに、このとき決勝で待っていたのが藤井猛六段だった。
実は藤井も、この屋敷戦とまったく同じ形を構想していたのだが、羽生に先に指されてしまい、おどろいたそうだ。
以上の経緯が、「藤井システム」に影響をあたえた「フリフリ飛車」という存在だ。
将棋の戦法は、こうして玉突きや、キャッチボールをくり返しながら進化していく。
よく冗談で、
「将棋の戦法に著作権があれば、藤井猛は御殿をいくつも建てている」
なんていわれるけど、もうけそこなってる藤井九段にはもうしわけないが、将棋の発展とファンの楽しみのためには、そうならなくてよかったところはあるだろう。
実際、藤井九段がよく振り飛車党の後輩に、
「もっと、藤井システムやってよ」
なんて言うのも、冗談めかしてはいるが、こういう進化の歴史を身をもって体感していることも大きいに違いない。
(久保利明のさばき編に続く→こちら)
(藤井猛の華麗な終盤戦は→こちら)
(先崎学の語る藤井猛の天才性は→こちら)