「おいおい、藤井猛九段と女のフリフリの話って、なんやねん」
先日、近所の立ち飲み屋で、そんなことを言ったのは将棋ファンの友人エビエ君である。
あー、あれね。あったなあ。
前回まで私は竜王時代の藤井猛九段と、それにまつわる「一歩竜王」というキーワードについて書いた(→こちら)。
そこで、世にいう「藤井システム」というのは、奥に深遠な研究があり、その歴史がすこぶるおもしろいのだが、そこに
「あの女性のフリフリ」
が関わってくるとは知らなんだ。
といったことを書いて、あとはそのまま忘れていしまったのである。
というか、今さら取り上げるのがめんどいので、忘れたままでいたかったものだが(将棋ネタは楽しいけど、調べものなどが、ちょっと手間なのです)、つっこまれたらしょうがないといううことで、ここに説明してみたい。
「藤井システム」というのは、
「居飛車穴熊に組まれる前に、攻めつぶす戦法」
というのが、一般的なイメージである。
かくいう私自身、特に疑問もなくそう思っていたのだが、藤井猛九段のインタビューや各種将棋の本を読んで、実はもっと奥の深い思想があったことを知ったのである。
くわしいことは各種「藤井システム」の専門書などを参照してほしいが、ここで簡単に流れだけでも、説明してみたい。
まず「藤井システム」のスタートは、穴熊ではなく「左美濃」攻略からはじまった。
システム前夜の将棋界では、腰の重い棋風の森下卓九段や高橋道雄九段、南芳一九段といったところが、左美濃で勝ちまくって、振り飛車党は激減していたのだ。
そこでまず、藤井猛は、ここをつぶすことにする。
得意の「タテの突破力」を生かして、▲87玉型の天守閣美濃を、玉頭攻めで攻略することに成功したのだ。
1994年棋聖戦 藤井猛vs室岡克彦 これが「藤井システム」の基本図
左美濃を玉頭から攻めるのは、奨励会時代の杉本昌隆八段が指していたそうだが、そこから藤井猛は独自に研究を進めていく。
そして、△83金という新手を編み出し、ここに対左美濃の、必勝定跡を生み出す。
これがなんと74手目で、勝又清和七段の連載記事をはじめ、当時この図はあらゆるところで取り上げられたもの。
ここまで事前に研究し、あらゆる膨大な変化をつぶして登板させたとあっては、プロでも恐れをなすというものだ。
上の図の、さらに3か月後の将棋で、またも室岡を圧倒。これで左美濃は完全に崩壊
その破壊力に恐れをなした居飛車党の面々は、あわてて穴熊に避難するが、それは我々もおなじみの「居玉で攻めつぶす」形で破壊する。
囲う形を徐々に減らされ、やむをえず竜王戦の羽生のように急戦を選択すると、それこそが藤井猛のねらいだった。
藤井猛九段といえば、振り飛車の達人であった、大山康晴十五世名人に傾倒していることで有名。
このあたりは藤井九段と鈴木宏彦さんの共著『現代に生きる大山振り飛車』という本(超名著です!)にくわしいが、そういうこと。
その真の狙いは、相手の選択肢をひとつずつせばめていき、その網をしぼった先にある、居飛車急戦の土俵に誘いこむことにあったのだ。
本や、将棋雑誌のバックナンバーをひっくり返しながら、そういった「藤井システム・サーガ」をひとつひとつ読み解いていくと、
いくら藤井猛が、すぐれたクリエイターとはいえ、そこに「触媒」がなければ錬金術も生まれない。
左美濃攻略の先駆者である杉本八段は、序盤で▲15歩と端を突き越す形も昔から指していた。
居飛車穴熊退治の猛威を振るった「スーパー四間飛車」。
対穴熊で桂馬をいきなり跳ねる攻撃は、あの井上戦の2か月前に行われた、竜王戦がつながっている。
「藤井システム」に羽生善治の影響があることは、藤井本人も語るところ。
もちろんこれらは単にマネしただけでなく、それこそ「居玉で攻める」など、画期的アイデアを加えて、自分のものにしている。
そんな中、左美濃対策で藤井が、ある将棋について言及していた。
まずは対局者の名前を伏せて見てもらおう。