マイクル・フリン『異星人の郷』 「ファースト・コンタクト」の意義とは

2020年11月18日 | 

 マイクルフリン異星人の郷』を読む。

 
 14世紀のある夏の夜、ドイツの小村を異変が襲った。突如として小屋が吹き飛び火事が起きた。

 探索に出た神父たちは森で異形の者たちと出会う。灰色の肌、鼻も耳もない顔、バッタを思わせる細長い体。かれらは悪魔か?

 だが怪我を負い、壊れた乗り物を修理するこの“クリンク人”たちと村人の間に、翻訳器を介した交流が生まれる。中世に人知れず果たされたファースト・コンタクト。


 地球人が、異星人と出会ったときの反応や、ハプニングを題材にする「ファースト・コンタクト」ものはSFの定番だが、この小説がめずらしいのは、その時代設定

 そう、なんと漂流してきた「クリンク人」と出会うのは、われわれ21世紀人でも、科学の発達した未来人でもなく14世紀

 いわゆる「中世ヨーロッパ」の世界に、生きる人なのだ。

 14世紀のヨーロッパ。

 といわれても、日本人にはなかなかイメージしにくいが、教科書的にはこちらの鎌倉から南北朝時代くらい。

 アヴィニョン捕囚とか、カペー朝が断絶したり、ハンザ同盟が生まれたり。

 ワットタイラーの乱があったり、ダンテが『新曲』を完成させたり、あとは百年戦争とか。

 なんか昔、受験勉強でおぼえさせられたなあなんて思い出しながら、やはりピンとこないけど、とにかく飢饉とかペストとかあって。

 カトリックの教義でやや息苦しく、魔女狩りも盛んで、俗に「中世暗黒期」と呼ばれる時代にあたるわけだ。

 そんな、宇宙人といえば、必然的に結び付けられる科学技術はもとより、モラルや価値観も今と違うどころか、ややもすると未発達と思われがちな時代に「ファースト・コンタクト」など、そりゃ、おもしろくないわけが、ないのである。

 とまあ、まずは設定から、グッとつかまれるわけだが、この『異星人の郷』のおもしろいところは、意外とお話の展開は地味ということ。

 魔女狩りや、ペスト全盛のころとなれば、異星人といえばすぐさま

 

 「悪魔だ」

 「殺してしまえ!」

 

 「野蛮な人々」が声をあげ、そこから争いや、悲劇が生まれるとかするのかと思いきや、わりとそこは、すんなりと受け入れられ、拍子抜けといえば拍子抜け。

 では、つまらないのかといえば、もちろんそんなことはなく、当時のドイツ庶民生活や、の描写が達者で惹きつけられる。

 また、そもそも中世の人が「異星人」というものを、本当にとらえきれているのかどうか、という周囲の反応などにも、そこはかとないユーモアも感じられて、そういったところが読みどころになっているのだ。

 つまりはSFとしてだけでなく、「歴史小説」としても、すこぶるスグレモノということで退屈だなんて、とんでもない!

 それには作者の力量や、時代背景への深い造詣にくわえて、主人公であるディートリヒ神父の存在に負うところが多い。

 歴史小説や、ノンフィクションを読むと、おちいりがちな定番のというのがあり、それは、どうしても現代の視点からすると、の人の考え方や行動が、

 

 「遅れている」

 「愚か」

 「野蛮」

 

 などと見えてしまうこと。

 でもそれは、あくまでわれわれが「歴史の結果」を知っているからであって、根本的には文化の違いもあり、それをベースに過去を判断するのはフェアではない。

 囲碁将棋をやっている人ならわかると思うけど、他人の対局で「好手」とか「悪手」というのは、から見てると、

 

 「こんなの、だれでもわかんじゃん」

 

 なんて簡単に思えるんだけど、「正解」を知らないで自分で考えてみたら、そこにたどり着くのは至難なのだ。

 そう、

 

 「歴史を現代の視点で裁いてはいけない」

 

 と言われるのは、「知っている」状態のわれわれが過去を断罪するのが、

 

 「模範解答を見ながら、だれかのテストの結果に説教する」

 

 というような、欺瞞を生む可能性が高いからなのだ。

 戦前戦中を舞台にした、NHK朝ドラにリアリティーがないことがあったり、福井晴敏終戦のローレライ』の最終章がトホホなのは、まさに、

 

 「昔の人間(登場人物)が、なぜか現代(作者と同時代)の知識や価値観でもって『彼ら彼女らにとっての今』を語っている」

 

 この罠におちいってるから。

 そら、そんなん、なんとでもいえますわね。偉そうにすんなよ、と。

 しかもその筋違い感に、書いている人が、まったく気がついていないところも苦笑を禁じ得ない。

 その点、この『異星人の郷』ではディートリヒ神父をはじめ、登場人物があくまで、その時代の価値観から飛躍することなく(もちろん完璧にではないだろうが)、それでいて今のわれわれから見ても、十分に共感できるだけの「倫理観」を提出している。

 そこが、読んでいて感心させられるところだ。

 そのベースにあるのは「論理学」。

 作中でも解説されるが、当時「暗黒」と語られがちなヨーロッパだが、そこで大きく発達したのが「論理学」だった。

 それを身につけ、誠実な思考を怠らない神父は、いわば時代を超えた普遍的な「知性」と「モラル」(と人間らしい弱点も)持っている人物なのだ。

 だから、このぶっ飛んだ設定の物語を託せるし、同時に「昔の人」や「暗黒時代の人」を今の視点から「愚か」と安易に断じさせない。

 人のやることや考えることなど、時代や場所を問わず、大して変わらない

 そのことを、説得力充分に、描きだしているのだ。

 そうして、また感動的なのはクライマックスだ。

 この物語は、クリンク人と、14世紀ドイツ人との交流と並行して、現代人のパートも語られる。

 そこでは歴史学者トムと、宇宙物理学者シャロンが、

 

 「あるとき忽然と姿を消したドイツの村」

 

 について、いがみあいながらも調査していくのだが、最後に過去現在のパートが結びつく瞬間、この物語の大きなテーマが明かされることになる。

 ネタバレになるので、そこはぜひ自分で読んでみてほしいけど、まさに人類、いやクリンク人もふくめた、生きとし生けるものすべてにとっての、願いであり、祈りであり、希望

 一言でいえば「ファースト・コンタクト」の意義と、それに対してわれわれがすべきことの答えがある。

 言葉にすると、なんてことないけど、それが様々な距離時代言語文化性差意志志向

 その他にも、多くの「差異」がまじりあうこの物語で、こんな見事な収束を見せられると、そこに大きく胸を打つものがある。

 過去と現代が交差するそのとき、トムとシャロンが取った行動には、これ以上ない、さわやかな感動を呼び起こされる。

 SFとは、まさに「このこと」を伝えるために、あるジャンルなんじゃないだろうかと、読み終えた本を閉じながら、思いをめぐらせたものだった。

 

 


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