「われわれ全員の仕事」について、ロシア文学者の沼野充義先生が

2021年12月31日 | ちょっとまじめな話

 「誇り高く生きる」しか、ないんじゃないかなあ。

 というのが、後輩諸君にできる、唯一のアドバイスかもしれない。

 私はいい歳して、頭に「ド」のつくボンクラであるが、それゆえかときに、同じような人種の後輩から、相談を受けることもある。

 そんな彼ら(ときに彼女ら)のことを、あれこれと考えていると、いつも結局は、ひとつの結論に行きついてしまうことになる。

 「負けるなよ、せめて誇り高く生きるんだ」と。

 悲しいことであるが、この世界には人の尊厳を踏みにじることが、人生の喜びであるという人が存在し、それが後輩諸君の「相談」で頻出する。

 私自身は、こういう人を、できるだけ避けて生きてきた。

 そして、たまさか、彼ら彼女らのような人に出会うと、こうも思うのだ。

 「そういう人に、決して負けてはいけない」と。

 ここでいう負けるとは、一般的な「勝ち負け」ではない。

 たとえば、その「踏みにじる人」が自分よりも偉かったり権力があったり、金持ちだったりしても、そんなことはどうでもいい。

 そういう人に試合で負けたり、成績が下だったり、モテなかったりしても、それだって、なんてことはない。

 ここで私がいいたい「負けるな」とは、

 「そういう人を見て、【自分も見習ってしまう】こと」

 これこそが、大いなる敗北なのである。

 キミにとって、そしてにとって負けなのはなにかといえば、そういう「踏みにじる人」を見て、

 「こういうのが、【賢いやり方】なんだ」

 と学んでしまったり、「踏みにじられた」屈辱感に耐えられなくなって、

 「自分の尊厳が踏みにじられたらなら、他のだれかの尊厳を踏みにじれば、この苦しさが軽減されるのだ」

 そう考えてしまうことだ。

 「この人がやったように」と。

 たとえば、暴力でなにかを強制されたとき、人は決して強くないから、

 

 「自分は暴力で支配された。ということは、暴力というのは支配に有効な手段(これは悲しかな事実である)なんだ」

 「こんな苦しみを自分だけが受けるのは不条理だから、他者にも同じ目に合ってもらわなくては帳尻が合わない」

 「でも、それをそのまま言うのはみっともないから、【おまえのため】とか【伝統】という言葉で糊塗しよう」

 

 とか、なることはある。気持ちはわかる。

 自分の感じた劣等性を、他者にスライドさせることによる自己欺瞞を土台にした、「屈辱感の軽減」は、下手な薬やはげましの言葉より、よほど効き目があったりする。

 でも、そういう姿を見ると、私は思うのだ。

 「それ、おまえ(オレ)負けだよ」と。

 それは大きな誘惑であるが、決してのってはいけない。

 そう、聖書(私はクリスチャンではないけど)に出てくる悪魔は決して、殺人や破壊を行わない。

 映画『ダークナイト』のジョーカーと同じだ。人を追いつめ、

 「自分が傷ついたなら、その代わりに他者を傷つければ、心が落ち着くぞ」

 そう誘いかけてくる。

 「悪魔」とは「誘惑者」の別名なのだ。

 だから、もし「負け」そうになってるキミにアドバイスをするとしたら、たとえ他で、世間的には負けに見える状態におちいっても、その「最終防衛ライン」だけは死守すべきだ、と。

 シュテファン・ツヴァイクだったか、ロマン・ローランだったかの本に、こんな言葉があったよ。

 

 「たとえ自身が堕ちようとも、奴隷商人にはなるな」

 

 たいした取り柄もない我々だけど、いやだからこそ、たとえなにがあっても、せめてそこくらいは、強がって生きよう。

 という話をすると、

 「それ、わかります」

 神妙な顔で、うなずいてくれる子もいれば、

 「ボクが聞きたいのは、そういうんや、ないんスけどねえ……」

 という顔をする子もいる。

 中には、こう問う者もいる。

 「話はわかりました。じゃあ、どうしても耐えられない不条理に出会ったとき、具体的にどうすればいいんですか?」

 これにはたぶん、ロシア・スラブ文学者である沼野充義先生の言葉が「正解」だろう。


 どんなに、おそろしい同調圧力のもとにあっても、心の中ではそっと不同意の姿勢をつらぬくこと

 そして、大声を張り上げなくてもよい。小さな大事なものを、そっと守り続けること。

 それはおそらくですね、文学に携わるわれわれ全員の仕事ではないかと思うのです。

 

 それをやったとて、人生において、たいしたプラスはないのかもしれない。自己満足と言われれば、それまでだろう。

 でも、だれかのそういう姿を見ると、そこに、かすかな希望の灯がともる。

 そして、いつもかどうかは、わからないけど、たまになら、本当に何回かに一回でも。

 ささやかな誇りを「そっと守り続ける」ことが、できるのかもしれないという、強い力が湧いてくるのだ。

 

 


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