「誇り高く生きる」しか、ないんじゃないかなあ。
というのが、後輩諸君にできる、唯一のアドバイスかもしれない。
私はいい歳して、頭に「ド」のつくボンクラであるが、それゆえかときに、同じような人種の後輩から、相談を受けることもある。
そんな彼ら(ときに彼女ら)のことを、あれこれと考えていると、いつも結局は、ひとつの結論に行きついてしまうことになる。
「負けるなよ、せめて誇り高く生きるんだ」と。
悲しいことであるが、この世界には人の尊厳を踏みにじることが、人生の喜びであるという人が存在し、それが後輩諸君の「相談」で頻出する。
私自身は、こういう人を、できるだけ避けて生きてきた。
そして、たまさか、彼ら彼女らのような人に出会うと、こうも思うのだ。
「そういう人に、決して負けてはいけない」と。
ここでいう負けるとは、一般的な「勝ち負け」ではない。
たとえば、その「踏みにじる人」が自分よりも偉かったり、権力があったり、金持ちだったりしても、そんなことはどうでもいい。
そういう人に試合で負けたり、成績が下だったり、モテなかったりしても、それだって、なんてことはない。
ここで私がいいたい「負けるな」とは、
「そういう人を見て、【自分も見習ってしまう】こと」
これこそが、大いなる敗北なのである。
キミにとって、そして私にとって負けなのはなにかといえば、そういう「踏みにじる人」を見て、
「こういうのが、【賢いやり方】なんだ」
と学んでしまったり、「踏みにじられた」屈辱感に耐えられなくなって、
「自分の尊厳が踏みにじられたらなら、他のだれかの尊厳を踏みにじれば、この苦しさが軽減されるのだ」
そう考えてしまうことだ。
「この人がやったように」と。
たとえば、暴力でなにかを強制されたとき、人は決して強くないから、
「自分は暴力で支配された。ということは、暴力というのは支配に有効な手段(これは悲しかな事実である)なんだ」
「こんな苦しみを自分だけが受けるのは不条理だから、他者にも同じ目に合ってもらわなくては帳尻が合わない」
「でも、それをそのまま言うのはみっともないから、【おまえのため】とか【伝統】という言葉で糊塗しよう」
とか、なることはある。気持ちはわかる。
自分の感じた劣等性を、他者にスライドさせることによる自己欺瞞を土台にした、「屈辱感の軽減」は、下手な薬やはげましの言葉より、よほど効き目があったりする。
でも、そういう姿を見ると、私は思うのだ。
「それ、おまえ(オレ)負けだよ」と。
それは大きな誘惑であるが、決してのってはいけない。
そう、聖書(私はクリスチャンではないけど)に出てくる悪魔は決して、殺人や破壊を行わない。
映画『ダークナイト』のジョーカーと同じだ。人を追いつめ、
「自分が傷ついたなら、その代わりに他者を傷つければ、心が落ち着くぞ」
そう誘いかけてくる。
「悪魔」とは「誘惑者」の別名なのだ。
だから、もし「負け」そうになってるキミにアドバイスをするとしたら、たとえ他で、世間的には負けに見える状態におちいっても、その「最終防衛ライン」だけは死守すべきだ、と。
シュテファン・ツヴァイクだったか、ロマン・ローランだったかの本に、こんな言葉があったよ。
「たとえ自身が堕ちようとも、奴隷商人にはなるな」
たいした取り柄もない我々だけど、いやだからこそ、たとえなにがあっても、せめてそこくらいは、強がって生きよう。
という話をすると、
「それ、わかります」
神妙な顔で、うなずいてくれる子もいれば、
「ボクが聞きたいのは、そういうんや、ないんスけどねえ……」
という顔をする子もいる。
中には、こう問う者もいる。
「話はわかりました。じゃあ、どうしても耐えられない不条理に出会ったとき、具体的にどうすればいいんですか?」
これにはたぶん、ロシア・スラブ文学者である沼野充義先生の言葉が「正解」だろう。
どんなに、おそろしい同調圧力のもとにあっても、心の中ではそっと不同意の姿勢をつらぬくこと
そして、大声を張り上げなくてもよい。小さな大事なものを、そっと守り続けること。
それはおそらくですね、文学に携わるわれわれ全員の仕事ではないかと思うのです。
それをやったとて、人生において、たいしたプラスはないのかもしれない。自己満足と言われれば、それまでだろう。
でも、だれかのそういう姿を見ると、そこに、かすかな希望の灯がともる。
そして、いつもかどうかは、わからないけど、たまになら、本当に何回かに一回でも。
ささやかな誇りを「そっと守り続ける」ことが、できるのかもしれないという、強い力が湧いてくるのだ。