日本を知るには外国旅行を! バックパッカーによる、絶対的相対主義者の愛国論

2017年06月28日 | ちょっとまじめな話
 不肖この私は愛国者である。

 などとはじめると、

 「日本はやっぱり、世界に冠たる美しい国だよね! 隣国になめられないため、憲法改正サイコー!」

 などと肩を抱かれたり、夏休みの課題図書に夏目漱石や太宰治と並んで、マルクス&エンゲルス『共産党宣言』が入っていた我が母校大阪府立S高校の恩師たちに、

 「あなたはファシストに魂を売ったんですか? 自己批判してください!」

 なんて総括されたりするかもしれないが、もちろんのこと、政治などまったく無知であるスーパーノンポリ野郎の私が、そんなめんどくさい議論に発展しそうなことなど言い出すはずはない。

 ここに「愛国」というのは、そういった暑苦しい話ではなく、自分が「旅行好き」であることから生まれた思想だ。

 「旅は人を賢人にしない」という言葉がある通り、人はちょこっと海外に出たくらいではたいして利口にもならないし、人生観も変わらないもの。

 なので「OLの語学留学」とか「自分探しの旅」とか「ワーキングホリデー」に過大な期待は禁物だが、私の場合、阿呆なりにひとつ学べたかなと思えることろもないことはなく、それが、

 「自分は日本人である」

 という自覚だ。

 などというと、ずいぶんと殊勝なようだが、実際のところはもう少しフワッとしているというか、

 「あーそっかー、オレって日本人なんやなー」
 
 くらいのやわい温度というか、ともかくも、ふだんはほとんど気にすることもない、

 「自分の中にある日本人性」

 みたいなものに、なーんとなくではあるけど、向き合うこととなるわけだ。

 「なんとなく」なんていうとますます阿呆のようだが、でもこの当たり前のことが実感できるようになったのは、本当にバックパック背負って世界を旅するようになってからのこと。

 外国に出ると、異国の文化や言語など、さまざまなカルチャーギャップに接することになる。

 それは時として感激することもあったり、時としては幻滅を味わされることもあるわけだが、その過程でそれを、どうしても日本とくらべることが多くなる。

 そうすると、日本のいいところが見えてくる。

 やはり日本人はまじめで勤勉だし、街はきれいだし、人もシャイだから伝わりにくいときもあるけど、おおむね親切である。

 日本製品は信頼性も高いし、教育レベルも高いし、特に治安の良さはすばらしいものがあるではないか。

 なぜかテレビのワイドショーなどでは、

 「日本の治安は悪化している」

 なんてデマゴーグもいて、なんでウソをついてまで自国をおとしめようとするのか、それこそ「愛国」的に憤ったりもするけど、女性や子供が夜でも一人で歩いて安心というのは、これは世界的に見てもすごいことであり、どれだけ誇っても誇り足りない。

 と同時に、日本人の悪いところ、とまではいわないが、まあ改善点らしきものも見えることもある。

 清潔だったり、時間に正確なのはいいけど、ちょっとこだわりすぎでしんどいときもあったり、勤勉や自分にきびしいことも、その意図はなくても「結果的に」ブラック企業に加担するハメになっていたり。

 人間関係は村社会で時に窮屈だし、西欧ものに迎合しすぎるし、女性の社会進出もまだまだだし、ネット上での人種差別発言には暗澹たる気持ちにさせられることもあるし、大学は学費高い割にはたいして行く意味ないし……。

 などなど、「だよねえ」と苦笑する点も多いわけである。

 こういうことについては、

 「そんなん、日本におってもわかるやん」

 と思われる方もおられるだろうが、それが案外そうでもない。

 人間、その中にいるとどうしても独りよがりになりやすいし、身びいき、もしくは身内ゆえの「近親憎悪」なんて入ったりして、なかなか「公平な視点」(にできるだけ近いもの)で自分たちを見ることは難しいのだ。

 いわゆる日本はなんでもダメだ的な「自虐史観」や、逆に最近はやりの「日本は世界に誇れるすばらしい国だ」的なテレビ番組が、なんとなくうさんくさいのも、

 「自分たちの目線と言葉でしか、自分たちを語っていない」

 この片手落ち感があるからだろう。

 その意味では、この件に関してはわれわれよりもハーフ(今は「ミックス」なのかな?)や肌の色などが違ったり、あと外国から移住してきた「日本人」の方が深く考察されているのかもしれない。

 常に差別や、マイルドな疎外感にさらされる彼ら彼女らは、「それが当たり前」の私たちより、もう少しばかり「自分と日本」の問題に敏感だろうから。

 そこを、こちらも一回外国に行って、そこの国の文化や言語に触れて、外国人から日本のことに興味を持たれたり逆に批判されたりして、今まで「当たり前」だった日本の文化風習が、

 「別に普遍性があるわけでもない、しょせんは広い世界の中のワン・オブ・ゼム」

 であることを自覚する。

 そうすると、もうちょっとばかし客観的に、自分の姿を見られるものなのだ。

 外国には、本当に多様な文化が存在する。

 「断食をする月が存在する」

 「多民族、多言語文化が共存している」

 「中央政府に対抗して武装することが憲法で認められている」

 みたいなこちらでは考えにくいシチュエーションを様々観ることによって、マイルドにとはいえ「絶対的」だった自分にとっての日本が、一度「相対化」を余儀なくされる。

 「ウチとはぜんぜん違うけど、ここではそれが当たり前。ということは、逆もまたしかり」

 という感覚を体感する。

 外国に出ると、この作業が自然にできるようになる。

 そこではじめて、本当の意味で自覚するわけだ。
 
 「そっかー、オレってなんのかのいうても、日本人なんやなー」



 (続く→こちら



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