将棋界でもっともやりきれない「やらかし」は順位戦でのそれであろう。
人間だれしもミスはするものだが、そのときと場所によっては取り返しがつかないことがある。
将棋の世界では「大内の▲71角」のような、名人位を取り損ねたという悔やんでも悔やみきれない失策もあるが、それと同じくらい、いや場合によってはそれ以上にダメージがあるのが順位戦でのそれではないか。
今ではそうでもないらしいが、昭和の順位戦というは相当にかたよった棋戦で給料や対局料、シード権から、その他連盟内の政治的立場まであらゆるところで、クラスの差がモノをいったという。
若手時代の森下卓九段は勝ちまくっていた自分より、平凡な成績なのにクラスが上の中堅棋士のほうが何倍もの対局料をもらっていたことを知っておどろいたという。
また先崎学九段の本でも、その年の勝率一位の棋士より、その年ほとんど勝てなかった上位棋士のほうが年収が上だったというエピソードが紹介されていた。
当時の有名な言葉に、こんなのがあって、
「順位戦の1局は新聞棋戦の20局分だ!」
新聞棋戦とは今は使う人はいないが、要するに棋王戦とか新人王戦のような「順位戦以外の棋戦」のこと。
いやいや順位戦も別に新聞社が主催しているんだから、随分とおかしな言葉であるけど、それもあながち極論ともいえなかったほど、この棋戦には良くも悪くも特別感があった。
それはまさに、のちにA級にまで昇ることになる森下、先崎の両者がC2時代のことを「地獄の日々だった」と回想することからも伝わってくる。
「Cクラスから上がれない」
これは金や地位に名誉だけでなく、閉塞感、憤懣、非条理、不公平、自虐や自己嫌悪などをまぜこぜにしたような、もっと大きな精神的負荷を棋士たちにあたえるのだ。
1989年、第47期C級2組順位戦。井上慶太五段は8勝1敗の好成績で最終局をむかえた。
デビュー当時から期待されていた井上だが、この順位戦ではなかなか爆発できず、初参加から7-3・8-2・6-4・6-4・7-3と好成績を残すも昇級までは結びつかなかった。
とはいえ、もともと力はあるわけで、この年も1敗をキープし2位につけ自力の権利を持ったまま快走。
最終戦の木下浩一四段に勝てば、文句なしにC1昇級が決まるところまでこぎつけた。
将棋の方は、木下が先手で相掛かり。井上が攻めを強く呼びこみ、激しいたたき合いに。
猛攻が一段落したところから、井上が反撃に出て終盤を優勢に進める。
▲84角の攻防手に△56歩と突くのが急所中のド急所で、▲88の壁金も痛く、一目後手の攻めが筋に入っている形。
▲同歩に△57銀と打ちこんで、▲79玉に△48銀不成と飛車を取る。
▲78金と壁を解消して手数を伸ばそうとするが、△69銀が
「玉の腹から銀を打て」
の格言通り。
こういう教科書通りの手がスムーズに入っていくというのは、すでに局面が決定的という証拠。
▲68金に△58飛と打って、先手玉は受けなしだ。
手段に窮した木下は▲62角成と切って、△同玉に▲82竜と王手。
いわゆる「最後のお願い」という手だが、ここではハッキリ後手勝勢で、先手のラッシュは「形作り」の域を出ない。
ふつうに△63玉とでもかわしておけば、敵は戦力不足なうえに上も抜けていて、これ以上の攻めはない。
一方、先手玉は放っておけば△68飛成と取って、▲同玉に△78金まで。
▲69金と銀を取っても△88金で詰み。
▲69玉と取っても、△59飛成、▲78玉に△79金から△68竜と王手しながらボロボロ駒を取っていけばいい。
見事な寄せで、1枠は決まりと皆が確信したところで事件が起こった。
竜の王手に、井上が△72金と打って合駒したのだ。
竜をしかりつけて自然な手に見える。▲73に角や銀を打っても詰みはなく、竜が逃げれば△68飛成でおしまい。
ところがこれが、9分9厘手中におさめていたはずの、C1行きの切符を失うウルトラ大悪手だった。
よく見るとこの局面、完全に後手がすっぽ抜けている。
なんと、金を手放したばっかりに……。
▲73角、△52玉に、ここで▲58金と取れるのを井上はウッカリした。
△72に金を使ってしまったばっかりに、ここで後手の攻めがまったく頓挫している。
いうまでもなく、金を手持ちにさえしておけば、△78に頭金で詰みだ。
頭がまっしろになったろう井上は△46角と打つが、▲69玉、△82金に▲62飛から王手の連続でこの角をはずされて勝ちはない。
まさかの大逆転で、井上は昇級を逃してしまう。
この期のC2は波乱のリーグで、トップの森下卓五段こそ最終戦を勝ったが、2番手の井上、3番手の沼春雄五段、キャンセル待ち1番手の石川陽生四段と立て続けに敗れたのだ。
その結果、上位2敗の日浦市郎五段と佐藤康光四段が大逆転で昇級。
のち新人王戦で優勝する日浦もさることながら、名人にまで登り詰めた佐藤康光にとっては、結果的に見て、とんでもなく大きな幸運となった。
この逆転劇には後日談がある。
大一番をまさかの「一手バッタリ」で落としてしまった井上は、その後浴びるように酒を飲み、ただ泣いて暮らした。
本人によると「将棋をやめよう」と本気で考えるほどに、思いつめたという。
そこに一通の手紙が届いた。差出人は兄弟子である谷川浩司名人だった。
そこには、こう書かれていたという。
残念な結果になってしまったけど、報われない努力というのはないと思う。決して悲観する事はない。自信を持って臨めば来期は絶対上がれる。
この手紙の文面は有名で、よく
「谷川は井上に【報われない努力はない】とはげまし」
と紹介されていることが多いが、私が目を引かれたのは、そこに続く「思う」というフレーズだ。
大人になれば、いや、ならなくても別にわかることだが、世の中には「報われない努力」なんて山ほどある。
谷川だってそんなことは承知だ。だから報われない努力はない「と思う」と書いたのだろう。
ここは文脈的には「報われない努力はない」と断言する方が自然であり(実際その次の井上の未来については、この確実であるはずないものを「絶対上がれる」と書いている)、その弟弟子をはげましたいという気持ちも伝わるのではないか。
そこを、そうしなかったところこそ、まだ10代だった私は胸を打たれた。
世間に伝わりやすい、ときに【感動】も呼びやすい「報われない努力はない」よりも、
「報われない努力はないと思う」
この歯切れの悪さこそに、きびしい淘汰の世界に生きる、谷川浩司の精一杯の誠実さを見た気がしたからだ。
あふれる涙をぬぐいながら、井上慶太はこの手紙を何度も読み返したという。
次の年、井上は8勝2敗の成績で昇級を決め、7年目にしてようやくC2脱出。
その後、C1でも9勝1敗の頭ハネをくらうなどで4期かかったものの、B2は2期、B1は1期抜けで、A級まで昇りつめるのである。
(井上のA級での戦いに続く)
(郷田真隆のA級昇級の一番での大ポカはこちら)
(先崎学の泥沼C2時代の大ポカはこちら)
(その他の将棋記事はこちらからどうぞ)
C1、C2の巻物みたいな表を見るだけでウンザリします。
三段リーグといい、有望な若者を下位に留め置いておくことが、将棋界の発展にプラスになるとはとても思えないんですけど、どうせ変わらないんでしょうね。