「矢倉は先に攻めたほうが有利」
というのは、平成の矢倉戦でよく聞いた言葉である。
それは多少の損など気にしなくてもよいらしく、一時期あった
「銀損定跡」
など、銀を丸一枚損しても、バリバリ攻めていったりするのだから、ほとんど「穴熊の暴力」みたいなノリである。
2012年の王座戦第4局。あの伝説の「△66銀」による千日手を受けての指し直し局。
序盤ですでに、銀を一枚くれてやる気前の良さだが、ここから▲35歩、△55金に、じっと▲34歩と突くのが、佐藤天彦九段が披露した格調高い手で、以下端からどんどん攻めて先手が圧倒。
ところが上には上がいるもので、銀損を超えた、もっとすごい形で突貫する乱暴者もいる。
前回までは、大山康晴十五世名人の引退にまつわるドラマを紹介したが(→こちら)、今回は激しい矢倉戦を紹介したい。
2002年、第50期王座戦の第1局。
羽生善治王座と、佐藤康光棋聖・王将との一戦。
佐藤の先手で相矢倉から、おなじみの▲46銀&▲37桂型に組んで先攻。
先手は3筋から銀をぶつけていくが、後手もその銀で、相手の攻め駒を責めていく。
むかえたこの局面。
後手が△28銀成としたところ。
まだ戦いがはじまったばかりなのに、すでに先手の飛車がお亡くなりになっている。
教科書だと「これにて攻めが失敗」の図であって、先手陣は端にもアヤがついており、このままだと苦しそう。
が、これが指しているのが佐藤康光となれば、そんな簡単に決まるわけもない。
ここで冒頭の一文を、思い出してほしい。
とにかく矢倉は……。
▲12歩成、△同香、▲15香が、すごい手順。
なんと「銀損定跡」どころか、飛車を一枚、まるまるあげてしまおうという手だ。
まともな感覚なら、苦しまぎれの「バンザイアタック」にしか見えないが、佐藤康光はここをねらっていた。
後手も△18成銀と取るしかないが、▲12香成、△同玉に、▲33歩と打つのが痛烈な一発。
まるで、撃たれてもかまわず、ナイフで腹をえぐりにくる、ヤクザの鉄砲玉のようだが、おそろしいことに、なんとこれで後手は受けが難しい。
△同桂は▲13角成、△21玉、▲12銀で詰み。
金で取るのは、どちらでも▲13銀と浴びせ倒しを食らって、とてもしのぎ切れないだろう。
そう、これが「緻密と見せかけて乱暴」という、佐藤康光のバイオレンス将棋である。
こんな負かされ方をしたら、相居飛車の後手番なんて、やってられへんわ!
なんて、ふてくされたくなるなところだが、そこは天下の羽生善治である。
ここで見事な受けを披露し、猛獣佐藤のかぶりつきを、ヒラリとかわしてしまうのだ。
△22玉と寄るのが、思わず「え?」となる手。
いや、金タダなんスけど……と心配はご無用で、もちろんこれは、後手の読み筋。
先手はもちろん、▲32歩成と取るが、それを△同玉と、取り返した形を見ていただきたい。
△32の金と言えば、矢倉囲いのカナメ駒であり、急所中の急所。
その守備隊長を、こんな形でボロっと取られて大丈夫なのかといえば、次にきびしい攻めが存外ないというから、おどろきである。
だいたいが、むこうは飛車損で攻めているのだから、これでもまだ後手が駒得だし、先手は歩切れなのも痛い。
しかも、後手玉は左辺が広く、手順にそちらに逃げているのが大きいのだ。
ここで先手の次の手が、▲97桂なのだから、羽生の判断が正しいことがお分かりであろう。
この▲97桂というのは、実にさみしい手で、いわば
「自分の攻めは間違ってました。読み負けてました。完敗です。もう一回、やりなおさせてください」
というもの。つまりは土下座である。
ここは、理想を言えば先手先手で攻めまくって、その反動で相手にも駒を渡すけど、
「最後に▲97桂と取る手が、一歩を補充しながら自陣を安全にする【詰めろのがれの詰めろ】になってピッタリ」
みたいになればいいなとか、そんな流れを想像してみたくもなるところ。
それを、攻めが切れそうだから「勘弁してください」と▲97桂としなければならないとは、あんまりといえば、あんまりな展開である。
さらに数手進んで、この▲12銀という手を見れば、いかに羽生の対応がすばらしかったかがわかる。
土台がヨレて、今にもペシャンコにされそうな先手陣にくらべて、後手玉は広々として、手のつけようがない。
この銀打ちも、後手が左辺に逃げていくのが見え見えなのに、反対から攻めていくなど無筋にもほどがあるのだが、それ以外に手がないのだ。
佐藤康光ほどの使い手が、こんな空を切ったパンチを打たされる。
それだけ、羽生のしのぎが際立っていたということだ。
逆に言えば後手は△22玉という好手がなければ、そのまま持っていかれた可能性は大なわけで、その意味では攻めが通るかどうかは、まさに紙一重。
達人クラスでなければ、あそこからわずか数手で、後手が投了してもおかしくなかったのだ。
それを見切った羽生が、やはりすごすぎである。以下、△97香成、▲同歩、△95桂と上部から押しつぶして圧勝。
その後もゆるまず3連勝で、三冠をねらった佐藤康光の野望を打ち砕いたのであった。
(藤井猛を脱帽させた羽生善治の受け編に続く→こちら)