将棋の終盤戦はおもしろい。
前回は谷川浩司と羽生善治の「十七世名人」をかけた名人戦を紹介したが(→こちら)、今回は昭和のトップ対決を取り上げたい。
将棋で好手を指摘して、颯爽と去るシチュエーションにはあこがれるもの。
会社の昼休みや、クラブ合宿の夜ふかしで仲間が指しているのを観戦後、対局者が
「全然わからんかった」
「こっちに勝ちがありそうやったけどなあ」
なんてボヤいているときに、
「最後、金捨てて桂打てば、詰んでたでしょ」
なんて、さりげなく言って、
「おお! ホンマや!」
「すげえ、よう見えたな」
なんて感嘆されたりすると、これがなかなか気分のいいもの。
そんなカッコイイ話というのは、将棋の強い人には当然あるもので、舞台は1981年の棋王戦挑戦者決定戦。
大山康晴王将と米長邦雄九段の一戦で、大山の四間飛車に米長は得意の玉頭位取りで挑む。
2筋から飛車をさばいた大山に対して、飛車角を捨てて中央を突破する構想がうまかったようで、米長に勝ちがありそうな終盤。
この局面を見ると、まずだれでも▲71銀と打つ筋から考えるだろう。
△92玉に、▲95歩と突くのが、「端玉には端歩」の手筋ドンピシャ。
問題はこの一瞬が甘いから、後手から△69と、と入る筋が詰めろかどうか。
△79角や△78竜と切る筋など、先手玉はいかにも危ないが、これは上部が厚くて意外と大丈夫なよう。
なら先手が勝ちと思いきや、将棋の終盤というのは難解なもので、▲71銀、△92玉、▲95歩、△69と、▲94歩のときに、△96桂と打つ罠がある。
▲同香は△79角と打って、▲77玉に△78竜と金を取る。
▲同玉は香をつり上げた効果で、△98飛と打てば詰み。
△78竜と金を取られたとき、取らずに▲86玉と逃げるのには△84飛と打って、手順は長いが比較的容易な詰みになる。
かといって、△96桂の王手に▲97玉とかわすと、今度は▲99にいる香の利きが桂馬と王様でさえぎられてしまう。
こうなると▲93金が打てず、後手玉の一手スキがほどけてしまうのだ!
これには、ゆうゆう△78竜と取られて、先手が勝てない形。
おどろいたことに、単純な▲71銀では通じない局面なのだ。
とはいえ、この形で先手が負け、というもの考えにくい。
後手玉が丸裸なのに比べて、自陣は金銀4枚の鉄壁だし、攻撃では持ち駒に金銀3枚にと金まである。なんとかなりそうなものだ。
ところが、これがなかなか勝てない。
控室でも、検討しているプロがあれやこれやといじくってみるが、やはりスッキリした手順が発見できない。
あまりの難解さに、「わっかんねー」と検討陣もサジを投げたが、ここで真打が登場するのはA級棋士で、王位挑戦経験もあった勝浦修八段だった。
横で碁を打っていた勝浦は、検討している盤をちらりと一瞥すると、
「そういうところは、▲64歩と突くんじゃないの」
一言いい残し、そのまま出ていったそうである。
▲64歩。
なんじゃそりゃ。
それは詰めろでもなんでもないどころか、△69と、とされて、もう一手▲63歩成としても、まだ詰めろでない。
まるで亀の歩みのような、のろすぎる攻めではないか。
ならここで詰めろどころか、二手スキ(次に詰めろが行く状態のこと)の連続でせまられたら負けである。
ところが、勝浦推奨のこの▲64歩こそ先手の勝ちを決定づける、すばらしい手だった。
なんと、△69と、▲63歩成の場面で、後手がどうやっても先手玉に詰めろが来ないのだ!
つまりは△96桂の切り札さえ発動させなければ、先手陣は意外なほど強度があって、△79角とか△78竜があっては信じられないけど、「牛歩戦術」で間に合う。
「端玉には端歩」の格言が、ここでは逆に検討陣の目くらましになったのか。
端攻めはNG。
いや、むしろこんな形なのに、端さえ突かなければ勝ちとは、まったく不思議な局面だった。
果たして米長は、勝浦の言う通り▲64歩と突いた。
△69と、▲63歩成に、大山は△86桂とアクロバティックな手を見せる。
私レベルの素人なら、心臓が止まりそうになる一撃だが、すでに両対局者たちは読み切っているから、これは「形作り」である。
▲同歩ならトン死だが、放っておけばこれが詰めろではないので(マジか!)、▲73と、と取って、△同玉に▲62銀、△63玉、▲53金、△72玉に、一回▲97玉と早逃げ。
そのままでも先手の王様は安全だが、△98飛のような、ひねった手を警戒したのだろう。
万にひとつ、逃げ間違いによるトン死も、これでなくなった。
ここまで用心されては大山もなすすべなく、△78竜と取るしかないが、▲71と、△82玉、▲81と、△同玉、▲73銀不成と上部を厚くしながら必至をかけて、ここで後手投了。
これで米長が、棋王への挑戦権を獲得した。
おもしろい終盤戦だったが、それにしても見事なのが、勝浦の手の見え方だ。
対局者ならまだしも、隣で呑気に碁を打っていた人が、一目見ただけで局面の急所を射貫く。
そして、最善の絶妙手を一言だけ残して、颯爽と去っていく。なんてシブい。
「カミソリ」と恐れられた勝浦九段の切れ味が、存分に味わえるエピソードだ。カーッコイイ!
(羽生善治と藤井猛の激闘編に続く→こちら)