銀が泣いている 坂田三吉vs関根金次郎 大正2年(1913年) 阪田七段歓迎会 その3

2022年02月16日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 前回(→こちら)の続き。

 関根金次郎八段のたくみな指しまわしに、苦戦を強いられている阪田三吉七段

 

 

 

 

 

 ▲94銀という、特攻を余儀なくされたこの局面こそが、かの有名な、

 

 「銀が泣いている」

 

 「南禅寺の決戦」における「初手△94歩」と並んで、阪田将棋の代名詞ともいえる1手なのだ。

 阪田自身の言葉によると(改行引用者)、

 


 「進退谷(きわ)まって出た銀だった。斬死の覚悟で捨て身に出た銀であった。

 ただの銀じゃない。それは駒と違う。阪田三吉が銀になっているのだ。

 阪田の魂がぶち込められたその駒が涙を流している。阪田が銀になって泣いている」



 
 
 思わず、「よ、浪花節!」とでも、合いの手を入れたくなるところ。

 情感たっぷりで、ややクサいところもあるものの、なるほど阪田が人気棋士だったのも、よくわかるという印象的な節回しだ。
 
 一見、どうしようもない銀のようだが、△94同香と取れば、▲95歩と突いて端から手を作れる。

 関根は△66歩▲86飛△83歩▲66飛△93歩と、歩で銀を取りに行くが、▲95歩と押し上げて、ギリギリ喰いついている感じだ。

 

 

 


 阪田によれば、△93歩では△84歩とされたら、非勢と見ていたそうだ。

 

  

 阪田が恐れた変化図。こうして、銀にさわらず無力化させたまま戦われると、先手は指しようがなかった。

 

 この銀は取るよりも、宙ぶらりんで遊ばせておく方が、先手は困ったのだろう。

 阪田は▲94の銀を、▲85▲96▲95と手の乗ってのステップでなんとか活用しようとするが、そこからまたも、▲86▲97僻地に追い飛ばされて、なかなかそれはかなわない。
  
 将棋は、どこまで行っても関根優勢のまま進んでいくが、流れが変わったのが、この局面だった。

 

 

 

 

 『将棋世界』の人気コーナー「イメージと読みの将棋観」でも取り上げられた、この将棋のハイライトともいえる場面。

 時刻はすでに、明け方7時(!)。

 「持ち時間」「封じ手」などというシステムも確立されていなかったころのことで、対局者も観戦者も疲れ切っているが、勝負は続行される。

 そして次の阪田の手が、流れを呼びこんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ▲48角と打つのが、乾坤一擲の勝負手。

 真部九段の筆によると(改行引用者)、

 


 私がこの棋譜を初めて知った子供の頃、意味は理解出来ないのだが、この角には感動した覚えがある。

 今でも良い手なのかどうかは分からないのだが、この将棋を巻き返してゆく原動力になった阪田渾身の角であることに間違いない。


 


 実際、「イメ読み」でも、ひとりを除いて全員が、ここで▲48角を(正確には△47歩のタタキを緩和して「▲39角」だが、ほぼ同じ意味)推している。

 プロレベルでは、善悪を超えてこの局面では、「この一手」なのだろう。

 まるで、升田幸三九段による「遠見の角」のようだが、この後、阪田は▲92香成、△同香、▲93歩、△同香、▲67飛という手順で、巧みに角を活用していく。

 「泣き銀」でアヤをつけられた端が、火を噴き始めた。流れは逆転である。

 そうして、押されたように、関根から失着が飛び出す。

 

 

 

 

 △66香と打ったのが、本人も認める「大失策」。

 次の手は▲75歩で、△73飛と逃げたところ、次に先手から、すばらしい返し技があった。

 

 

 

 

 

 

 


 ▲77金と、こちらにかわすのが妙手だった。

 ふつう、金と言うのは、王様の方向に近づけていくというのがセオリーだが、ここでは逆モーションで反対側に飛ぶのが正解。

 △同桂成と取るしかないが、▲同銀馬当たり

 馬を逃げると、▲66銀を取る手が気持ち良すぎるから、関根は△56金とせまるが、▲88銀を取れるのが大きすぎる戦果。

 

 

 

 

 なんと、阪田が「泣いている」と言った、あの銀が、ここにきて見事な活躍を見せたのだ。

 ▲88銀△同成香に、▲66角と勇躍切り飛ばし、△同金に▲74香と、眉間に合口を突き立てるのが激痛

 

 

 

 

 

 △同銀しかないが、▲同歩、△同飛に、▲93角が、作ったような王手金取り

 

 

 

 

 本当に将棋とは、いったん流れがよくなると、次から次へとクリティカルヒットが決まるようになる。

 まさに、「勝ち将棋、鬼のごとし」で、いかな関根金次郎でも、そのレールに乗せられてしまえば、どうしようもない。

 以下、阪田の寄せも正確で、熱戦に幕を下ろした。

 終局は、なんと翌日午後5時

 両者とも一睡もせず、実に対局時間は30時間を超えるという、まさに激闘であった。

 関根はその後、十三世名人に就くが、すでに全盛期は過ぎてのことだった。

 このことに悔いがあったことが、後の

 「実力制名人戦

 につながり、関根がそれを受け入れるという、大きな決断の後押ししたと言われている。

 一方の阪田は、関根との対戦成績を徐々に押し戻していくも、後援者の後押しなどから大阪で勝手に「名人」(「関西名人」と呼ぶ場合もある)を名乗り、東京将棋連盟から除名される。

 その後もスポンサーとのトラブルなどもあり、ますます将棋界での居場所を失う。

 それでもなんとか復帰の道を模索し、昭和12年(1937年)には世に名高い

 

 「南禅寺の決戦」

 「天龍寺の決戦」

 

 を木村義雄花田長太郎と戦うが、すでに年齢は66歳

 往年の力はなく、話題性のわりには、残念ながら棋譜も凡局であった。

 引退後の阪田は困窮生活の中、ほとんど忘れられたまま1946年に亡くなる。

 阪田の名が将棋界に、いや世間に復活するのは、没後まもなく世に出た舞台『王将』が、大ヒットしてからのことだった。

 

 (阪田と関根の「平手戦」に続く→こちら

 


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