前回(→こちら)に続いて、映画秘宝『日常映画劇場 映画のことはぜんぶTVで学んだ!』のはなし。
かつて東京12チャンネル(現テレビ東京)にて放送された、名もなきマイナー映画を熱く語るというこの本。
『メアリと魔法の花』や『相棒』が世間で取り上げられることなど、ものともせず、
『ペチコート作戦・セクシー潜水艦発進せよ』
『殺人ドーベルマン・残酷刑務所死の大脱走』
などを語り倒す本書は「男前」の一言に尽きる。
『恐怖の宙吊りロープウェー・ジャガーは跳んだ・大統領誘拐計画』
とか、タイトルが大盛りすぎて、どんな映画なのかサッパリわからない。
ロープウェーと大統領が、どう繋がるのか。ジャガーってだれ?
ただひとついえることは、この映画は間違いなく、タイトルが一番おもしろいはず、ということだ。
こうした作品群だけでも十分魅力的だが、12チャンネルの素晴らしいところは、その編集。
テレビはわざわざ「ノーカット版」と、うたうのが売りになるくらいなので、元来はカットや編集はつきもの。
しかも12チャンネルの場合は放送枠が90分、CMを考慮に入れると正味70分くらいで放送しないといけない。
そこで披露されるのが、独特の編集技術。
ストーリーの整合性など気にせず、バッサリやるのは日常茶飯事。
西部劇で劇中バリバリに生きていた奴が、CM明けにいきなり死んで、いなくなっていたりする。
もちろん、そこになんの説明もない。視聴者はどーんと置いてけぼりだが、
「とにかく、死んでもういないんだぞ、わかっとけよ!」
ということだけは伝わってくる、有無いわさぬ力業。
そこは各自「想像力でおぎなえ」ということか。なんとも男らしいハサミの入れ方だ。
編集の暴挙はこんな程度ではおさまらず、『ゾンビ』のラストシーンを改変(!)したり、カットしたところを声優さんにうまくつないでもらって、ほとんど別のストーリーに仕立て上げたり。
ヒドイのになると、ラストを丸ごとバッサリやって、お話の途中でストンと何のオチもなく、あたかも不条理劇のような終わり方をしたり。
『惑星ソラリス』を1時間20分にまとめるとか、『探偵スルース』をやはり70分におさめてしまうとか、「そんなご無体な」としかいいようのない荒技も見せてくれる。
『ソラリス』を80分! そんなん可能なんかいな。どうやって切り貼りするのか、想像もできない。
『探偵スルース』なんか、ミステリの、それも元は舞台劇だよ。
シーンのひとつひとつ、小道具の使い方、セリフの一字一句、すべてに意味のある作りこみになっているのだ、それをどうやって再編成するのか。
このあたりは、謎としか言いようがない。
そんな、まっとうな映画ファンが見たら
「バッカモーン! この作品を編集したのはだれだ!」
海原雄山並みに怒りそうなシロモノでも、ラストのあとすぐ切り替わる
「二光お茶の間ショッピング」
によってすべてが浄化される仕組みになっている。
どんなバカ映画でも、無茶苦茶な編集でも、「なんやこれはー!」と怒りをあらわにしたところで、
「はい、今日の商品はこの高枝切り鋏ですね」
笑顔でいわれると、もう怒る気も失せて、シオシオのパーとなるのである。
局側の作戦勝ちといえよう。
私も映画ファンとして、こういうのを読ませられると、
「もっとB級テレビ映画を見なければ!」
熱くいきり立ってしまうが、では実際にそのために古いビデオ屋に走るかといえば、そうでもないのであった。
こういうのは、感性がやわらかく、また無駄に時間だけはある、若いときに通過しておくべき道なのである。
それを大人になってから手を出すと、もう「なんやこの阿呆な映画は!」とか、「金返せ!」とか、
「オレの2時間……て、編集してるから、まあ実質70分やけど、とにかく貴重な時間返せ!」
となってしまう。
歳をとると、酔狂に金と時間をかけるには、分別がつきすぎてしまっている。バカは若いうちにやっておくべきなのだ。
なので、大人になってのB級映画の楽しみ方は、
「話のうまい奴に見せて、そのストーリーを解説してもらうこと」
話術のある友だちを、だまくらかして見させて、
「それが、いかにくだらなかったか」
を熱く語ってもらうのが大人の優雅なスタイル。
幸い私には、バカ映画が好きな上に、それを語らせると浜村淳さんなみにうまい「B級映画講談師」ことウメダ君という友人がいる。
さっそく彼に『日常映画劇場』を貸して、秋の夜長に『地獄のデビルトラック』について語ってもらうのを、ブランデーでもくゆらしながら堪能したい。