にて、中国の最高峰までたどり着いた胡錦濤主席。
『APEC』 で訪れた横浜の地でも、当然の事ながら笑顔は無かった。
意味も無く『エヘラ、エヘラ』するのは、倭人の特質では有るが、
総理の重みの無い、意味の無い笑顔はいささか、情けない。
昨日に書いた内容の続編になろうかと思うが、チベット民族の
遺伝子上の関係は、日本人と最も近い関係であることは、もはや
常識の範疇であろうと思うが、漢民族の弾圧によって120万人
の同胞的チベット人が、虐殺されたと言う情報もある。
日本人としては、このチベット人虐殺に関する真実の情報を公開
するよう、行動を起こす必要が有るのではないかと思うが、
どうなのだろうか・・・・ 。
*** 以下引用 下記ブログより ***
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-category-8.html
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ここで、中国共産党によるチベット侵攻・支配について少々レビューさせていただきたい。 先ず、同党がどれほどのチベット人を殺害して来たのか。 その1つの参考となる数値が、1984年に、チベット亡命政府が公表した統計数値がある。 その公表(1984年)によれば、1950年から同84年の間だけで、「戦闘や蜂起による死」は43万2705人。「処刑死」は15万6758人。「獄死、強制労働収容所での死」は17万3221人。「傷害致死」は9万2731人。「餓死」は34万2970人。 自殺は9002人。
チベット人死者の総計は『129万7387人』に上る。但し、この数値は、いわゆるチベットの「ウ・ツァン」、「カム」、「アムド」の3州での死者数であり、いわば「これがすべて」ではない。
それ以外の地域、および同年以降の死者数は含まれていない。
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チベット3州での死者数(チベット亡命政府統計)
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― 人命の重さを知らない国家と隣り合わせの日本 ―
多くの読者がご存知の通り、胡錦濤氏(現・国家主席)は、1988年1月(チベット自治区の共産党書記に就任)から翌年にわたり、「チベット自治区」の最高責任者として弾圧の指揮をとったことで、その名を知られている。
軍服姿でチベット支配の圧制を固め、反対行動に対する徹底的な弾圧などで手腕を発揮し、その「功績」をトウ小平氏から評価され、後(1992年10月)に、同党の中央政治局常務委員へと「頭角を現した」したエピソードで知られている。
胡錦濤氏は、「チベット自治区」に赴任翌年の1989年(3月10日)、(1959年3月10日の)チベット動乱から30年目の日を前に、同年3月6、7日に、すでに、チベット人による数百人規模のデモ行進が行われた。 大規模な抗議デモに発展する可能性あり、との情報を得た胡錦濤氏は、党組織や人民解放軍の関係指導者、および「チベット自治区」の要人らを招集。 緊急会議を開き、軍の出動を含めた戒厳令の布告を宣言。
翌3月7日に、「チベット自治区」政府が第1号、および第3号までの「戒厳令」を発効。 翌(8日)の午前零時から、ラサ市街、さらには、ダクツェ県以東の一部地域に戒厳令を実施し、チベット人によるデモや集会、ストライキ等の活動を「全面禁止」にした。 この時に、多数のチベット人が命を落としている。
また、同年6月4日の「天安門事件(六四事件)」では、民主化運動への要求がチベットへ波及することを防ぐために、ラサに再び戒厳令下を布いたことでも、その「手腕」が知られている。
こうした人命の重さを知らない国家と日本とは、物理的にも隣り合わせであり、果てなき軍備拡張と領土・領海の侵犯に対して、大局の上から毅然と対峙でき、日常のさまざまな対日毀損、侵蝕から日本を守る政治家と政党を国民は峻別して行かねばならないのである。
*** 以下引用 終 ***