白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ポーツマスの旗。

2025-01-18 17:33:43 | 日記

1月16日(木)曇り。

いやはや寒い一日だった。まあこの時期なのだから「寒い」のは当たり前か。

吉村昭の『ポーツマスの旗』を久しぶりに読み返している。日露戦争の講和の事実が書かれていて、改めて当時の日本が、まさに薄氷を踏む、という状況だったことが分かる。国民は、旅順の陥落、奉天戦の勝利、日本海海戦の大勝利に湧き、イケイケドンドンで、新聞には、ロシアのウラジオストックまで攻め入ろうなどと言う勇ましい論調が踊る。

日露戦争に動員された兵力は、108万8千996名、戦死46万423名、負傷約16万名。俘虜2000人。消費した軍費は、陸軍13億8千328円余、海軍2億3千993円余、その他を合計すると19億5千400円にも達していた。これは日露戦争前の国家予算の実に8倍である。 奉天戦で敗れたとはいえ、国力に差のあるロシアは、シベリア鉄道を使って、続々と陸軍部隊を増強しつつあった。それに反して日本軍は、人員と物量の差が表面化。しかし日本は、これを表ざたにすることはできず、政府と軍部は早い講和を望んでいたが、連戦の勝利により、国民はそんな現実を知る由もなく勝利に酔いしれていた。そして、多くの同胞の血が流された戦争において、ロシアから莫大な賠償金や領土の割譲が得られるものと期待していたのである。それが、当時の国民世論であった。

もしも政府が、満州戦線の日露両軍の戦力の差を公表すれば、国民の理解は得られ、どのような条件でも戦争の終結を望む声が主流となるに違いないが、そうなれば、ロシア側は日本の戦力が尽きたことを知り、全軍に総攻撃を命じて、戦争は長期化して、ますます不利になる。そのような状況の中で、全権大使となった小村寿太郎に、送別会の席で、元老の井上馨は涙ぐんで、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかもしれない」と述べ、また伊藤博文も、「君が帰国した時には、他人はどうであろうと私だけは必ず出迎えに行く」と語ったという。

ロシアとウクライナとの戦争も終焉のめどが立たないでいる。小村のような優秀な政治家がいて、一日も早く停戦、終戦にならないものか。夜は、かた焼きそばと煮カツとで酔狂亭にて独酌。

 

 


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三島由紀夫先生の生誕百年・記念誌

2025-01-16 14:17:49 | 日記

1月15日(水)晴れ。

暖かい一日だった。この時期に天気が良く、暖かいだけで何か得をしたような気持になる。寺山修司のコピーではないが「書を捨て、町に出よう」かとも思ったが、遅れている機関誌の校正に一日没頭した。先日、A新聞のM女史とのランチの間、話題になったのは「紙媒体の衰退」である。M女史が関係していた『週刊朝日』はもとより『月刊宝島』、『ジャラン』など100冊以上が休刊、廃刊を余儀なくされている。また『夕刊フジ』も今月で休刊とか。

インターネットが普及してから休刊のニュースをよく耳にするようになった。 2012年頃からはスマホが普及し始め、配信メディアをウェブへ移行した雑誌も少なくない。2020年頃からはカメラ誌が立て続けに休刊。 カメラの販売台数減少、スマホの普及などが影響していると思われる。出版社は、メディアの多様化や出版不況を休刊の理由として挙げている。 なお、廃刊ではなく休刊として扱っているのは、新たな雑誌コードの取得が困難なことや、出版を再開する可能性があることが理由。(「MEMORVA」より)

私の機関誌などは、弱小の上に「超」が3つもつくような部数の雑誌だが、営利を目的にしている訳ではなく、あくまでも民族派運動の一環として発行しているので、途中でやめることが出来ない。とは言っても経費がかさむ一方で、発行に支障をきたすようになってきた。他の団体、民族派系のミニコミ紙も大変かとは思っている矢先に、思い切った雑誌が発行された。三島由紀夫先生の生誕百年を記念した雑誌、『殉国の行動者ー三島由紀夫』(RJ刊・1800円+税)。A4版・96頁という贅沢な雑誌である。三島由紀夫先生の「文学作品」に焦点を当てたものではなく、三島先生が結成した楯の会のOBや三島先生の思想と行動に影響を受けた人たちが、原稿を寄せている。この時期に、こういった雑誌を出すことの意義と意味。関係者の努力に敬意を表する次第です。


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向田邦子さんの本。

2025-01-14 18:55:36 | 日記

1月14日(火)晴れ。

午前中に郵便局に行き「新年会」の案内状を発送。郵便料金が110円となり、細かい話だが様々な郵便物の経費がかさむ。午後から、関内でランチ。適当なお店を探して、初めての焼き肉屋に入った。焼肉ランチが一人前2700円。メニューの写真は良かったのだが、出てきた肉は最悪。「特上カルビ」「中落ちカルビ」だの説明は良かったが、脂ばかりで、全く肉感がしない。人生の大事な一食を無駄にしてしまった。

先日、馬車道で昼食を取った帰りに、タクシーで帰ろうかと思ったが、伊勢佐木町の有隣堂が近かったので、ふらりと入った。別段、読みたい本もなかったが、「食」に関する棚にあったのが、向田邦子さんの『メロンと寸劇ー食いしん坊エッセイ傑作選』(河出書房新書)という本。向田さんの本はほとんど読んでいる。『メロンと寸劇』も、かつて向田さんが出した本の中から「食」に関係するエッセイを抜粋し、まとめたものだ。以前、同じ出版社から出ている向田さんの『海苔と卵と朝めし』を買ったことがある。『メロンと寸劇』を読んでいて、記憶に残っているエッセイが何点かある。それでも人間の記憶などいい加減で、読んでいるはずの文章なのだが8割ほど新鮮な気持ちで読めた。タクシーを乗ったつもりで買った本を読みながらバスでのんびりと帰った。

その向田さんが台湾で飛行機事故にて亡くなったことを知った時は、とてもショックだった。向田さんは、私と同じ飛行機嫌いで、著書『霊長類ヒト科動物図鑑』中の「ヒコーキ」と題したエッセイにこう書いている。「私はいまでも離着陸のときは平静ではいられない、あまり片付けて出発すると『やっぱりムシが知らせたんだね』などと言われそうで、縁起を担いで汚いままで旅行に出る」と書いている。このゲン担ぎも虚しく昭和五十六年八月二十二日、取材旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去された。五十一歳だった。

夜は、久しぶりに、カツオのたたき、ミスジ肉、人参のシリシリサラダ。飲むべきか、飲まざるべきか・・・。悩んだが、「私と別れるの」と「黒霧島」の声がして、酔狂亭にて月下独酌。

 

 


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いまは亡き悲願の人の悲願を継ぐ

2025-01-11 12:03:24 | 日記

1月9日(木)晴れ。

午前中から、みなとみらいの病院へ行き、昨年末に受けたじん臓の生検査の結果を聞きに行く。最悪の結果だったら、昼食に特上の「うな重」、再検査、入院となれば「焼肉」、通院で済めば「モハン」のナンとキーマカレーと決めていた。採血と採尿を済ませて診察室へ。結果は、ナンとキーマカレーで済んだ。完治はしないが、これ以上悪くなって透析とならないように、治療しましょうと言うことになった。

野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の「冬の句」の中に、「いまは亡き悲願の人の悲願を継ぐ」というものがある。先生が千葉時代において「今は亡き悲願の人」と言うのは、昭和四十六年の十月に亡くなられた三上卓先生のことであろう。

野村先生は、旅に出ると、良く絵葉書を書いて送ってくれた。一緒に、海外に出ている時も、事務所の人たちにマメに絵葉書きを送った。それを見ていたせいもあって、私も旅に出ると、家族や友人に良く絵葉書を書いた。しかし、三泊四日程度の小旅行だと、子供たちに宛てた葉書よりも私の方が先に家に着いてしまい、手紙を出したことの意味がなくなってしまう。それでも、飛行機の中の無聊を紛らわせるために、葉書を書いていると、「ああ旅に出たんだなぁー」という感慨が湧いてきて旅も楽しくなる。

 後輩で、大陸浪人の杉山茂雄君も海外に出ると、必ず葉書を送ってくれる。絵葉書が好きな私としては、彼からの葉書をまとめておいて、たまに読み返す事がある。手紙を書いている時は、相手のことを思って書いているので、一枚の葉書の中に、出す人の思いがこもっているような気がする。

そういえば亡くなられた花房先輩も筆まめだった。今は亡き人の悲願の人か・・・。夜は、寒いので「おでん」を炊いた。その他は「焼きそば」に「きんぴらごぼう」。酔狂亭にて、恐る恐る独酌。


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花房ショックが消えない。

2025-01-08 15:47:58 | 日記

1月7日(火)晴れ。

昼に、古いお付き合いで、A新聞の辣腕記者M女史と久しぶりにお会いした。特別何の用事があったわけではないのだが、お互いの近況報告などを、昼食を兼ねて2時間ほど。馬車道の勝烈庵にて昼食の後に、スタバでお茶。最近は、「武装闘争の過ちを抱えて」というテーマで半世紀前の事件の主人公に焦点を当てて書いているとのこと。重信房子女史ともお会いしたとか。また元日に亡くなられた花房東洋先輩のことなど。いまだに、花房ショックが消えない。

日航の航空機事故のあった昭和60年の夏に、下田の弓ヶ浜海岸の近くに、亡くなられたが憂国三友会という団体を主宰していた高橋順之助さんが「うじま」と言う民宿を経営されていた。その民宿に、2泊3日で宿泊し遊んだ。メンバーは、阿部勉、花房東洋、板垣哲雄の諸氏と私。岐阜から京都、そして下田と何の目的もない「金が尽きるまで」の旅だった。

下田から明日それぞれの家に帰るという夜。少ない現金を出し合って全て花火を買って海岸で楽しんだ。皆なぜ持ち金をほとんど使ってしまったのか。それは花房先輩が、「俺がカードを持っているから、駅でカードで切符を買えばいい」。ところが駅に行ったら当時はカードでは切符を買えず、正直言って焦った。下田から新宿までバスが出ているとのことなので、小銭を出し合って阿部さんを乗せ、我々は、入場券を買い電車に乗った。後輩に熱海までお金を持ってきてと頼み車中の人となった。車掌を見るとトイレに隠れたり、何とか熱海についてお金を貰い自宅に戻った。懐かしい思い出だが、共に旅した阿部、板垣の両氏はすでに鬼籍に入られ、そして花房先輩までが旅立ってしまった。伊豆の山々月淡く・・・。※弓ヶ浜にて、昭和60年8月、左から板垣哲雄君、花房東洋先輩、阿部勉先輩。


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