四月二十五日(月)曇り。
キャンディーズのスーちゃんが亡くなった。最初、「スーちゃん」と聞いて、一瞬、栃木社友会の湯浅進君の顔が浮かんだが、震災で苦労しているので心配していた矢先なので、そう思ったのかもしれない。スーちゃんご免。
まあ失礼ながら、キャンディーズといっても、年代も違うし、従って時代を共有したこともないので、あまりピンと来ない。それでも、若い人が亡くなるのは、何となく哀れを誘う。神様は平等で、どんなに人気があろうとも、才能がある人でも、特別扱いをしない。
昭和を代表するスターであった、美空ひばりや石原裕次郎だって亡くなったのは五十代の前半だった。芸能人の悲しさは、一般の人と違って、元気な頃の映像が残っているので、私達は、否が応でも、絶頂期の頃の姿を見せられる。これはある意味で残酷なことだ。
また、生前に録音したというスーちゃんの肉声には、目頭が熱くなった。自分が死の淵にいても今回の震災の被災者の方々を思いやる彼女の優しさには、素直に感動させられた。しかし、申し訳ないが、葬儀場でのご主人の芝居かがった映画監督のようなしぐさには、辟易した。彼女の思いを多くの人達に聞いてもらいたい気持ちは分かるが、もう少し自然な流れの中で出来なかったものか。また、本来ならば、「偲ぶ会」などで流した方が良かったのではないかと思う。
夜、近所のジジ、ババたちとの食事会が行きつけのラーメン屋であったが、談笑している時に、突然テレビから、例のスーちゃんの最後の声が流れた。皆、すでに幾度かテレビで聞いている人たちばかりだったので、途中でチャンネルを変えてもらった。ああいったものは一度聞けば充分である。何度も、また食事会の席で聞くようなものではない。亡くなられた方に失礼だし、聞いているほうも、申し訳なくなる。
体調が、イマイチなので、飲まずに食事のみで帰宅した。