五月二十九日(水)雨。
とうとう関東地方も梅雨入り宣言が出た。梅の実の熟す頃に降る雨の季節だから「梅雨」か。日本人の季節の表現には味わいがある。
まっ堅気の衆から見れば、フンと鼻で笑われそうだが、連日珍しく忙しい。何が忙しいかって言えば、お金はもちろんだが、本業の原稿書きと編集の作業で修羅場となっている。私の機関誌「燃えよ祖国」の校正は終わったが、後は製本と発送が残っている。それと「大吼」の編集作業も佳境に入った。いいかげんな仕事はしていられない。
また、何とか近いうちに単行本を出そうと思っているので、原稿をまとめている。書いていると、あれも入れたい、このエピソードもと、段々枚数が多くなり、まとまらなくなる。後は、プロの編集者に任せてアドバイスを頂くつもり。さっさっと早くやれば良いものを、気が付けば、野村先生が亡くなられてから二十年が過ぎた。正に不肖の弟子である。
お経の別名は「如是我聞」。釈迦の弟子が、私は、このように伝え聞いた。という意味である。この言葉を教わったのは、野村先生からだ。「蜷川。俺は釈迦などと比べようもないが、民族派の活動家として、俺の生き様、死にざまをお前が『如是我聞』しなければならない。俺は、三島由紀夫にもなれないが、もし死んで行くとしたら、お供はいらねぇよ」。
先生と、一緒にいる時は、そんな言葉は、景色のように感じていたが、あらためて、先生の言葉の一つ一つが、すべて私にとって「教訓」であったことに気が付く。何たって教養がないので、気が付くのも遅いのだ。
「燃えよ祖国」で「野村秋介語録」を連載している。そのうちに、一冊にまとめたいと思っている。支援と思って購読してくださいね。
五時半に、東京から酒友二名来浜。保土ヶ谷駅で待ち合わせて、カメちゃんと一度一緒に行こうと話していた、最近流行の「海鮮焼き」のお店に行った。もちろんカメちゃんも合流。お店には一番乗りだった。まあ値段が安い分、その程度の味で、素人には良いかもしれないが、六十を過ぎた男の行くような店ではないと思った次第。何も、安ければ良いと言う話ではない。料理はもっと丁寧に、心を籠めて作らなければダメだ。店を選んだのは私なのだから、文句を言えた義理ではない。スマン、スマンのオスマンサンコン。
そのお店の近くにある「宿場蕎麦の桑名屋」に転戦。ここは参勤交代の時代の保土ヶ谷の趣のあるお店。ざる蕎麦を肴に「蕎麦湯割り」を二杯ずつ飲んで解散。カメちゃんを煩わせてしまった。感謝。遠方の友は又もピヨピヨ、タバタバと帰って行った。