二月二十五日(火)晴れ。
昨日、盟友の「断酒」について書いたが、その英断にはただ脱帽した。私何て、意志が弱くてとてもできない。友人氏は、我が道の兄であった元楯の会の故阿部勉さんの歌を引き合いに出していたが、その阿部さんの歌は、今から十六年前の平成十年に森田忠明氏が尽力して展転社から出版した合同歌集「國風」に収録されたものでる。監修は杉田幸三先生。
この「國風」には森田忠明氏が主宰していた「櫻風亭歌會」の同人や氏の友人、八十五名の人たちが、それぞれ十の歌を作って参加している。その中の七割は存じ上げない人で、お付き合いのある三割が民族派運動の同志の人たちである。久ぶりに頁を開けば、阿部さんの他には、本渡諏訪神社の大野康孝氏、木村三浩氏、四宮正貴氏、島田康夫氏、西村修平氏、野呂道則(岡崎一郎)氏、展転社の藤本隆之氏、森田忠明氏、国民新聞の山田惠久氏、もちろん私も駄歌で末席を汚している。
阿部勉さんの「春も酒」と題した歌は、阿部さんがその歌集が出版されてから七年後に亡くなられたことから「辞世」のように言われている。特に、「われ死なば火にはくぶるな「栄川」の二級に浸して土に埋めよ」は、阿部さんの代表歌のようになった。他には、「百万の桜の下に酔ひ臥して恥濃きわれををののき嗤ふ」、「盃に浮かぶ花弁の十重二十重わがあやまちの数に似てをり」、「数知れぬ過失は酒とともにありその酒抱きてけふも堕ちなん」、「五十路を超えて思い満つるは母のこと国のありさま子らの行くすゑ」などが好きだ。
生前の阿部さんを知っている人ならば、この短歌を読んで「さもありなん」と思うに違いあるまい。今や民族派の酒仙の域に達している展転社の藤本氏は、この当時はいくらか自制心が効いていたのだろうか、こんな歌を詠んでいる。「たのしみは奴を肴に酒一合飲み過ぎもせず飯を食ふとき」。ケッ!何言ってんの。と言う感じだが、まあこんな時もあったのでしょう。「さだめなきと辞世詠みたるその人の友へ遺せる言の葉おもし」は、もちろん野村先生のことを詠んだものだ。
猪瀬元東京知事の問題でマスコミを賑わした一水会の木村三浩氏の歌は極めて暗示的である。「憧憬と脚光まじるマスコミに真(まこと)のなくば妙に悲しき」と。もう一首「上を見て下をつゆ見ぬ利己主義を奉ずる輩の小手先の言」とは、元知事かそれとも徳洲会なのか・・・。
我が盟友の野呂道則氏は青森の産。「五能線電車にゆられ野を行けばお岩木山の目に迫り来る」、「津軽富士と称へられたる岩木山わが津軽野を見守りて聳(た)つ」、「藤崎は今は亡き母生(あ)れしとふ町にぞありける母の恋しき」、「西ゆけば深浦町ぞ北させば太宰の里の金木町なり」。ちなみに愚妻の故郷は深浦町です。
私は、「漢家の烽火」と題して同じく十首。題の意味は、秋になると万里の長城を超えて漢の都に攻め入ってくる匈奴(きょうど)の侵略を知らせる烽(のろし)のことです。漢の時代には、道々に「烽火台」という物が作られ、煙を上げて危急を都に知らせたそうです。「月光を背負いて走る青狼の匈奴せまるか漢家の烽火」、「寒風に吼ゆる別れの筑の宴ゆきし壮士のまた還らざる」、「屈原の離騒賦あはれ身を投げし汨羅の淵に春なほ遠し」。とつまらんものを作りました。汗顔、赤面、低頭します。
今日は、二十五日、特に今月は固定資産税、市県民税、法人県民税、印刷機のトナー代(これが結構高い)、紙屋への支払い、まだあるNTT、KDDI・・・。う、う、う、わあっーと叫んでもどうにもならない。友人の情けにすがって何とかクリアーしたが、精神的にへとへとになった。夜は、当然、酔狂亭で、てゃんでぇーベラボウめと月下独酌。酒だけは避けられない。嗚呼!