白雲去来

蜷川正大の日々是口実

60年代へのこだわり。

2017-03-11 15:25:05 | 日記
三月九日(木)晴れ。

一九六〇年代のヨコハマの街を背景に五木寛之が描いた小説、「雨の日には車をみがいて」(集英社刊)には、大桟橋の入り口に今もあるレストラン「スカンディア」や、かつてヨコハマの若者の流行を担った懐かしい店が、大桟橋と共に登場する。

「ぼくらは〈スカンディア〉で伊勢海老のテルミドールをたべ、そのあと中華街へいった。〈レッド・シューズ〉にすこしいて、〈コルト45〉の前を通り、大桟橋のほうへ車を走らせた。〈ブルースカイ〉には〈シャープ・アンド・フラッツ〉が出ていた。大桟橋にはギリシャの大型貨物船が停泊していた。海につき出た埠頭の突端に車をとめ、ぼくは揺子と、はじめてキスをした。」

ディスコ「レッドシューズ」も黒人の兵隊がお客の大半を占めていた「コルト45」も、中華街のすぐ近くにあった。石原裕次郎や勝新太郎といった有名人が足繁く通った超高級ナイトクラブの「ブルー・スカイ」も今は皆無くなってしまった。

大桟橋と言えば、五木寛之が、昭和四十二年三月から十月にかけて平凡パンチに連載した小説、「青年は荒野をめざす」の書き出しは、主人公ジュンが、人生と旅という「荒野」を目ざし、大桟橋から船出して行くところから始まる。

「ソ連極東船バイカル号は、今、船体をかすかに震わせながら、出航を待っていた。晴れた五月の真昼だった。乾いた初夏の陽ざしが、軽快なシンバルの連打のように海面を叩いている。海のほうから、潮の匂いを含んだ強い風が吹いていた。
 「あと五分で船が出るわ」「おーい、テープを投げろ!」「さらば、日本よ、だ。ざまあみろ」
バイカル号の甲板では、若い船客が陽気な叫び声をあげていた。日本人が大半で、外国人がその間にまじっている。横浜港桟橋は、見送り人でいっぱいだった。数百本のテープが、彼らとバイカカル号を結んでいた。原色の紙テープは、鋭い弧を描いて絶えず乗船客たちのほうへ飛んできた。バィカル号は、まるで七色の紙テープで桟橋につながれているように見えた。
 「さあ動くぞ」誰かが叫んだ。「ジャスト十二時だ」音楽がかわった。
バイカル号のバンドは、さっきからアップテンポの〈カチューシャ〉をやっていた。マーチふうの陽気な演奏で、出航の興奮をもりあげていたのだ。それが急にかわった。感傷的な〈ともしび〉のメロディーが、トランペットのリードで流れだす。
 ー略ー
汽笛が鳴った。桟橋の人々が手を振った。バイカル号の船体は、静かに岸壁をはなれた。テープがのびきって切れ、ゆるやかに海面に舞い落ちる。離岸し、後進し、桟橋から離れたところで、船は大きく船首をたてなおした。かすかにゆれながら、加速する。風が冷たくなった。音楽がやんだ。五千三百トンのソ連客船バイカル号は、いま横浜港を出て、シベリアの玄開、ナホトカヘ向かおうとしていた。(第一章・霧のナホトカ航路)

五木寛之の小説には、上記二つの作品の他に、「海を見ていたジョニー」「四月の海賊たち」など、いわゆる一九六〇年代の「時代」を描いたものがとても多い。「私の主題は、すべて一九六〇年代という時代の表皮に密着し、時の流れと共に消えはててしまうべきていのものばかり」と謙遜しているが、五木氏の六〇年代へのこだわりは、氏の著書「深夜の自画像」の中にこう書かれている。

「私はもちろん、文学をやるつもりでこれらの作品を書いたのではない。私が夢みたのは、一九六〇年代という奇妙な時代に対する個人的な抵抗感を、エンターテインメントとして商業ジャーナリズムに提出する事であった。ソビエトにおけるジャズ、日本における流行歌などで象徴される、常に公認されざる“差別された”現実に正当な存在権をあたえたいと私は望んだ。」これこそ氏の本音ではないかと思う。とにかく一九六〇年代は、ヨコハマにとっても最もヨコハマらしい最後の姿があった。ヨコハマがアメリカだった六〇年代、この街には流行の先端を行く若者の文化と、誇りがあった。

二三日前のことは、全く覚えていないが、四十年前のことを鮮明に思い出すことが出来る。そう言えば、過日、裕ちゃんの映画『赤いハンカチ』を見たら、今はなくなってしまった、野毛山遊園地の映像があって、とても懐かしかった。あれほど克明に野毛山遊園地の映像が残っているのは、珍しいのではないか。夜は、寒いので、家族で鍋を囲んだ。
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1 コメント

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はじめてコメします (Kemeko)
2017-03-21 12:08:23
はじめてコメントします。
日本以外の国を転々と引越して、現在香港にいます。
日本にも数年住んでは、父の仕事、社会人になってからは自分の仕事や健康の関係で海外にいます。
周りの大人たちが年を重ねるのはあっという間だと話していたのを、40代後半になり実感しています。
不思議なことに、幼稚園、小学校、中学校など・・若い頃の記憶の一部は匂いや音が鮮明によみがえるのに、病気で苦しかった30代から40代半ばは殆ど記憶がありません。

香港は、中国本土からの富裕層が地価を高騰させてるため、日本よりも急激にここ20年ほどで賃料があがり、物価もあがり、生活が苦しいです。

(テレビで放映しているのはいつも富裕層の生活。私の周囲にいる殆どの人たちは日本の公団住宅よりも狭い部屋に住み、質素な生活を送る日々です。しかし、それでも仕方ないという諦めの良さや少しいい加減な面がある分、私は救われているような気がします。)

赤いハンカチは観たことがありませんが、いつか観たいと思います。
自分はスターウォーズを小学生のときに観た世代ですが、なぜか日本の古い(特に昭和)映画がとても好きで、閉鎖した高田馬場の畳でみるアクトシアターや武蔵野館、三百人劇場(閉鎖)などでたくさん観ています。
初めての投稿でたくさん、書いてしまいすみませんでした。
日本はまだ夜は冷えると思います。温かくされて、おやすみください。
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