白雲去来

蜷川正大の日々是口実

家族で食事会。

2023-06-30 13:34:17 | 日記

6月24日(土)晴れ。

今日は、4日遅れの愚妻の誕生日の食事会を愚妻のリクエストで、横浜は関内にある瀬里奈(浪漫茶屋)にて家族で食事。このお店に初めて来たのは、もう30年以上も前のこと。当時は、「瀬里奈」と言えば、敷居が高くて、そう度々行けるようなお店ではなかった。しかし、その後、「食べ放題」の「しゃぶしゃぶ」のお店が出来たり、ステーキの鉄板焼きのお店も関内やみなとみらいのホテルにオープンしたりと、「特別感」が薄れ、余り行く機会がなくなった。子供がまだ高校生の頃に、「しゃぶしゃぶ」の食べ放題のお店に行ったことがあるが、肉もそこそこ食べられ、かつ余りの安さに驚いたことがあった。六本木の瀬里奈には、野村先生と何度かご一緒させて頂いた。「カニしゃぶ」が美味しかったことを覚えている。

しかし、さすがは瀬里奈、サービスも良く、肉もその他の小鉢もとても美味しかった。支払いは、愚妻を除いた私と二人の子供が割り勘と思っていたら、知らないうちに上の子供が払ってくれていた。むむむ、やるなぁー。さすが私の子供だけある。しかし、子供に瀬里奈でご馳走になるとは・・・。嬉しいやら情けないやら。しかしありがとうございました。その後、山下町は、マリンタワー裏の「ラッキーのお店」へ。スリランカの愛国者、マスターのラッキーとは、彼がまだ中華街の「チョーズ・プレイス」にいる頃からのお付き合いだから、かれこれ40年近くにもなる。ラッキーのお店を知らない人は、横浜人であってもヨコハマ人ではない(この違いを説明するのが難しい)。ここは愚妻が支払い、結局、私が払ったのは帰りのタクシー代だけ。お世話になりました。


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「三島事件」の頃。その3。

2023-06-29 12:47:15 | 日記

6月23日(金)曇り。

珍しく、朝、食す。竹輪の磯辺揚げ、目玉焼き、ナスの味噌汁。昼は、コロッケパン一つ。夜は、カツオの刺身、タンドリーチキン、水ナス、トマトサラダ。お供は、以前、盟友から頂いた「森伊蔵」の四合瓶の封を気合を入れて切った。午後、掛かりつけの医者に行き、来月に胃カメラでの検査を予約。

昨日のブログに、かつて日学同で活躍していた山本之聞氏のことを書いたが、山本氏が楯の会の一期生であったとは全く知らなかった。楯の会には、一流大学に在籍していたの優秀な人たちが多い。随分前のことだが、昭和52年3月3日の「経団連事件」の際の隊長であった伊藤好雄さんに「楯の会の会員の人達と言うのは、当然ながら憂国の至情止みがたく、現状の日本の変革にために戦う、という人たちばかりでしょう」。と聞いたら、「そんな考えを持って入って来たのは二割くらいかな」と言われて、意外な思いをしたことを覚えている。

それでも、村田先生の本を読んで、自衛隊の体験入隊での厳しい訓練、とりわけレンジャーの訓練などは、私なんかとても耐えられなかったに違いない。親しくさせて頂いた阿部勉さんも伊藤さんも楯の会の一期生である。しかし、お二人との長いお付き合いの中で、楯の会のことや三島、森田両烈士のことを一度も聞いたことがない。伊藤さんと一緒に経団連事件に決起した西尾俊一さんも同じだ。例えが適当でないかもしれないが、魚の小骨が喉に刺さってもご飯を丸めて飲み込んだりすることによって、意外に早く取れる。しかし、鰻の骨は釣り針のように「返し」があって、医者で取って貰うこともあるそうだ。楯の会の皆さんは、三島・森田両烈士の自決と言う衝撃的な出来事に接し、その出来事が、その後の人生における心の傷、すなわち「小魚の小骨か、鰻の骨か」のどちらかとなっていたのではないだろうか。少なからず、私にもそういう経験があるので、分かるような気がする。

野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』には、三島・森田両烈士に関するものが四句ある。「三島由紀夫・森田必勝自決、一句」として、「茫然と轟然と 秋の夕日墜つ」。(秋の部)、同じく(秋の部)に、「憂国忌 風が鞭振る天に地に」。三島先生を詠んだ句は(春の部)に二句。「春燈や 絢爛たりし三島の文」、「さくら散るいまも三島の死の光芒」。


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「三島事件」の頃。その2。

2023-06-28 17:40:00 | 日記

6月22日(木)雨。

朝食は抜いた。昼は、自宅で、愚妻とタンメン。夜は、月に一度の仲良しさんたちとの食事会を関内の料理屋「伊勢」にて。このお店が好きだ。小料理屋と居酒屋の中間ぐらいのお店なのだが、「刺身の盛り合わせ」を頼むと、いつ行っても感激する。正直言って、一人一万円や二万円も取られる寿司屋などと、決して引けを取らないものが出てくる。若女将もオーナーの板前さんもとても愛想が良く、感じがいい。文字通り、酒と料理と人に酔うお店である。

村田春樹先生の『三島由紀夫が生きた時代』の本の中には、楯の会の結成に関わった人や、日本学生同盟(日学同)の関係者など知り合いの方が、何人か出てくる。楯の会の関係者では、阿部勉、倉持清、伊藤好雄、西尾俊一と言った人たち。又、後年、某テレビ局に就職した日学同の山本之聞氏などだが、山本氏には思い出がある。私が、北海道の一人部屋で修行中の平成元年の11月10日に、ベルリンの壁が崩壊するというビッグニュースに接した。夜に、珍しく居房に入ったテレビで、そのニュースを見ていたら、ベルリンの壁の前でリポートをしている人がいて、クレジットを見たら山本之聞氏で大変驚いた。当時はお付き合いはなかったが、山本氏の名前は知っていた。「これはYP体制云々」という言葉を聞いたとき、さすがは日学同のOBと感激したことが忘れられない。たまに会合などで山本氏とお会いすると、いつもその時の話をさせて頂いている。

亡くなられてしまったが、かつて維新政党新風の代表で、阿部勉さんの弟分的存在だった松村久義氏ともお付き合いがあった。初期「新風」の魚谷哲央さんとは、昭和49年頃の「核拡散防止条約」の反対運動の頃からお付き合いがあり、新風の関係者には知り合いが多かった。私の記憶が間違っていなければ、確か阿部勉さんも新風に関係しており、「風紀委員」という肩書であったと記憶している。それを聞いたとき、本当に悪い冗談かと思い、信じられなかった。最近は行かなくなったが、ゴールデン街で飲んでいると、フラっと阿部さんが入ってくるような気がしてならない。

 

 


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「三島事件」の頃、その1。

2023-06-27 12:00:00 | 日記

6月21日(水)晴れ。

朝食を抜いた。昼はウォーキングの途中で、近所の町中華で、中華丼セット(小ラーメン)。食後も一時間ほど歩いた。夜は、新玉ねぎのフレンチブルドッグ和え、チヂミ、鶏の塩焼き。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

村田春樹先生の『三島由紀夫が生きた時代ー楯の会と森田必勝』を読了した。忘れていた青春時代の出来事が走馬灯のように蘇ってきた。昭和45年11月25日のいわゆる「三島事件」が起こる前までは、政治などには全く興味も感心もない、普通の、いや普通以下の19歳の少年だった。当時の私は、洋楽、とりわけR&BやBBキングなどのブルース、ジョンメイオールと彼のブルースバンド、ジミヘン、クリームに代表されるモダン・ホワイト・ブルース、またはニューロックと言われていたジャンルの音楽が好きだった。私の育ったヨコハマは、米軍の基地も多く、友達になった米兵に頼んで、PXでLPの輸入盤を買って来て貰っては夢中になって聞いていた。いわゆる60年代のヨコハマは、音楽やファッション、文化の最先端を行っていたといっても過言ではなかった。その街で私は青春を謳歌していた。

そんな私の生活が「三島事件」によって一変した。「何故自決なのか・・・」。新聞や週刊誌で事件の記事を自分なりにスクラップして、その思想を理解しようとした。しかしながら大学に行くような教養もなく、勉強と言っても、何をどうすれば良いのか見当もつかなかった。事件を解説した記事の中で北一輝を知った。書店に行き、みすず書房から出ていた『北一輝著作集』全三巻を買った。どんなに感動を与えてくれるのだろうかと、胸が高鳴った。しかし、第一巻の「国体論及び純正社会主義」などは、難しくて一頁どころか、二、三行で行き詰まってしまった。こんなに難しい本を読み、理解しなければ民族派の運動には参加できないのか。とその時、真剣に思った。その頃に、読んだ小泉信三の『読書論』がきっかけで、本と向き合い、格闘して学ぶという事を知った。『読書論』に出合わなかったなら、民族派運動を続て行くことはなかったかもしれない。

村田先生の本の中にこれまで親しくさせて頂いて来た当時、日学同や楯の会に所属していた方たちが何人も出てくる。次回は、その方たちについて書いてみたい。


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私の「三無主義」。

2023-06-24 15:48:30 | 日記

6月20日(火)晴れ。

朝食は、ウェイパーを使った卵スープ、ササミのフライ、キャベツの千切り添え、水ナスのおしんこ。昼は抜いた。夜は、冷食の餃子、清風楼のシウマイ、酢豚。お供は「三岳」。酔狂亭にて独酌。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻と親しむ。啄木の歌の趣旨とは違うが、今日は愚妻の誕生日である。しがない浪人暮らしゆえ、花を買うにも不如意が続いており「そのうち、石炭ぐらいのダイヤを買ってやるから」とつまらんことを言って、テーブルに片手をついて反省のポーズ。我が家では一番高給取りの上の子供が、花を買い、沢山のリキュールをプレゼントした。東京で暮らしている下の子供も今度来る時にプレゼントを買うとのこと。一人肩身が狭い。金が無い。当然ながら貯金も無い。加えて若くも無い。の「三無主義」を実践しているのだから仕方がない。

『山頭火の宿―そして酒と水』(大山澄太著・彌生書房)という本の中に、山頭火が自ら書いた「酒の覚書」と言うものがあった。酒にだらしのなかった彼が、意を決して書いたものだが、その誓いを書いては破り、破ればまた書くと言うような「酒癖」であったようだ。その「覚書」とは、

 酒に関する覚書 
酒は目的意識的に飲んではならない、酔は自然発生的でなければならない。
酔ふことは飲むことの結果であるが、いひかへれば、飲むことは酔ふことの原因であるが、酔ふことが飲むことの目的であってはならない。
何物をも酒に代へて悔いることのない人が酒徒である。
求むるところなくして酒に遊ぶ、これを酒仙といふ。
悠然として山を観る、悠然として酒を味ふ、悠然として生死を明らめるのである。

めんどくさい酒だなぁー。と言うのが私の感想である。道の兄と慕った故阿部勉さんの歌に、数知れぬ過失は酒とともにありその酒抱きてけふも堕ちなん。「おい、蜷川飲みに行くか」、「阿部ちゃん金あるの?」。「つまんねぇこと言うな、そんなの飲んでから考えれば良いんだ」。一度、威張って後輩にこんなことを言って見たいなぁー。

 

 

 

 

 

 


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