8月30日(水)晴れ。
朝食は抜いた。昼は、自宅の近くにある「から揚げ」の専門店「大ちゃん」のから揚げ弁当。夜は、コーンバター、こんにゃくの炒め物、キャベツと豚肉のオイスターソース炒め、とり肉の塩焼き。お供は「黒霧島」。今日も酔狂亭にて独酌。28日、29日と恙なく過ごした。10月の群青忌の案内状をいれる封筒が届いたので、私の分担、350枚程を印刷。機関誌の校正をしたり、何だかんだと、それなりに忙しくしている。
先日のことだが、友人から、目白の椿山荘での食事に誘われた。残念ながら先約があって、お断りをしたが、実は、私は、あまりこの椿山荘が好きではない。政治家などが、そこでパーティーなどをやると言うことを聞くと、あまり良い気がしない。もちろんそこで働いている人達や、現在の経営者には関係のないことで、これはあくまで私の個人的な感慨なので、気にしないでもらいたい。
山県有朋は、西南戦争がおわると、東京目白の椿山に、一万八千坪の広大な別邸をつくる。このとき三十九歳。現在の「椿山荘」である。「西郷さんはじめ、多くの若者の屍のあとに別荘か」これは、当時多くの人びとが感じたことである。
「月給四〇〇円の中将ぐらいで、よくもこんなに贅沢なものが……」とおもう人もあろう。今日ときめく財界人の中で、これだけの大別荘をつくれる人が何人あろうか。しかも、別荘は一つではなかった。大磯に小淘庵、京都に無隣庵、小田原に古稀庵、小石川水道町に新々亭、麹町に新椿山荘……。「みな公の手に成ったものであって、公が築庭における伎倆は、夢窓国師に譲らざるものがあるとの評判であった」(『公爵山県有朋伝』下巻)と徳富蘇峰は書いている。彼はまた、「公の生活は極めて簡素であった」とも書いている。簡素な生活に、これだけの別荘がいるものだろうか。「こういう豪奢さ。数々のスキャンダル。そして陸軍を背景とした政界君臨。天下の浪人は、これを憎んだのだ」。『無冠の男』(小島直記著・新潮社)
自伝や他の人が書いた「伝記」と言うものを百パーセント信用してはならないと、伝記作家の泰斗、小島直記氏は言っている。