十二月二十七日(金)曇り時々雨。
昨日、安倍総理が靖国神社へ参拝した。例によって、例の如くにマスコミは、「なぜこの時期に」と中韓に阿って批判的な論評をしている。では、一体いつならば参拝して良いのか。流行の言葉ではないが「今でしょ」。考えてみれば、チマチマ参拝するから、グズグズ言われる。どうせならば、国会に行くときは、毎朝、靖国神社に参拝してから行けばいい。そうすればさすがに、あの国のあの人たちも、文句を言うのに疲れてしまうに違いあるまい。とにかく靖国参拝を政治問題化させないためにも、頻繁に行くことが一番であると私は思う。
特に今回は、「靖国神社に祀られていない人たち」の為に建立された鎮霊社を総理が詣でたことは特筆すべきことだと思う。(古い友人で、玄洋社の流れを汲む田中健之氏の『靖国に祀られざる人々』(学研パブリシング)を読んでね)靖国参拝を問題視する人たちは、東条英機らの、いわゆる東京裁判でA級とされた戦争指導者が祀られていることを問題にする。しかし、それはおかしいと思う。ご存じのように、靖国神社に祀られているのは、大東亜戦争で亡くなられた方々のみではない。
明治維新時の戊辰戦争で亡くなられた方々や幕末の動乱の際に亡くなられた、例えば吉田松陰も祀られている。更に、日清、日露の戦役で散華なされた方々も当然含まれている。今日の日本の平和と繁栄があるのは、そういった先人のお蔭と、私は手を合わせている。しかしながら、ただ漠然と手を合わせているのではない。私は、靖国に祀られているご英霊の方々の一人として面識がない。私の、親族もいない。(三代先の祖先が、何処の誰だか分からないので)。従って、私は靖国神社へお参りするときは、いつも心の中に、先の大戦で散華なされた陸海の特攻隊の人たちのことを思うようにしている。その人たちを通して、すべてのご英霊に頭を垂れているのである。
東條さんたちが、果たして「英霊」かどうかは意見の分かれることかもしれない。しかし、あの時代、誰が総理であっても米英との戦争は避けられなかったことは間違いあるまい。敗戦の責任が、当時の政治家や軍人にあったことは言うまでもないが、その総括をするのは連合国でなく、日本人でなければならない。東條さんたちのことを「戦犯」などと呼ぶことが定着してしまったが、それは日本人が天に唾するようなものだ。
靖国神社に対して、大東亜戦争だけにこだわることは、それ以前に亡くなられたご英霊に失礼ではないかと思う。いつの日か、喧騒が止んで静かに参拝できる日が来ることを願って止まない。
夜は、大行社の内川徳彦、小針政人の両氏に酔狂亭が強襲された。楽しい同志との語らいに、当然酒は必需品。小針君が、新しい「大吼」の編集長になったこともお祝いし、小針君の彼女の「早く帰ってこいコール」を無視させて、全員で大破轟沈。