白雲去来

蜷川正大の日々是口実

そうか、君は、もういないのか・・・。

2009-09-30 11:07:38 | インポート

九月二十八日(月)曇り。

 朝食の後に、二度寝してしまった。昨日の料理屋が劇的に不味かったので、家に戻って飲み直ししたのがいけなかったのかも知れない。クリーニング屋と宅急便屋に起こされた。

 支払いに行ったり、事務所に行ったりしているうちに、早、夕方。五時に、小針政人君に迎えに来てもらい、今月の二十三日に逝去した相澤淳氏の通夜が六時から行なわれるので、共に出席。相澤君の人柄を思わせるように、会場には三百人を超える人達が、ご焼香に来ていた。会場で、藤巻強氏や大行社の相模支部の人達と合流。ご焼香を済ませて、直会の席に行くと、相澤君を偲ぶ品の数々が遺影と共に飾られていた。

P1000114 見る人の涙をさそった相澤君の遺影と彼の遺品の数々。

 オートバイに乗る彼の姿。ボクシングに興じる写真。消防士時代のもの。結婚式の写真。子供を抱いた写真など・・・。驚いたのは、過去に手術をした折に書いたのだろう、ノートに綴られた家族への遺言があり、読む人たちの涙を誘っていた。すごい覚悟ではないか。また、こういった遺品の品々を、弔問の人達に見せる家族の気配りにも頭が下がった。相澤君の遺影を見ながら、そうか、君は、もういないのか・・・。

 小針君に送って頂き、自宅近くの清水苑へ。今日は、町内のオヤジ連中との会合がある。先に行っていた家族と合流。そこで、葬儀の際に頂いたお礼の葉書に目が留まった。そこには、形式的な挨拶状のほかに、相澤君の手紙が添えられていた。心臓に病を抱えた彼が、今日あることを覚悟して残しておいたものだろう。他に、人がいるにも関わらず、滂沱として涙が溢れた。

 後に残された身に悲しい思いは残れど、我行く道に迷い無し。君達には未来と言う人生がある。私には残された人生をどう生きて行くのか、ただそれだけ、どうか悲しまないで下さい。 俺の人生。淳

 とある。そしてもう一枚には、ご遺族の挨拶の横に、「ありがとう、すべての皆々様へ。相澤淳」と彼の直筆があった。見事な覚悟ではないか。こういった青年が先に逝ってしまうことの不条理に、怒りを感じた。安らかにお眠り下さい。

0696 礼状に添えられた、相澤君の直筆。


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会合で浦和へ。

2009-09-29 11:57:10 | インポート

九月二十七(日)晴れ。

 今日は、午後一時より浦和のワシントンホテルにて、アジア和平日本委員会・埼玉奉賛会主催の平和祈念慰霊碑十五周年報告会があり、出席した。保土ヶ谷駅に向かう途中、大日本天誠団の内田団長を迎えに行き、横浜駅にて日本郷志同盟の清水常二氏らと合流。

 浦和方面に行くのには随分と便利になった。湘南新宿ラインが通る前は、京浜東北線でチンタラ行かねばならなかったが、今では、保土ヶ谷から湘南新宿ラインで赤羽まで行き、東北本線に乗り換えて一駅で着く。一時間ほどだが楽でいい。

 アジア和平日本委員会の皆さんが、タイのカンチャナブリ県のクワイ川のすぐ近くに建設した平和祈念公園。先の大戦で亡くなられた全ての国々の方々の菩提を弔うことを目的としている。私も過去に三度ほど慰霊祭に出席したことがある。クワイ川と言えば、映画「戦場にかける橋」の映画の舞台となった所だ。その映画の原作者であるピエール・ブールは、自らの捕虜体験をもとにして書き上げたと言われているが、彼の反日的な姿勢は有名で、やはりヒットした「猿の惑星」の猿は日本人をモデルにしたことでも知られている。

 「戦場にかける橋」の映画はアカデミー賞を受賞するなど、日本でも大ヒットしたが、事実と異なる点が多いとの指摘がある。

 大東亜戦争の真っ只中である昭和十八年のタイとビルマの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、捕虜となったイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳と名誉、戦争の惨さを表現した戦争映画。劇中に登場する英国兵への数々の懲罰は原作者のブールが実際に体験したものである。 但し、泰緬鉄道において捕虜が橋を設計し、かつ工事を行った事実はない。実際には、捕虜が携わったのは資材運搬などの単純労働のみで、架橋工事自体は日本陸軍の鉄道連隊が行った。また、現在残っている橋脚も木製ではなく当時の鋼鉄製のままである。当然ではあるが事実と異なる脚色が多い。

 会場となった部屋には、民族派の同志や関係者で溢れていた。乞われて乾杯の音頭をとった。歌や太鼓のアトラクションなど楽しい、かつ意義のある会だった。五時過ぎに帰宅。

 夜は、疲れていたのと、どうしても気になるお店があって、かねてから一度行ってみたかった。よし、と家族で出かけた。某商店街の近くにある韓国料理屋で、店の外観や雰囲気も良さそうなのに加え、鍋料理の写真が沢山あって、とても美味そうだ。勇んで入った。しかし、しかしだ、メニューの写真にある物と、出てきた品物のギャップがこれほど激しい店は珍しいのではないか。メニューと見比べて、家族で???。「上タン」を頼んだのだが、出て来たものは、そこいらのスーパーで売っているものよりも色も悪く、不味かった。思わず上タンではなく、ジョーダンだろと言ってしまった。

 他の肉も、メニューの写真とは大違い。ハッキリ言って、これは詐欺に等しい。期待していた牛のスネ肉とジャガイモの鍋も、ここまで不味いものを作るほうが難しいのではないか。スネ肉なんかは、出汁としてとったガラで、肉のカスだけが着いており、犬も食わないシロモノだ。

 こんな最低の店に入ったのは、生まれて初めてのことだ。子供達も、最後は、肉を残していた。最低の夜だった。


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「大吼」の秋号が完成しました。

2009-09-29 11:09:23 | インポート

九月二十六日(土)晴れ。

 朝食後に、愚妻と一時間半ほど歩いた。歩いていると分かるが、木々や花の景色が一変している。吹く風も心地よい。歩く速度よりも速く、秋が私達を追い越して行く。

 午後から机に向かった。機関誌の編集も佳境に入った。来週中には最新号をお届けすることが出来そうだ。また、私が編集をしている「大吼」の秋号が印刷所から届いた。「燃えよ祖国」に限らず、手塩にかけたものが完成すると、とても嬉しい。これは他の雑誌を編集している人にも共通の思いに違いあるまい。

 「大吼」の秋号は、野村先生の特集である。早いもので、来月は、野村先生の十七回忌となる。先生は、晩年、私に対して、「俺は、もう日本の明日など見たくない」と常々おっしゃっていた。自民党の体たらく、民主党のドタバタ、国の大本を忘れ末に走り・・・。野村先生の嘆きが最近、良く分かる。

 まためぐる秋のさみしさ 天の濃さ

 とは、先生の句である。今日は、事務所にも行かずに一日自宅でパソコンに向かっていた。夜は、「大吼」の秋号の完成記念に、とっておきの「甕雫」をブルースで、おっと、ロックでやった。

0695 ※ご購読の程を宜しくお願い致します。

 


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機関誌をデーターベース化しています。

2009-09-29 10:42:07 | インポート

九月二十五日(金)晴れ。

 「忙しい」を口実にして、アット言う間に一年が終わる。暑い、暑いと思っていたら、最近では朝などは、毛布が必要になった。

 最近、やっと機関誌のデーターベース化に手をつけた。昭和六十一年創刊の「大悲ジャーナル」から、現在の「燃えよ祖国」に改題してから、最新号で一七二号となった。その間には、私が不在の時もあって、月刊誌としては号数が合わないが、とにかく一七二冊も出してきた。初期のころは、パソコンなどなく、ワープロで打ったものを、切り貼りしてコピーして作っていた。当然、印刷所に出す余裕もなく、ただ出すことに追われ、あるとき読者の方から「がっかりした」と送り返されたこともあった。

 その後、愚妻の力を借りて、ワープロでの編集を覚え、幾らかはましな物になったが、それでもコピー機による製作は変わらず、両面印刷をすると紙が噛んでしまい、何枚もだめにしながら悪戦苦闘をしていた。大変なので、一時期、印刷所に依頼したことがあったが、やはり印刷代だけで二十万円近く経費がかかり、続かなかった。

 この苦労を革命的に変えたのは、パソコンの普及と軽印刷機の導入、さらにお世話になっている方から寄贈して頂いたカラーコピー機とプリンターの存在だった。それでも当時の雑誌関係のソフトは、マッキントッシュが先行していて、そのソフトの高いことにかなり絶望したが、何とか購入した。

 現在の印刷機は三代目だが、初期の物よりも性能はおろか、値段も断然安い。昨年には丁合機(頁を揃える機械)を購入し、それまで手作業で行なっていたことが、随分と楽になった。現在、購入したいものが、中綴じ、中折、耳切りを一体化した機械。かなりの高額だが、何とか頑張るつもり。

 そうやって作った機関誌だが、第何号に、どういった特集があったのか、反対に、あの特集は何号だったのかが、分からない。探すのも大変である。いつか、整理をしようと思っていたが、忙しい、を口実にそのままにしておいた。先週からパソコンのエクセル機能を使って整理を始めた。機関誌の表紙、内容、在庫などが一目で分かる。まだ六十冊程度しか入力をしていないが、来月ぐらいには完了させるつもりである。結構この作業が楽しい。

0694 平成10年の大悲ジャーナルです。


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久し振りにヨコハマを飲む。

2009-09-26 23:54:28 | インポート

九月二十四日(木)晴れ。

 午前中に歯の調子が悪くて歯医者へ。正午、伊勢佐木町の有隣堂で一時間ほど暇つぶし。喫茶店などにいても、一人では一時間もいられないのだが、書店では一時間などアット言う間である。日本の陸海軍の戦闘機のシリーズを集める本が出ていて、欲しかったが、飾る場所もないのであきらめた。

 六時に、関内駅にて、所用にてヨコハマに来訪した弊社の後援会長である、隠岐康氏と待ち合わせ。仕事の話も少々あったので、サリーを誘って関内の「三津哉」という寿司屋へ。私は初めての店だったが、何のことはないオヤジは、他の店での知り合いだった。まあ関内は、十七歳の頃から飲んでますから、古い人達は大体顔馴染みである。しかし、関内もいい店が少なくなった。たまに書店でヨコハマの飲み屋を特集したガイドブックを見るが、ほとんどガキを対象とした店や、昨今流行のホッピーなどを飲ませる店ばかりが注目を浴びている。ナメンジャネェーヨと言った感じですね。

 その後、サリーの店に寄ってから、クラブ、アルテミスに転戦。まあ最近のニュークラブというものにどうも馴染めない。隠岐氏には悪かったが早々に引き上げて、山下町のラッキーの店へ。ここに、後輩で某ホテルの支配人のY君が、私がいることを聞いて、急襲。楽しい酒席となった。十一時、突然汽笛が聞こえた。これだけで酒が飲めると言うもの。

 ヨコハマは浅草や池袋のような下町じゃネェンダよ。(住んでいる方には平身低頭)大体、昨日や今日の流行の店に、ヨコハマのオンナを連れて行けるかって言うの。ホッピーや消毒液のような焼酎を飲ませるアルコール依存症のたまり場みたいな店がもてはやされているが、それはヨコハマの文化じゃないね。もっと、大人が楽しめる、シブイ店を紹介したらどーなの、三流雑誌社さんたちよ。

 最も、ヨコハマのいい店を紹介されて、一見顔見知りのような他人で一杯になったなら、私の出番もなくなるから、紹介されるのは困るかも。何とか軒のシューマイではないけれど、雑誌に載るような店に、本物のヨコハマはないね。嘘じゃないよ。いずれ私が、これがヨコハマの飲み屋、特集をしますので楽しみにして下さい。自分のポリシーとして、人を接待する、良い店を知らない人とは、余り酒席を共にしたくない、と言うのが私のわがままな考えです。

 良い飲み屋、飯屋を知らないということは、良い友達がいない、ということと同義語と言うのが、私のスタンスです。ナマイキナことを言ってスマン、スマン、オスマントルコ。今、チョット酔ってます。親友の石橋卓次さんから頂いた「甕雫」をもう半分くらい飲みました。酒の肴は、野村先生との旅のアルバムです。もう寝ます。


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