白雲去来

蜷川正大の日々是口実

学純同の五十周年謝恩会に出席。

2010-11-30 12:44:50 | インポート

十一月二十七日)(土)晴れ。

 八時に子供に起こされた。良い天気である。早速朝食。このホテルの朝食が好きだ。メニューも豊富だし、それに大好きなポークハムもある。サリー夫妻やカメ&アコちゃん。小針、横山の両氏、それに松本君や小枝ちゃんのお二人もすでに席についていた。

 

 食後は、全員でロビーに集合し、明治時代に建てられた北海道庁や時計台の見学に出かける。この時期、札幌にしては暖かく、絶好の散歩日和である。全員で記念写真を撮り、自由解散。

Dscf2771 ※時計台をバックに、サリーファミリーと社友の皆さん。

 

 親戚の家に行く人や、私を除いた家族は、札幌に引越した、上の子供の友達と会いに出かけた。残った人たちは中央市場を見学。海産物を売る店が並んでいて、雰囲気は良いが、高いのか、安いのか良く分からず、冷かしただけ。少し早い昼食とも思ったが、ここはやはりビールに肴。

 

 その後は、狸小路を散歩し、以前入ったことのある「大公」というラーメン屋で、お約束の札幌ラーメンを食した。早目にホテルに戻り、夜の催しのスタンバイ。

 

 五時過ぎに、再びホテルのロビーに集合。ティールームでお茶をしていたら、何と隣のテーブルには、国の子評論の横山孝平、山本和八の両氏が「あんみつ」を食べているではないか。おぇーっという感じだが、考えて見れば二人とも下戸である。それでも相撲取りみたいな体格、加えて坊主頭で、どう見ても普通の職業に見えない二人が、揃ってあんみつを食べている姿は、驚きを通り越して、不気味でもあった。私はこれからその二人を、「あんみつ姫」と呼ぶことにした。

 

 犬塚博英民族革新会議議長も到着して、共に会場となるホテルへ。学純同の前田総裁と初めてお会いしたのは、確か昭和四十九年頃の事。当時前田氏は学純同の庶務長で、長谷川光良氏は事務長だった。現在、埼玉で中学の校長をしているS氏が在学していた立正大学で行なわれた、三島・森田両烈士の追悼祭に行った事などが懐かしい。その追悼祭を主催したS氏も出席されていた。田中清元氏や岐阜の花房東洋先輩、木村三浩氏など、何か同窓会のような雰囲気の中で、学純同の五十年祭は行なわれた。

 

 終了後は、近くの小料理屋で二次会。ここも楽しい会となった。十一時過ぎに終了。そのままホテルに戻った。


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札幌から小樽へ。

2010-11-29 11:16:27 | インポート

十一月二十六日(金)晴れ。札幌へ。

 朝七時に起床。贅沢に朝風呂に入ってからこれまた贅沢な朝食。皆さんにご挨拶をしたのちに、八時二十分の新幹線にて品川へ。品川から京急に乗り換えて羽田へ。今日は、明日、札幌のホテルにて行なわれる学純同の五十周年記念の祝賀会に出席するために札幌行きである。折角、札幌に行くのでツアーを組み、参加者を募集したところ、サリーファミリーなど何と十四名も集った。

 

 まずは、札幌で出発の祈願祭。といっても朝からビールで乾杯をしただけ。十一時二十分発のJALにて出発。定刻で千歳着。空港には、弊社社友会の梶浦直樹君や山本和八君などが迎えてくれた。予約していたバスで一路、小樽へ。小樽にある「青塚食堂」私は、この店が好きで、札幌に来る時は、必ずと言ってよいほど顔を出す。民宿も併設していて、二度ほど泊まったことがある。

 

 お店のオカミサンたちにご挨拶した後に、早速、昼間から宴会。ニシンやホタテ、うにと言った海の幸を堪能しつつ、乾杯が続く。お約束どおり、お店の前と、鰊御殿を背景に写真を撮ってから、小樽運河や北一硝子、オルゴール堂などを回った後にホテルへ。

Dsc00011 ※青塚食堂の前で、鰊御殿をバックに。

 

 シャワーを浴びて、少しのんびりした後に、ススキノの居酒屋で歓迎の夕食会。草莽塾の坪岡氏や弊社社友会の石澤博文君一行も合流。総勢二十二名もの人たちでの食事会である。その後、坪岡氏のお世話で、一軒転戦してから私達はホテルに戻ったが、サリー・ファミリーたちは三時過ぎまでススキノの夜を堪能していたらしい。


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日本を糺す会に出席。

2010-11-29 10:42:14 | インポート

十一月二十五日(木)曇り。憂国忌。

 益荒男が たばさむ太刀の鞘鳴りに

              幾とせ耐えて 今日の初霜

 世をいとう 世にも人にも先駆けて 

              散るこそ花と吹く 小夜嵐

  今日は、三島・森田両烈士が、市ヶ谷の東部方面総監室にて壮烈な自決を遂げてから四十年目の日。憂国忌である。ほとんどの歳時記には、この憂国忌が記載されている。「群青忌」も、そうなるように努力しなければ。

 

 大熊雄次氏と熱海駅で待ち合わせ。今日は、恒例の「日本を糺す会」が、熱海の老舗「古屋旅館」にて開催される。この旅館には、戦前、軍人はもとより文人墨客が多数宿泊されたらしく、縁の品が数多く飾ってある。特に、一階ロビーには、川島芳子の「一瀉萬里」の色紙がある。

 

 まずは、主催者の荒井清壽先生にご挨拶の後に、浴衣に着替える。四宮正貴先生や木川智君と同室である。六時から宴会。親しい人たちとの酒席は楽しい。その後、二次会、三次会と続くが、私は、二次会の途中で失礼して部屋に戻る。毎年、我々浪人をご招待して頂くことに心から感謝をして、布団に入った。


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腹を切った痛みに比べれば、足の痺れなんか・・・。

2010-11-29 09:39:55 | インポート

十一月二十四日(水)曇り。野分祭。

 今日にかけて かねて誓いし我が胸の

                 思いを知るは野分のみかは

 

 この辞世の歌を残して、三島由紀夫烈士とともに自決なされた、森田必勝烈士が自決に至る前日の思いに心を馳せる、という趣旨で始まったのが、一水会の行っている「野分祭」。

 

 随分前の事であったが、この「野分祭」が、開始から終了まで正座して行なわれたことがあった。足が痺れて、もし玉串奉奠に指名されたらどうしようかと、目立たないように下を向いていた。二時間近い正座で、案の定指名され、倒れる人が何名も出た。それを見て、どうしようかと思って余計に、縮こまって、指名されないことを祈った。

 

 すると司会をしていた犬塚博英さんが、「森田さんの腹を切った痛みに比べたら、足の痺れくらい何だ」と言われた。それを聞いて、もっと、もっと縮こまった。「野分祭」の忘れられない思い出である。

 

 残念ながら、所用があって欠席。大熊雄次、隠岐康の両氏に出席して頂いた。今年は、三島・森田両烈士没後四十年と言う節目の年でもあって、両烈士に関する本が沢山出版されている。私は、この事件に影響されてこの運動に入ったので、両烈士の四十年は、私の民族派運動の四十年でもある。


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色々なことがあった一日だった。

2010-11-29 09:20:07 | インポート

十一月二十三日(火)晴れ。新嘗祭。

 起床後に、玄関に国旗を掲げて皇居を遥拝。午前中は、自宅の掃除を家族総出で行なった。今日は、フローリングにワックスをかけたり、トイレ周りの掃除。そろそろ師走ムードである。終了後は、久し振りにマイカル本牧へ買い物に出かけた。

 

 帰宅すると、我が家の裏にある鉄工所にパトカーが二台も来ていて、警察官や訳の分からぬ人たちが大勢なにやら大声で話し合っている。ただならぬ雰囲気である。そういえば、この二三日、工場が稼動している雰囲気はなく、工場の事務所も電気が消えてひっそりとしている。すぐ裏なので、断片的に「債権者」「差し押さえ」といった声が聞こえる。鉄工所の社長の友人に私の知り合いがいるので、聞いてみたところ、「二十二日に不渡りを出して倒産したそうだ」とのこと。年の瀬が近づいているのになんと言って良いやら。挨拶をする程度で個人的な付き合いはなかったが、商売をしている人たちは大変だ。中国なんかにODAなんか出す金があるのならば、こういった企業に資金援助をしてあげたなら、どれほど助かるのだろうか。

 

 着替えて、蒲田で行われている「新嘗祭感謝の集い」に出席するつもりだったが、脳梗塞で倒れ、特別擁護老人ホームで闘病中の後輩の見舞いに、中学時代の仲間が集るというので、急遽そちらに向った。

 

 三年ぶりに会う彼は、脳梗塞の手術のため人相が変り、最初は誰だか分からなかった。看護の人に言われて、傍に行くと、彼の方から「蜷川君」と言われ、不覚にも涙をこぼしてしまった。時折、学生時代の仲間の名前や、陸上部の時の話が断片的に出るが、長い話は無理なようである。会話することがリハビリにつながるとの事で、二十分ほど話したのちに、彼の快復を祈って家路に着いた。


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