白雲去来

蜷川正大の日々是口実

泰平の眠りを覚ますトランプか。

2025-01-22 14:32:10 | 日記

1月21日(火)晴れ。

いつも大体八時過ぎに起きる。天気の良い日は、雨戸を全て開けて陽を一杯に入れる。有り難いことに我が陋屋は陽当たりだけは良い。元来の貧乏性ゆえか、部屋の中に陽が一杯に入ってくるだけで、何か得をしたような気持ちになる。

ニュースと映画以外のテレビはほとんど興味がない。随分前に盟友から誕生日のプレゼントに頂いたBOSEのコンパクトディスクで、ラジオか上の子供が買ってくれたディアゴの「ブルーノート」のCDを聞きながら、のんびりとコーヒーを飲みながら新聞を読む。午後からは、仕事の段取り。連載させて頂いている原稿の下準備や、機関誌「燃えよ祖国」や他の依頼されている原稿の下準備。疲れたら、読みかけの本を読んだり、事務所に資料を取りに行ったり・・・。

満員電車に揺られて毎日、仕事に汗を流している人たちが聞いたら、殴られそうだ。しかし、その分、定期的な収入や、ボーナスどころか、将来の保証もないし、老いて朽ちるだけだ。無防備に人生のリスクに直面しているわけだ。それでも好きなことをしているのだから文句の言えた義理ではない。

アメリカではトランプさんが大統領に就任。亡くなられた安部元総理ではないけれど、二度目の方が上手にやれそうな気がする。自国の安全を他国の軍備にゆだねている太平楽な日本と日本の政治家。幕末の黒船騒動ではないが、泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず。泰平の眠りを覚ますトランプとなるかどうか。私とて予測不能である。

 


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三丁目の夕日の時代。

2025-01-21 14:41:22 | 日記

1月20日(月)曇り。大寒。

一年で一番寒いとされている今日は、大寒。私の事務所は「ダイカンプラザ」。関係ないか。なのに春めいて暖かい。寒いのは苦手だなぁー。体調もイマイチだし早く暖かくなってほしいものだ。

高校の同級生から頂いた『三丁目の夕日』のコミック本を沢山頂いた。映画も確か三作だったか皆見た。舞台になっているのは昭和30年代の東京の街。建設中の東京タワーが鈴木オートから見えるので、新橋周辺が架空の街「夕日町三丁目」かもしれない。鈴木オートの一人息子の一平君は、私と同じ世代の人である。小学生の低学年の時に、出来たばかりの東京タワーに母と行ったことがある。翌日、学校に行って東京タワーのミニチュアをみんなに見せたら、とても羨ましがられた。

当時、私の住んでいた横浜の下町には、まだ小さくても庭のある家が多くあって、大体「やつで」や「ザクロ」が植えてあった。その天狗のうちわのようなヤツデには、実が生り、細い竹を切ってきてヤツデの実を入れて「ヤツデ鉄砲」を作って遊んだが、今では、作り方を忘れて作れない。笹の細い所を編んでカメを作ったり、レンゲで花で髪飾りも作ったが、全く作り方を覚えていない。

納豆売り、豆腐屋のラッパの音、アサリとシジミ売り。皆同じ時間に、時を告げるようにやって来た。「先々の時計となりや小商人(こあきうど)」という川柳がある。本当かどうかは知らないが、江戸時代に出来たものらしい。そういう「小商人」が町から消えて久しい。時計などもあまりない子供の頃、近所の工場から終業を知らせるサイレンが鳴ると5時で、「カラスが泣くから帰ろう」と皆で言って、帰ったものだ。

三橋美智也の「古城」という歌が流行ったのは昭和34(1959)年で私は8歳。一番の歌詞は「松風騒ぐ 丘の上古城よ独(ひと)り 何偲(しの)ぶ 栄華の夢を 胸に追い あゝ 仰げば佗(わ)びし 天守閣」。ラジオから良く流れていた。その歌詞の中の「栄華の夢を 胸に追い」と言う所を、ずーっと「映画の夢」と思っていた。子供の頃のことを思うと、「三丁目の夕日」の時代と、三橋美智也の歌がセットになる。

夜は、昨日に続いて、伊勢志摩の社友から送って頂いた「牡蛎」三昧。今日は、アヒージョと牡蛎と玉ねぎのオイスターソース炒めを作った。これで牡蛎を完食。満足な一日だった。


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柿、いや牡蛎食えば・・・。

2025-01-20 14:59:48 | 日記

1月19日(日)曇り。

機関誌『燃えよ祖国』の編集が終わり、印刷所に入稿。後5日もすると出来上がる。一段落したので、ご褒美にと焼肉ランチ。前回は、最低最悪の焼肉ランチの店に入ってしまったので、今回はリベンジ。恐らく、関内周辺では一番の老舗のお店に行く。昔は福富町にあったが、ビルの老朽化で移転した。やはり美味しかった。リーズナブルで、肉を二人前追加しても二人で6千円でおつりが来た。

午後二、伊勢志摩の社友からドドーンとセル牡蛎(殻付き)が届いた。「少し小ぶりなので60個ほど送ります」とメッセージを頂いたが、私は牡蛎は小ぶりな方が好きで、大ぶりな夏牡蛎などは、好きではない。夜、家族で、生牡蛎、蒸し牡蛎、オーブンで焼き牡蛎の牡蛎三昧。酒は、やはり高知の社友から頂いた下手なワインよりも美味しい「桂月ーSake Nature」。高知出身の歌人で随筆家の大町桂月の名前をとったものだ。牡蛎にたっぷりのレモンを絞って、皆無口になって夢中で食べた。それでもまだ、半分残っている、明日はアヒージョにするつもり。

現在NHKで再放送中なのが「坂の上の雲」。日本人が元気になるドラマである。主人公の秋山兄弟と共に主人公となっていたのが正岡子規。牡蛎ではないが「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を知らない人はいないだろう。子規は結核を患い35歳でなくなるのだが、大食漢としても知られており、闘病中でも食欲は旺盛で、病臥中の記録『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」の中のある日の食事を記したものに、「朝は、かゆ4椀、ハゼの佃煮、梅干し。昼は、お粥4椀、鰹の刺身1人前、カボチャ1皿、佃煮。夜は、奈良茶飯4椀、なまり節、茄子一皿。2時過ぎ、牛乳1合ココアまぜて、煎餅菓子パンなど10個ばかり、昼食後梨2つ、夕食後梨1つ」。亡くなる2年前の記録と言うが、とても病人の食事、食欲とは思えない。

もう40年以上も前のこと、亡くなられた盟友の折本満氏のお世話で、奈良に川井春三先生を訪ねたことがあった。その折に法隆寺に詣で子規の句碑の前で写真を撮った。川井先生はもとより、同行した渡邊康司氏も皆、幽明境を異にしてしまった。時が過ぎるのではなく、人が去って行く。※頂いた牡蛎、生と蒸し牡蛎。

 

 


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ポーツマスの旗。

2025-01-18 17:33:43 | 日記

1月16日(木)曇り。

いやはや寒い一日だった。まあこの時期なのだから「寒い」のは当たり前か。

吉村昭の『ポーツマスの旗』を久しぶりに読み返している。日露戦争の講和の事実が書かれていて、改めて当時の日本が、まさに薄氷を踏む、という状況だったことが分かる。国民は、旅順の陥落、奉天戦の勝利、日本海海戦の大勝利に湧き、イケイケドンドンで、新聞には、ロシアのウラジオストックまで攻め入ろうなどと言う勇ましい論調が踊る。

日露戦争に動員された兵力は、108万8千996名、戦死46万423名、負傷約16万名。俘虜2000人。消費した軍費は、陸軍13億8千328円余、海軍2億3千993円余、その他を合計すると19億5千400円にも達していた。これは日露戦争前の国家予算の実に8倍である。 奉天戦で敗れたとはいえ、国力に差のあるロシアは、シベリア鉄道を使って、続々と陸軍部隊を増強しつつあった。それに反して日本軍は、人員と物量の差が表面化。しかし日本は、これを表ざたにすることはできず、政府と軍部は早い講和を望んでいたが、連戦の勝利により、国民はそんな現実を知る由もなく勝利に酔いしれていた。そして、多くの同胞の血が流された戦争において、ロシアから莫大な賠償金や領土の割譲が得られるものと期待していたのである。それが、当時の国民世論であった。

もしも政府が、満州戦線の日露両軍の戦力の差を公表すれば、国民の理解は得られ、どのような条件でも戦争の終結を望む声が主流となるに違いないが、そうなれば、ロシア側は日本の戦力が尽きたことを知り、全軍に総攻撃を命じて、戦争は長期化して、ますます不利になる。そのような状況の中で、全権大使となった小村寿太郎に、送別会の席で、元老の井上馨は涙ぐんで、「君は実に気の毒な境遇に立った。今まで得た名誉も地位も、すべて失うかもしれない」と述べ、また伊藤博文も、「君が帰国した時には、他人はどうであろうと私だけは必ず出迎えに行く」と語ったという。

ロシアとウクライナとの戦争も終焉のめどが立たないでいる。小村のような優秀な政治家がいて、一日も早く停戦、終戦にならないものか。夜は、かた焼きそばと煮カツとで酔狂亭にて独酌。

 

 


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三島由紀夫先生の生誕百年・記念誌

2025-01-16 14:17:49 | 日記

1月15日(水)晴れ。

暖かい一日だった。この時期に天気が良く、暖かいだけで何か得をしたような気持になる。寺山修司のコピーではないが「書を捨て、町に出よう」かとも思ったが、遅れている機関誌の校正に一日没頭した。先日、A新聞のM女史とのランチの間、話題になったのは「紙媒体の衰退」である。M女史が関係していた『週刊朝日』はもとより『月刊宝島』、『ジャラン』など100冊以上が休刊、廃刊を余儀なくされている。また『夕刊フジ』も今月で休刊とか。

インターネットが普及してから休刊のニュースをよく耳にするようになった。 2012年頃からはスマホが普及し始め、配信メディアをウェブへ移行した雑誌も少なくない。2020年頃からはカメラ誌が立て続けに休刊。 カメラの販売台数減少、スマホの普及などが影響していると思われる。出版社は、メディアの多様化や出版不況を休刊の理由として挙げている。 なお、廃刊ではなく休刊として扱っているのは、新たな雑誌コードの取得が困難なことや、出版を再開する可能性があることが理由。(「MEMORVA」より)

私の機関誌などは、弱小の上に「超」が3つもつくような部数の雑誌だが、営利を目的にしている訳ではなく、あくまでも民族派運動の一環として発行しているので、途中でやめることが出来ない。とは言っても経費がかさむ一方で、発行に支障をきたすようになってきた。他の団体、民族派系のミニコミ紙も大変かとは思っている矢先に、思い切った雑誌が発行された。三島由紀夫先生の生誕百年を記念した雑誌、『殉国の行動者ー三島由紀夫』(RJ刊・1800円+税)。A4版・96頁という贅沢な雑誌である。三島由紀夫先生の「文学作品」に焦点を当てたものではなく、三島先生が結成した楯の会のOBや三島先生の思想と行動に影響を受けた人たちが、原稿を寄せている。この時期に、こういった雑誌を出すことの意義と意味。関係者の努力に敬意を表する次第です。


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