白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ララミー牧場。

2025-01-31 13:45:50 | 日記

1月30日(木)晴れ。

最近は、朝食を食べずに、昼と夜の二回のみにしている。別段ダイエットをしている訳ではなく、食欲がないだけ。昼めしは、上の子供の「ふるさと納税」の返礼品の「アフロ餃子」を焼かずに蒸した。それに、美味しそうな卵でTKGに豚汁。昼食後に、良い天気なので一時間のウォーキングに出た。我が家から弘明寺商店街を通って、京急の井土ヶ谷駅まで。駅横のマックでお茶。帰宅後は、機関誌『燃えよ祖国』の来月号の原稿の準備。夜は、昨日、横浜橋商店街の肉屋で買った「ハラミ」をイワタニの「やき丸」で、焼肉屋さん。キャベツの千切りをシーザードレッシングで食した。お供は、恐る恐る「黒霧島」をお湯割りで。

古い話で恐縮だが、私が小学生の高学年から中学生の頃に良く見たテレビドラマに「ララミー牧場」と言うものがあった。資料によれば、そのドラマは、1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたテレビ映画(テレビドラマ)。1860年代のワイオミング州ララミーを舞台に、牧場経営者とその仲間である流れ者のガンマンの周囲で起こる出来事を描いた西部劇である。主演はジョン・スミス(英語版)とロバート・フラー。日本では、1960年6月30日から1963年7月18日まで、毎週木曜日夜8時からNETテレビ(現:テレビ朝日)系で放送された。提供は、アサヒビールとバヤリースオレンヂ(現在のアサヒ飲料)。

我が家にテレビが来たのは、確か小学生の5年生ぐらいの時だから、その頃に見ていた。当時は、「ララミー牧場」と言っても、その「ララミー」がアメリカのどこにあるのかも知らなかった。日本で言えば時代劇みたいなものなのだろうが、級友の中には、アメリカ人の殆どが、まだ西部劇のような生活をしていると信じているものが何人もいた。そのドラマの主題歌を歌ったのがデュークエイセス。なんとなく、メロディーを覚えている。機会があったなら、また見たいと思っている。


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『火群(ほむら)のゆくへ』

2025-01-30 16:49:46 | 日記

1月29日(水)晴れ。

天気が良いので散歩がてらぶらりと伊勢佐木町へ。馴染みの焼肉屋さんでランチ。極カルビランチ1800円なり。関内周辺の焼き肉屋を回ったが、結局はこのお店に落ち着く。食後は、南区役所に行きマイナンバーカードの更新。

終了後に、久しぶりに南区役所近くの横浜橋商店街を散策。カツオが好きな時は、随分とこの商店街の魚屋に通ったが、なぜか食の好みが変わってしまい、来ることが少なくなった。日にちが悪かったのか定休日のお店が多くガッカリ。帰宅後は、先日アマゾンから届いた『火群(ほむら)のゆくへー元楯の会会員たちの心の軌跡』(鈴木亜繪美著・田村司監修、柏艪舎刊)を読む。この本が出版されたのは2005年で、三島・森田両烈士の自刃後35年で、今から20年前のこと。

私は、かつて楯の会の人たちと言えば、一期生の阿部勉、伊藤好雄の両氏にはお世話になったが、そのお二人以外では「経団連事件」に決起した西尾俊一さん、そして昭和57(1982)年に笠原正敏さんや犬塚博英先輩たちが行った沖縄の祖国復帰10周年記念を記念した「民族派青年有志・沖縄戦跡慰霊巡拝団」にてご一緒した本多清さん以外に知り合いはいなかった。しかし、それらの人たちから楯の会や三島・森田両烈士について、何か聞いたという記憶が全くない。後年、楯の会関係者が書かれた本などを通じて、その当時の周辺の事情を知ったぐらいだ。『火群(ほむら)のゆくへ』を読んで、昭和45年11月25日の各人の衝撃と動揺、其の後の心の葛藤などを知り、彼らが背負ってきたものの大きさに、今更ながら驚いた次第。

20代の多感な時に、尊敬する人と先輩・同志の自刃と言う出来事に遭遇したことは、元楯の会の人たちの人生に影響を与えないはずはない。本に登場する人たちは、私と同世代か、少し上の人達。5期生の人でも、今年74、5歳で1期生の人は80歳近い。私も野村先生の晩年の歳を越えた時は複雑な思いがあったが、元楯の会の人たちも同じ思いだったに違いあるまい。


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植垣康博さんのこと。最終章

2025-01-28 16:05:03 | 日記

1月26日(日)晴れ。

良い天気である。正午に志村馨、松本佳展の両君に迎えに来て頂き、新横浜の中華料理店にて開催される大行社新年総会に向かう。そういえば、2年前の大行社の新年総会に行く途中で、札幌の梶浦直樹君失踪の第一報が入った。あれから2年か。どうしているのやら、元気でいるならば良いのだが。新横浜で群青の会の大熊雄次さんと合流。2時より開会、諸先輩にご挨拶をして席着く。良い宴席だった。終了後に、長者町に新しく開店した志村馨君の友人の店にて二次会。更に、本牧の「ブギーカフェ」に転戦して帰宅。

古い、私のスクラップブックを見ていたら、先日亡くなられた植垣康博さんと鼎談した記事が出てきた。もう20年も前だが、最初は「死刑制度」について、私と、植垣さん、それに死刑制度反対の運動をしている方の3人で、場所は植垣さんのお店「バロン」である。次は、2005年の6月に『実話ナックルズ』の特集号に掲載された「刑務所・拘置所の処遇について」の鼎談。サブタイトルがエグイ。「犯罪の『HERO』が語る我々の闘争」。前後2回に分けて掲載された。プロデュースして頂いたのは、当時の編集長の久田さん。いずれ私の機関誌『燃えよ祖国』に再録してみたい。

また、平成3(1991)年に発行した機関誌『燃えよ祖国』の前身の『大悲ジャーナル』の創刊号に、植垣さんが東京拘置所から「三島由紀夫に学ぶこと」という貴重な原稿を寄せて頂いた。今年は、三島先生の生誕百年。三浦さんの鼎談と共に、掲載してみたい。


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植垣康博さんのこと、その2。

2025-01-27 12:53:12 | 日記

1月25日(土)晴れ。

最近は、新しいお店を開拓しようと、暇があると出かけている。今日は、馬車道にある某焼肉店でランチ。出てきた肉のルックスは良かったが焼くと固くなる。なんでやねん!ランチがダメな店は夜もダメと、勝手に解釈しているので、一度でゴメンナサイ。夜は、タンメンスープを使って野菜煮込みうどん。「魚久」の魚の粕漬。お供は、ゆるゆると「黒霧島」のお湯割り。

昨日の続き。東京拘置所が現在のように新しくなる前、新舎と旧舎とに分かれていて、新舎はおおむね初犯の人たちで、旧舎(北舎)は、再犯の人たちが収容されていた。小雨にけむるある春の日、新舎と旧舎の分かれ道に、大きな桃の花が咲いていた。(記憶違いかもしれないが)それを看守と共に見上げている小柄な男がいた。私は、面会の終わりで房に帰る途中、引率の看守が小声で「永山だよ」。普段は、他の拘置人とすれ違うと、面会室に行く者が壁側に向かされて、お互いに顔を認識させないようにするのだが、この日は、相手が立ち止まっていたので、そのまま横を通った。永山氏の弁護士は、後年、親しくさせて頂いた、有名な遠藤誠先生で、因縁浅からぬものを感じた。

面会室には、「びっくり箱」という窓のない電話ボックスの様なものがあり、自分の番が来るまでその中で待たされる。偶然、三浦和義さんと一緒になり、隣通しの「びっくり箱」に入った。小声で、会話していたら、「コラ、話をするんじゃない」と怒られた。植垣さんからは、其の後も、拘置所の弁当の食べ方や、ノート、便箋の冊数まで細かく指導して頂いた。特に、当時の東京拘置所の食事は、米が6割、麦が4割の「バクシャリ」ご飯がアルミの弁当箱に入ってくる。植垣さん曰く「麦は軽いので、弁当箱をさかさまにして、蓋に飯を乗せて食べる。そうすると、下の麦は食べなくても、銀シャリだけ食べることが出来る」。一時、差し入れ屋から「自弁」(お金を払うと、弁当が届く)を取っていたこともあったが、冷めると美味しくないので、以後は、「官弁」で我慢していた。

7月に私は「赤落ち」(刑務所に行くこと)して、それから4年ほど植垣さんとは連絡が取れなかったが、私が、戦線復帰を果たしても、まだ植垣さんや三浦さんが、東京拘置所にいるのを知り、本当に驚いたことがある。植垣さんに20年の判決が下ったが未決通算を引いて、残刑の5年ほどを甲府刑務所に過ごす。後日、復帰した植垣さんとお会いした時、「まいったよ、プロレタリアの俺が、ブルジョアの着るミンクのコートの裁縫してたんだぜ」と大笑い。ちなみに、植垣さんが出所すると、植垣さんの称呼番号(刑務所での認識番号)が、私の後輩で、東京証券取引所籠城事件で、甲府刑務所に下獄した板垣哲雄君が引き継いだ。これも不思議な縁だ。ーこの項続くー※写真は2014年10月19日、中華街で行われた『野村秋介追悼・群青忌」の直会で、挨拶をする在りし日の植垣さん。


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植垣康博さんのこと。

2025-01-25 17:08:25 | 日記

1月24日(金)晴れ。

午前中に、後輩で現代の大陸浪人を自任する杉山君から電話が入り、「ラインもしましたが、植垣さんが今朝亡くなりました」。脳出血で倒れ、目が不自由となって静岡市の介護施設に入っていると、やはり杉山君から聞いていた。今年に入ってまだ24日しかたっていないのに、一日には岐阜の花房東洋先輩、そして植垣康博さんの訃報に接するとは。お二人と私とはほぼ同世代。

忘れ難い一枚の写真がある。詳しい年月日は忘れたが、今から20年ほど前のこと。静岡で植垣さんが開店した「スナック・バロン」の開店10周年記念パーティーに出席した折の物で、私と植垣さん、その隣が、出版界の風雲児と言われた「モッツ出版」の高須基仁氏、そして前列には、鈴木邦男さんと、もと赤軍派議長で「日本のレーニン」と言われた塩見孝也氏。

右翼民族派の私や鈴木邦男さんが、左翼の植垣さんや塩見、高須氏らと仲良く並んで写っていることに、違和感を覚える人もいるかもしれない。色々なこともあったが、それはすべて「時」が解決したとしか言いようがない。植垣さんとお会いした、と言うのは表現が適当ではないが、知り合いになったのは昭和62(1987)年の春、私がその年の1月に、「都会ではサラリーマンが一生かかっても都心では一坪の土地を買うことの出来ない、狂乱物価を招いた元凶」として某大手不動産会社の会長宅を同志と共に襲撃占拠した。東京拘置所にて公判を待つ間、一水会の機関紙『レコンキスタ』上に原稿を寄せていた植垣さんも、同じ東拘にいると言うことで、鈴木邦男さんから「手紙を出して見たら」と紹介されて、文通が始まり、拘置所内の生活などを色々アドバイスをして頂いた。本も何冊か差し入れして頂いたこともある。覚えているのは澤田ふじ子『闇の絵師』、同じく郡上青山藩の脱藩浪士隊のことを描いた『葉菊の露』など。その『葉菊の露』は、今でも私の「心に残る一冊」として大事にしている。

当時の東京拘置所には、いわゆる「ロス疑惑」の三浦和義氏や連続射殺事件で死刑囚の永山則夫氏、「連続企業爆破事件」の人達など有名人が多く座って居た。植垣氏は一九七二(昭和四十七)年に逮捕されて以来、約二十七年という途方もない歳月を獄中に過ごした。野村先生が「経団連事件」で、東京拘置所にいた昭和52(1977)年の時も、植垣さんは東京拘置所にいて、植垣さんと房が近く、何度も野村先生と「通声」(窓越しで会話をすること。当然違反行為である)していたという。ーこの項続くー


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