白雲去来

蜷川正大の日々是口実

霜鬢(そうびん)明朝 又一年。

2024-12-31 16:16:05 | 日記

12月31日(火)晴れ。大つごもり。

先生などと言う、大したものでない私でも、さすがに師走は忙しい。障子の張替えをしようと思ったが4枚あるうちの2枚がどうしても外れない。30年も経っている木造屋なので、恐らく二階の重さでゆがんでいるのかもしれない。仕方がないので外れる2枚のみの障子を張り替えた。その後、レンジフード、換気扇の掃除。10月にやったばかりなのであまり汚れていなかった。終了後は、スタンドで洗車。きれいになった車で、保土ヶ谷駅まで下の子供を迎えに行く。久しぶりに家族が揃った年の瀬。

いきなり玄関の室内灯が切れてしまった。切れる前に何かサインでもあれば良いのに、最近の家電は徐々にダメになるというのではなく、いきなり壊れるから始末が悪い。慌てて、量販店へ。それから、近所のスーパーで、少しだけ買い物。あっという間に4時過ぎだ。留守中に松本佳展君が暮れの挨拶にと、ビールを一箱担いできてくれた。録画してある「富士山女子駅伝」を見ながら一杯やるか。

大晦日になると、必ず浮かぶ漢詩がある。中国の詩人である高適の「除夜作」。北海道の果てで、寒さに震えながらラジオで聞いた横浜港の汽笛。今にして思えば、良い思い出となっている。       
旅館寒燈獨不眠  旅館の寒燈に独り眠れず
客心何事轉凄然  客心何事ぞ転(うた)た凄然
故郷今夜思千里  故郷今夜 千里に思う
霜鬢明朝又一年  霜鬢(そうびん)明朝 又一年

大晦日の夜に旅館の寒々とした灯りの下、眠らずにいる。旅人の心に、どうしたことだろう…痛ましい気持がこみ上げてくる。この夜、千里離れた故郷のことを思う。明日の朝はもう新しい年だ。この鬢の白髪もまた年を重ねるのだなぁ…。

本当に髪の毛は霜のように白くなって、年が明ければ74歳となる。今年は2度も入院もした。新年が佳い年でありますように。


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恍惚と寒し青夜のもがり笛。

2024-12-28 16:26:28 | 日記

12月27日(金)晴れ。

野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の中の「冬の部」に「恍惚と寒し青夜のもがり笛」という句がある。厳寒の夜空を、風がヒューヒューと音を立てて渡ることのたとえである。わが陋屋(ろうおく=むさくるしい家)は、建物の関係か風の通り道となっており、少しの風が吹いても風音が気になって仕方がない。有難いことに、周りは建売の住宅が多いせいか、風が通る音だけしか聞こえないが、一昔前ならば、竹でや丸太で組んだ垣根などに当たって、まるで笛を吹くような音が聞こえたものだ。この音を「虎落笛(もがりぶえ)」と呼ぶことを知ったのは大人になってから。

「虎落」の「もがり」とは、竹を筋違いに組み合わせた冊のことを言う。語源は、大昔は、人が死ぬと、その屍(かばね)を一定期間据え置いたと言う。その仮の葬儀場を囲む柵のことを「もがり」と呼んだそうだ。それがなぜ「虎」の字に当てられたのかは、不明である。(私が知らないだけなのかもしれない)この虎落笛の音は、「鳴る」よりも「唸る」という形容の方がふさわしい。「風が唸る」。人生も下り坂になると「風の音」にも様々な想いが巡る。

昼は、高校の同級生のY氏、昨年仕事を引退したI氏と共に関内の「橘」という小料理屋さんでランチ。三人で会うのは久しぶりの事だ。当然ながら三人とも古希を過ぎているので病気の話や、久しく会っていない友人、知人の消息などの情報交換。「亡くなった」方が多くて歳月の流れを実感する。送って頂き帰宅。お世話になりました。夜は、これまた久しぶりに、自宅近くのお好み焼き屋の「つるや」で一杯。最近は、座敷の席が辛い。長い時間座って居られないのだ。日本の伝統文化を守れなどと言いながら、我ながら情けない。


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冬将軍到来。

2024-12-28 15:34:59 | 日記

12月26日(木)晴れ。

昼食を兼ねた朝食は、頂き物の「尾島」のチャーシューをたっぷり使ったチャーハン。昔の町中華に行くとチャーハンを「焼飯」と書いてあったが、今でもそんな店があるのだろうか。昼近くになると我が家に日が当たり、暖かくなるが、日が落ちるとさすがに12月、めっきりと寒くなる。冬季にシベリヤ方面からやって来る、強い季節風がもたらす厳しい寒さのことを「冬将軍」という。と「歳時記」で知った。ナポレオンを撤退させた、寒さに因んでつけられたのが出典と言う。ナチスドイツも、その冬将軍にソ連への侵攻、勝利を阻まれた。

その独ソ先戦での軍関係者の死傷者は、ソ連が1、470万人で、ドイツは390万人と言われている。民間人を含めるとソ連は2000万人から3000万人で、ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。と資料にある。

先日、伊勢佐木町の書店に行ったら、独ソ戦を題材にした逢坂冬馬さんの『同志少女よ敵を撃て』(早川書房)が、売上ランキングの上位にあった。興味のある方は、『独ソ戦ー絶滅戦争の惨禍』(大津毅著・岩波新書)と共にお読みすることをお勧めします。ロシアなどの外国は、二度とそんなことにならないように軍備を強化し、我が国日本は、そんな惨禍を繰り返さないために「諸国民の公正と信義を信頼して」平和を守る。という。馬鹿に付ける薬はないか。

夜は、お世話になっている方が、私の退院祝いとのことで関内にて食事。その後、紅灯の巷にて傾城と傾国を相手に杯盤狼藉。お世話になりました。

 


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年末雑感の2。

2024-12-26 12:05:43 | 日記

12月25日(水)晴れ。

昨日は、世の中を斜に構えて生きていた若い頃のことを書いてしまった。ちょっと反省している。

今日も良い天気である。午前中は自宅の片づけをした。天気が良いだけで何か得をしたような気持になる。最近は朝食を取らないので昼食は、買い物ついでに、久しぶりに馬車道の勝烈庵へ行った。昼時だったので、二組待ち。ロースかつ定食。1980円に1個550円のカキフライを4個。心なしかカツが以前より薄くなり、値段も上がったような気がする。カキフライも美味しいのだが、1個550円か・・。お会計は、二人分で6160円。美味しいけれど、一人3000円のランチ、いい値段だ。

食後は、みなとみらいにあるニトリで、テーブルクロスや、小物を入れるワゴンやフェイスタオルなどを購入。テーブルクロスやランチョンマット、フェイスタオルなどは大晦日にそっくり取り換える。新年は、そういった新しいもので、顔を洗い食事をする。クリスマスなどよりも、新年を迎えることのほうが、私にとっては大事な年中行事である。

夜も、豚肉を使って「豚しゃぶ」。自宅の近所に、カトパンとか言う女子アナの嫁いだ方がオーナーのスーパーがある。肉がそこそこ安いので、繁盛している。そこでイベリコ豚を買った。昆布と高知のかつお節をたっぷり使って出汁をとった。良い匂いが部屋に充満する。サラダは、キャベツの千切りに、ニンニクをつぶして、多めのオリーブオイルで揚げたものを、熱々のままキャベツにかける。好みで塩コショウ。豚しゃぶは、「金のゴマダレ」にラー油を少し入れて食べる。野菜は、レタスにほうれん草、長ネギ。〆は「五島うどん」。デザートは、青森県のリンゴ品評会で最高賞に輝いた、黒石市のリンゴ。社友から頂いたものだ。食べる前に、そのリンゴを1,2個玄関に置いて置く。ヘタな芳香剤より良い香りがする。

案の定、紀州のドンファンの妻が、検事控訴を受けた。殺されたのか、事故死なのかは分からないが、亡くなられたにもかかわらず、こんなに同情されない人は珍しい。「似たもの夫婦」という言葉がある。違った意味で、この人たちに当て嵌まる。まあどうでも良いか。


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クリスマスに、思い出はない。

2024-12-25 17:37:46 | 日記

12月24日(火)晴れ。

クリスマスイブか・・・。と言っても若い頃と違って何の感慨もない。5,6年前まで友好団体の忘年会が二子玉川駅の近くのレストラスで行われ参加していた。駅の周りには、この時期にはクリスマスのイルミネーションが煌びやかに灯り、道行く人たちが皆、幸せそうに思えたものだ。

高校生の頃に、二子玉川の手前の上野毛駅近くにあるドライブインでアルバイトをしていたことがあった。当時は、東横線で自由が丘まで行き、そこで乗り換えてから上野毛で下車。多摩美術大学の前を過ぎると「タマリバー」というドライブインがあった。自由が丘に早く着くと、駅前にあった古書店に行き暇をつぶしたり、お金がある時は駅の近くにあった「5スポット」というジャズ喫茶に入った。今ほどではないが、クリスマスの季節になると自由が丘駅周辺は、ジングルベルなどが流れていたりして、クリスマスの雰囲気を醸し出していたが、ガールフレンドどころか、金もない高校生の私には、クリスマスのなどを楽しむ余裕などなかった。

後年、玉川高島屋の道路を隔てた前にあった「菩提樹」というレストランが好きで通った。地下に続く壁には日本鋼管の溶鉱炉の煉瓦が使用されていたり、椅子が日本商工会議所の椅子だったりで凝った造りのお店だった。書画骨董がお店のインテリアとなっていて中国の思想家で日本に亡命した胡蘭成の書があったことを覚えている。エビフライが特大で感激したものだ。このお店もまだあるのだろうか。

20代の前半のクリスマスの夜に、「亡国憲法解体」というビラ貼りをしていて、パトカーに捕まったことがあった。まだ、ゆるい時代で、「こんな夜中にビラなんか貼っていないで、早く帰りなさい」と説教だけで許してもらった。糊の入ったバケツを持ちながらの帰り道、ちょっと切なかったが「俺の恋人誰かと思ふ。神の造りた日本国」という、三島先生と共に自決した森田必勝烈士の愛した歌をつぶやきながら、クリスマスの夜にトボトボと帰ったことを覚えている。※昭和49年頃に学純同の大場俊賢先生より共同で作って頂いたポスター。

 


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