白雲去来

蜷川正大の日々是口実

植垣康博さんのこと、その2。

2025-01-27 12:53:12 | 日記

1月25日(土)晴れ。

最近は、新しいお店を開拓しようと、暇があると出かけている。今日は、馬車道にある某焼肉店でランチ。出てきた肉のルックスは良かったが焼くと固くなる。なんでやねん!ランチがダメな店は夜もダメと、勝手に解釈しているので、一度でゴメンナサイ。夜は、タンメンスープを使って野菜煮込みうどん。「魚久」の魚の粕漬。お供は、ゆるゆると「黒霧島」のお湯割り。

昨日の続き。東京拘置所が現在のように新しくなる前、新舎と旧舎とに分かれていて、新舎はおおむね初犯の人たちで、旧舎(北舎)は、再犯の人たちが収容されていた。小雨にけむるある春の日、新舎と旧舎の分かれ道に、大きな桃の花が咲いていた。(記憶違いかもしれないが)それを看守と共に見上げている小柄な男がいた。私は、面会の終わりで房に帰る途中、引率の看守が小声で「永山だよ」。普段は、他の拘置人とすれ違うと、面会室に行く者が壁側に向かされて、お互いに顔を認識させないようにするのだが、この日は、相手が立ち止まっていたので、そのまま横を通った。永山氏の弁護士は、後年、親しくさせて頂いた、有名な遠藤誠先生で、因縁浅からぬものを感じた。

面会室には、「びっくり箱」という窓のない電話ボックスの様なものがあり、自分の番が来るまでその中で待たされる。偶然、三浦和義さんと一緒になり、隣通しの「びっくり箱」に入った。小声で、会話していたら、「コラ、話をするんじゃない」と怒られた。植垣さんからは、其の後も、拘置所の弁当の食べ方や、ノート、便箋の冊数まで細かく指導して頂いた。特に、当時の東京拘置所の食事は、米が6割、麦が4割の「バクシャリ」ご飯がアルミの弁当箱に入ってくる。植垣さん曰く「麦は軽いので、弁当箱をさかさまにして、蓋に飯を乗せて食べる。そうすると、下の麦は食べなくても、銀シャリだけ食べることが出来る」。一時、差し入れ屋から「自弁」(お金を払うと、弁当が届く)を取っていたこともあったが、冷めると美味しくないので、以後は、「官弁」で我慢していた。

7月に私は「赤落ち」(刑務所に行くこと)して、それから4年ほど植垣さんとは連絡が取れなかったが、私が、戦線復帰を果たしても、まだ植垣さんや三浦さんが、東京拘置所にいるのを知り、本当に驚いたことがある。植垣さんに20年の判決が下ったが未決通算を引いて、残刑の5年ほどを甲府刑務所に過ごす。後日、復帰した植垣さんとお会いした時、「まいったよ、プロレタリアの俺が、ブルジョアの着るミンクのコートの裁縫してたんだぜ」と大笑い。ちなみに、植垣さんが出所すると、植垣さんの称呼番号(刑務所での認識番号)が、私の後輩で、東京証券取引所籠城事件で、甲府刑務所に下獄した板垣哲雄君が引き継いだ。これも不思議な縁だ。ーこの項続くー※写真は2014年10月19日、中華街で行われた『野村秋介追悼・群青忌」の直会で、挨拶をする在りし日の植垣さん。


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植垣康博さんのこと。

2025-01-25 17:08:25 | 日記

1月24日(金)晴れ。

午前中に、後輩で現代の大陸浪人を自任する杉山君から電話が入り、「ラインもしましたが、植垣さんが今朝亡くなりました」。脳出血で倒れ、目が不自由となって静岡市の介護施設に入っていると、やはり杉山君から聞いていた。今年に入ってまだ24日しかたっていないのに、一日には岐阜の花房東洋先輩、そして植垣康博さんの訃報に接するとは。お二人と私とはほぼ同世代。

忘れ難い一枚の写真がある。詳しい年月日は忘れたが、今から20年ほど前のこと。静岡で植垣さんが開店した「スナック・バロン」の開店10周年記念パーティーに出席した折の物で、私と植垣さん、その隣が、出版界の風雲児と言われた「モッツ出版」の高須基仁氏、そして前列には、鈴木邦男さんと、もと赤軍派議長で「日本のレーニン」と言われた塩見孝也氏。

右翼民族派の私や鈴木邦男さんが、左翼の植垣さんや塩見、高須氏らと仲良く並んで写っていることに、違和感を覚える人もいるかもしれない。色々なこともあったが、それはすべて「時」が解決したとしか言いようがない。植垣さんとお会いした、と言うのは表現が適当ではないが、知り合いになったのは昭和62(1987)年の春、私がその年の1月に、「都会ではサラリーマンが一生かかっても都心では一坪の土地を買うことの出来ない、狂乱物価を招いた元凶」として某大手不動産会社の会長宅を同志と共に襲撃占拠した。東京拘置所にて公判を待つ間、一水会の機関紙『レコンキスタ』上に原稿を寄せていた植垣さんも、同じ東拘にいると言うことで、鈴木邦男さんから「手紙を出して見たら」と紹介されて、文通が始まり、拘置所内の生活などを色々アドバイスをして頂いた。本も何冊か差し入れして頂いたこともある。覚えているのは澤田ふじ子『闇の絵師』、同じく郡上青山藩の脱藩浪士隊のことを描いた『葉菊の露』など。その『葉菊の露』は、今でも私の「心に残る一冊」として大事にしている。

当時の東京拘置所には、いわゆる「ロス疑惑」の三浦和義氏や連続射殺事件で死刑囚の永山則夫氏、「連続企業爆破事件」の人達など有名人が多く座って居た。植垣氏は一九七二(昭和四十七)年に逮捕されて以来、約二十七年という途方もない歳月を獄中に過ごした。野村先生が「経団連事件」で、東京拘置所にいた昭和52(1977)年の時も、植垣さんは東京拘置所にいて、植垣さんと房が近く、何度も野村先生と「通声」(窓越しで会話をすること。当然違反行為である)していたという。ーこの項続くー


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泰平の眠りを覚ますトランプか。

2025-01-22 14:32:10 | 日記

1月21日(火)晴れ。

いつも大体八時過ぎに起きる。天気の良い日は、雨戸を全て開けて陽を一杯に入れる。有り難いことに我が陋屋は陽当たりだけは良い。元来の貧乏性ゆえか、部屋の中に陽が一杯に入ってくるだけで、何か得をしたような気持ちになる。

ニュースと映画以外のテレビはほとんど興味がない。随分前に盟友から誕生日のプレゼントに頂いたBOSEのコンパクトディスクで、ラジオか上の子供が買ってくれたディアゴの「ブルーノート」のCDを聞きながら、のんびりとコーヒーを飲みながら新聞を読む。午後からは、仕事の段取り。連載させて頂いている原稿の下準備や、機関誌「燃えよ祖国」や他の依頼されている原稿の下準備。疲れたら、読みかけの本を読んだり、事務所に資料を取りに行ったり・・・。

満員電車に揺られて毎日、仕事に汗を流している人たちが聞いたら、殴られそうだ。しかし、その分、定期的な収入や、ボーナスどころか、将来の保証もないし、老いて朽ちるだけだ。無防備に人生のリスクに直面しているわけだ。それでも好きなことをしているのだから文句の言えた義理ではない。

アメリカではトランプさんが大統領に就任。亡くなられた安部元総理ではないけれど、二度目の方が上手にやれそうな気がする。自国の安全を他国の軍備にゆだねている太平楽な日本と日本の政治家。幕末の黒船騒動ではないが、泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった四杯で夜も眠れず。泰平の眠りを覚ますトランプとなるかどうか。私とて予測不能である。

 


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三丁目の夕日の時代。

2025-01-21 14:41:22 | 日記

1月20日(月)曇り。大寒。

一年で一番寒いとされている今日は、大寒。私の事務所は「ダイカンプラザ」。関係ないか。なのに春めいて暖かい。寒いのは苦手だなぁー。体調もイマイチだし早く暖かくなってほしいものだ。

高校の同級生から頂いた『三丁目の夕日』のコミック本を沢山頂いた。映画も確か三作だったか皆見た。舞台になっているのは昭和30年代の東京の街。建設中の東京タワーが鈴木オートから見えるので、新橋周辺が架空の街「夕日町三丁目」かもしれない。鈴木オートの一人息子の一平君は、私と同じ世代の人である。小学生の低学年の時に、出来たばかりの東京タワーに母と行ったことがある。翌日、学校に行って東京タワーのミニチュアをみんなに見せたら、とても羨ましがられた。

当時、私の住んでいた横浜の下町には、まだ小さくても庭のある家が多くあって、大体「やつで」や「ザクロ」が植えてあった。その天狗のうちわのようなヤツデには、実が生り、細い竹を切ってきてヤツデの実を入れて「ヤツデ鉄砲」を作って遊んだが、今では、作り方を忘れて作れない。笹の細い所を編んでカメを作ったり、レンゲで花で髪飾りも作ったが、全く作り方を覚えていない。

納豆売り、豆腐屋のラッパの音、アサリとシジミ売り。皆同じ時間に、時を告げるようにやって来た。「先々の時計となりや小商人(こあきうど)」という川柳がある。本当かどうかは知らないが、江戸時代に出来たものらしい。そういう「小商人」が町から消えて久しい。時計などもあまりない子供の頃、近所の工場から終業を知らせるサイレンが鳴ると5時で、「カラスが泣くから帰ろう」と皆で言って、帰ったものだ。

三橋美智也の「古城」という歌が流行ったのは昭和34(1959)年で私は8歳。一番の歌詞は「松風騒ぐ 丘の上古城よ独(ひと)り 何偲(しの)ぶ 栄華の夢を 胸に追い あゝ 仰げば佗(わ)びし 天守閣」。ラジオから良く流れていた。その歌詞の中の「栄華の夢を 胸に追い」と言う所を、ずーっと「映画の夢」と思っていた。子供の頃のことを思うと、「三丁目の夕日」の時代と、三橋美智也の歌がセットになる。

夜は、昨日に続いて、伊勢志摩の社友から送って頂いた「牡蛎」三昧。今日は、アヒージョと牡蛎と玉ねぎのオイスターソース炒めを作った。これで牡蛎を完食。満足な一日だった。


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柿、いや牡蛎食えば・・・。

2025-01-20 14:59:48 | 日記

1月19日(日)曇り。

機関誌『燃えよ祖国』の編集が終わり、印刷所に入稿。後5日もすると出来上がる。一段落したので、ご褒美にと焼肉ランチ。前回は、最低最悪の焼肉ランチの店に入ってしまったので、今回はリベンジ。恐らく、関内周辺では一番の老舗のお店に行く。昔は福富町にあったが、ビルの老朽化で移転した。やはり美味しかった。リーズナブルで、肉を二人前追加しても二人で6千円でおつりが来た。

午後二、伊勢志摩の社友からドドーンとセル牡蛎(殻付き)が届いた。「少し小ぶりなので60個ほど送ります」とメッセージを頂いたが、私は牡蛎は小ぶりな方が好きで、大ぶりな夏牡蛎などは、好きではない。夜、家族で、生牡蛎、蒸し牡蛎、オーブンで焼き牡蛎の牡蛎三昧。酒は、やはり高知の社友から頂いた下手なワインよりも美味しい「桂月ーSake Nature」。高知出身の歌人で随筆家の大町桂月の名前をとったものだ。牡蛎にたっぷりのレモンを絞って、皆無口になって夢中で食べた。それでもまだ、半分残っている、明日はアヒージョにするつもり。

現在NHKで再放送中なのが「坂の上の雲」。日本人が元気になるドラマである。主人公の秋山兄弟と共に主人公となっていたのが正岡子規。牡蛎ではないが「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を知らない人はいないだろう。子規は結核を患い35歳でなくなるのだが、大食漢としても知られており、闘病中でも食欲は旺盛で、病臥中の記録『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」の中のある日の食事を記したものに、「朝は、かゆ4椀、ハゼの佃煮、梅干し。昼は、お粥4椀、鰹の刺身1人前、カボチャ1皿、佃煮。夜は、奈良茶飯4椀、なまり節、茄子一皿。2時過ぎ、牛乳1合ココアまぜて、煎餅菓子パンなど10個ばかり、昼食後梨2つ、夕食後梨1つ」。亡くなる2年前の記録と言うが、とても病人の食事、食欲とは思えない。

もう40年以上も前のこと、亡くなられた盟友の折本満氏のお世話で、奈良に川井春三先生を訪ねたことがあった。その折に法隆寺に詣で子規の句碑の前で写真を撮った。川井先生はもとより、同行した渡邊康司氏も皆、幽明境を異にしてしまった。時が過ぎるのではなく、人が去って行く。※頂いた牡蛎、生と蒸し牡蛎。

 

 


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