白雲去来

蜷川正大の日々是口実

トランプさん、よくぞ言ってくれた。

2025-03-12 15:31:42 | 日記

3月11日(火)曇りのち雨。東北大震災から14年。

朝食、と言っても時計を見ると11時を過ぎていた。最近は余り食欲がなく、起きてすぐに食事をする気がない。古い友人の都築新吾さんから頂いた人参を天ぷらにして、五島うどんで「鍋焼きうどん」を作って食べた。午後に、何としなく小腹が空いたので「揚げカレーパン」を一個。夜は、ポークソテー、スライス・マッシュルーム乗せ、麻婆豆腐、カニの缶詰を使ってコールスローサラダ、鶏の手羽先の煮物。ネットで取った「ふぐひれ」を入れた「ひれ酒」を二杯飲んでから犬塚博英先輩差し入れの「伊佐美」のお湯割りへ移行。酔狂亭にて独酌。

テレビでは、14年前の東北大震災の特集を行なっている。地震発生時刻に合わせて黙祷。横浜などにいると15メートルの津波などとても想像できない。あの震災以来、なるべく食料品やトイレットペーパー、飲料水などは少し多めに買うようにしている。風呂の水も、次に沸かすまでは捨てずにいる。治にいて乱を忘れず。我が家は築30年近いボロ屋だが、家がつぶれなければ、1,2週間はしのぐことが出来る。まあ命があってのことだが。

トランプ大統領が、「アメリカは日本を守る義務があるが、日本はアメリカを守る義務がない」と憤慨しているそうだが、全くその通りではないか。いくら「思いやり予算」とやらで、在日米軍の負担を軽くしているといっても、アメリカ人は納得するまい。我が国は、戦後からこの方、国の防衛をかつての敵国に委ね、経済優先で過ごしてきた。野村先生は、その有様を「奴隷の平和と魂の無い繁栄」と言い、経済発展など「砂上の楼閣」であると看破した。日米安保をトランプ大統領の云うような「片務条約」ではなく、互恵平等なものにするために、政治家は輿論喚起をすべきである。そのためには、憲法を改正して、自主国防体制の確立を急ぐ。いつまで極楽島のアホウドリでいるつもりなのか。ウクライナの今日の姿は、明日の日本の姿かもしれないのだ。※写真は、9日の国酔青年隊主催の運動から。松本佳展君のFBから転載しました。


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惜別の歌。

2025-03-11 18:55:37 | 日記

3月10日(月)晴れ。陸軍記念日。

今日は、戦前では陸軍記念日で休日であった。明治三十八年の三月十日、日露戦争の奉天会戦にて日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領。そして奉天城に入城した武勲輝ける日なのである。

閑話休題、私が道の兄と慕った、元楯の会の阿部勉さんは、結婚式などでスピーチを頼まれると、「歌を歌います」と言って必ず「惜別の歌」を歌った。その場違いな歌は、シャレの分かる人たちに大いにウケたものだった。

 今でも送別会などで歌われているその「惜別の歌」は島崎藤村の「若菜集」の中にある「高殿」という詩に曲をつけたものである。元の詩は「悲しむなかれ我が姉よ」が、「我が友」に代わっている。その詩に曲をつけたいきさつが、以前、産経新聞の湯浅博氏のコラム「くにのあとさき」で読んで、とても感動した。「歌には、終戦間際の若者たちの過酷な歴史が刻まれていた」と。戦時中、勤労動員された中央大学の学生、藤江英輔が、藤村の詩に曲をつけた。当時、藤江は学生仲間に召集令状の赤紙を配る役割を担わされていた。赤紙が配られると、誰もがその刹那に青ざめたものだという。それでも藤江は「おめでとう」と言わざるをえない。その心の葛藤が、友を戦場に送り出す「惜別の歌」を生んだ。

戦場に行く友へ、「旅の衣を整えよ」の「旅の衣」とは、軍歌「出征兵士を送る歌」の中にある、「華(はな)と咲く身の感激を、戎衣(じゅうい)の胸に引き緊(し)めて」の「戎衣」(注・戦争に出る時の衣服・軍服のこと)であったに違いない。酒が入り興にのればその「惜別の歌」を良く歌った。しかし、そのいわれを知った時から、胸が詰まって、余り歌わなくなった。私の好きなブログに「二木紘三のうた物語」というものがある。様々な歌のエピソードが書かれており、とても勉強になる。そこに「惜別の歌」に曲をつけた藤江英輔氏の原稿が掲載されている。是非、読んで頂きたいと思っている。


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東日本大震災風化防止運動

2025-03-11 18:26:40 | 日記

3月9日(日)晴れ。

昨日夜の雪もすっかり解けて、暖かい一日となった。日中、車で出かけた時に少しクーラーを入れた。國粋青年隊主催の東日本大震災風化防止運動に志村馨、松本佳展の両君と共に参加させて頂いた。江東区の青海東臨時の集合が朝8時と言うこともあり、6時30分に志村、松本両君に迎えに来て貰い家を出た。

早い、と言っては失礼だが、あの東日本大震災から11日で14年。大分復興は進んだが原発問題は解決しない。所謂「汚染土」を東京でも処分しようとしたら、住民の反対でそのままになっているそうだ。東京の電気は福島の原発で作られていたというのに、思いやりのない人達がいるものだ。

國粋青年隊主催の東日本大震災風化防止運動には、百台近い街頭宣車と200名もの人たちが参加した。にもかかわらずそういった事実をマスコミは一切報道しない。それでもいい、分かってもらおうと思って、やっているのではない。心の問題なのだ。今日の街頭行動によって、きっと気が付く人がいるに違いない。毎年、この運動を主宰している國粋青年隊の吉岡会長麾下の隊員の皆さんたちに、心からなる敬意を表したい。※左から、國粋青年隊、人見仁氏、大悲会・志村馨会長、正気塾・若島和美塾長、國粋青年隊・吉岡亜樹会長、蜷川、憂国道志会・松本佳展会長。

 

 


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ノスタルジジイ。

2025-03-08 14:55:15 | 日記

3月7日(金)晴れ。

同居している上の子供が、土曜日に勤めている会社のIT関係の試験があるとのことで、会社を休んで勉強をしている。昭和のおっさんには、そのIT関係の試験と言うものがどんな物かは、想像もつかないが、アナログ人間の私に説明されても理解できないのに違いあるまい。うっかりと寝過ごしてしまい、慌てて事務所へ。機関誌『燃えよ祖国』の発送である。朝から食事をとっていなかったので、3時過ぎに「COCO壱番屋」にて、カレーにクリームコロッケをトッピング。その後に、酔狂亭開店の準備のために肴を求めて買い物。

友人から頂いた漫画『三丁目の夕日』を読んでいる。描かれている時代は昭和30年代のことで、私が小学校へ上がる前か、低学年の頃である。街の風景は違うが、読んでいると、その時代のことがリアルに蘇る。今はなくなってしまった「紙芝居屋さん」。私が子供の頃に育ったアパートのすぐ近くに普門院というお寺があり、そのお寺に上がる石段の下に「ドンドン」と呼んでいた紙芝居屋が週に2度ほど来ていた。町内を大太鼓をドンドンと鳴らしながら開演を知らせるので、私たちはそう呼んでいた。何か、駄菓子を買わないと見せてもらえないのだが、お小遣いの無い時は、怪談の上にあるお墓に隠れながら見ることもあった。

『三丁目の夕日』によると昭和23年、全国で5万人を数えたという街頭紙芝居は、昭和30年代には急激に姿を消し、37年には、全国でわずか700人となってしまった。最近、昔のことを夢に見たり、懐かしく思い出すことが多い。それをノスタルジジイと言うらしい。※『燃えよ祖国』の最新号。


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梅と雪か。

2025-03-06 14:05:15 | 日記

3月4日(火)雨のち雪。

天気予報では、夜から関東地方は雪になるという。一部の電車や高速道路は、早々と運休や通行止めを発表。事務所は、山手の高台にあるために、車で行ったら帰れなくなるので、に自宅で仕事。一軒屋は暖房の効きが悪く寒くて仕方がない。最も事務所も広い割には、家庭用の暖房器具二台では、暖かくなるまで1時間ぐらい必要である。早く暖かくならないかなぁ―。自宅のすぐ近くの児童遊園地、遊園地と言っても遊具がある訳ではなく、公園、植物園のたぐいである。箱根駅伝の花の二区の権太坂にある。春は、桜よりも梅の名所として知られている。天気が良いと、大勢の人が梅にカメラ(スマホ)を向けている。

愛用している『漢詩一日一首』(一海知義著・平凡社)の「春」の中に、宋の陸游の「落梅」という漢詩がある。そういえば中国の漢詩には桜を詠んだものがない。

酔うて落梅の一両枝を折る 桃李の自ら時に逢うを妨げず 向来(きょいうらい)氷雪の凝ること厳しき地に 力(つと)めて春の回(かえ)るをすすむるはついに是れ誰ぞ。

訳は、酒の酔いにまかせて散り残る梅のひと枝ふた枝を手折ってみた。桃やすももがほどよい季節を自ら選んで花咲かせるのをとやかくはいうまい。しかし、「向来(きょうらい)」、かねてからそうなのだが、氷や雪のきびしくはりつめたこの大地に、花咲く春をよみがえらせようとけなげに努力しているのは誰なのか。桃ではない。すももでもない。梅ではないか。(同書より)

梅のはな 枝にしらじら咲きそむる つめたき春となりにけるかな。とは牧水の歌。野村先生は、白梅を愛すごとくに 正義をも。と詠んだ。ちなみに私が役員の末席を汚している民族革新会議の「会歌」は「梅と兵隊」である。

夜は、お世話になっている方との一献会。雪で中止しようとも思ったが、ままよと強行した。食事の後に、紅灯の巷に出て、杯盤狼藉。日にちが変わる前に送って頂き帰宅。

 

 


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