白雲去来

蜷川正大の日々是口実

折角書いたのに、消えてしまった。

2009-11-29 10:54:31 | インポート

十一月二十八日(土)晴れ。

 折角、書いて、「保存」してアップしようと思ったら、いきなり、「このページは期限切れ」という表示が出て、文章が全て消えてしまった。もう一度、パスワードを入れて開いたが、このOCN度々、こういうことがある。パソコンに慣れている人ばかりじゃないんだから、いい加減にしろ、と思う。本当に頭にくる。タダでやってるんじゃないんだから、もっと親切にしろよ。目の前に責任者がいたら確実に殴っている。バカヤローめ。

 

 午前中は、上の子供は、部活。下の子供は、家人と共に鶴見の総持寺で行なわれる、子供の百人一首の大会に出掛けて行った。一人で自宅で、連載させて頂いている「実話時報」の原稿書き。四百字の原稿用紙にして約十六枚余。軽自動車並みの脳みその持ち主としては、かなり体力の要する仕事であるが、頑張らなくては。

 

 もっと、色々書いたのだが、同じことをまた書く気もせず、やる気が失せてしまった。あーあ。


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「戦場のレクイエム」が良かった。

2009-11-28 00:52:55 | インポート

十一月二十七日(金)曇り。

 昨日、「消されたヘッドライン」というDVDを観て、寝たのが三時近かった。六時半にやっとの思いで起きて、子供の学校の弁当を作った。メニューは、厚焼き玉子、ウインナー、牛蒡のサラダの三品。最近、厚焼き玉子を作るのが上手になった。私は、サバの味醂干しに、熱海で買った「のりクラゲ」とキノコのみそ汁で朝食を済まし、お天道様と堅気の衆に、「スマン、スマン」を三回繰り返してから、また布団に入った。

 

 起こされたのは、防共新聞の福田邦宏さんからの電話。福田さんは、戦時中のポスターや歌、あるいは、福田素顕先生が戦前戦後に出した機関誌のデーターベース化を図っていて、私も色々とアドバイスを受ける。先日も、熱海の会合で、私の持っている戦時映画コレクションの中から、「アフリカの星」と「U47出撃せよ」をプレゼントしたら、お返しに、ナチスの戦時ポスターのデーターを頂いた。ふふふ、これが中々良いものなんですネェー。

 

 昼食は、家人と二人で、崎陽軒のシュウマイとソース炒飯を食べた。私は、時々、炒飯の味付けをウースターソースでやる。私の母が得意だった、いわばお袋の味。

 

 午後から事務所へ。来客三名。出版や原稿の打合せを済ませてから帰宅。夕食後に、読者から頂いた「戦場のレクイエム」という映画を観た。これが中々良かった。国共内戦を題材にした映画なのだが、コチコチのプロパガンダや、国民党軍を悪者として描くことのない、ヒューマン・ドラマでした。中国がこんな内容の映画を作れるようになったことに、チョット感心しました。レンタルでもありますので、お暇でしたら是非。

Posternsdap012 ※日独伊の三国同盟のポスターですかね。チョー、カッコイイですね。

Posternsdap011 ※提供は、福田邦宏さんです。

Photo 「戦場のレクイエム」のポスターです。


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熱海から帰宅。

2009-11-28 00:28:35 | インポート

十一月二十六日(木)晴れ。

 七時半に、仲居さんに「ご飯ですよー」と起こされる。頭はクラクラである。山口申、四宮正貴の両先生と、まず風呂に行ってスッキリしようと言われ、風呂へ。いやはや朝風呂なんて贅沢な話である。風呂で頭をスッキリさせてから朝食。

  諸先輩にご挨拶をしてから部屋に戻る。しかし、まだ八時半である。十一時まで部屋に居ても良いとの事なので、のんびりしている。そう言えば、我々の部屋は専用の露天風呂がある。皆でもう一度入って、ぐたっーとしてから、ロビーでコオヒイをご馳走になる。十一時十五分に「古屋旅館」を後にした。

Dscf1212 ※熱海の老舗旅館「古屋」の前で。

 

 殆どの方は、帰ったが、私達のほかに、舟川孝、三澤浩一の両氏が残っていて、十一時過ぎに、「ワンタン屋」に向うが、店の前には、もう人が並んでいる。そんな思いをしてまで、ワンタンなんぞ食べても仕方ないので、「石川屋」に向うが、生憎定休日。トホホで、近くのラーメン屋で、昼食。駅まで、一キロほどの道を皆で散歩しながら歩いた。良い天気で、歩いていると、汗をかくほどだ。

 

 熱海に来ると、いつもは馴染みの店で干物を買うのだが、最近は、デパ地下でも、同じような味の物を買えるので、今回は、山口先生の推薦で、熱海銀座の「磯屋」という店の「のりくらげ」と「うめクラゲ」を買った。私と、舟川、三澤の両氏は東海道線。山口、四宮の両先生は、新幹線。保土ヶ谷に戻ったのは、二時を過ぎていた。

 

 事務所に寄り、郵便物などを確認してから自宅に戻った。さすがに今日は、休肝日として早目に寝た。


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「日本を糺す会」に出席。

2009-11-27 11:31:10 | インポート

十一月二十五日(水)晴れ。

  今日も良い天気である。三島、森田両烈士のご命日。「憂国忌」である。我が家の祭壇に手を合わせる。

 今日は、恒例の「日本を糺す会」が熱海で行われるので出席。三時半の横須賀線で戸塚に出て、そこから東海道線に乗り換えて熱海行き。お世話になっている方や、久し振りにお会いする同志の方々との懇談ほど楽しいものはない。同席した、四宮正貴先生のブログに、今日の事が書かれているので、引用してみたい。

 

 午後六時より、熱海にて、『日本を糺す会』開催。杉山清一代表世話人が司会。荒井清壽弁護士が主催者挨拶、「アメリカによる謀略・日本弱体化」について、相当突っ込んだ話があった。この後、多くの同志が、現下日本の情勢について深夜まで討論。同志多数と討議懇談。小生は昨年に引き続き、元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風を震わせて響くは山鹿流儀の陣太鼓の合図によって敢行された赤穂義士の吉良邸討ち入りの歴史を回顧しつつ、日本武士道精神・忠孝精神について語らせていただいた。全体会議の後、明け方近くまで各分野別の討議が行われた。 

 主催者の荒井先生に心から御礼を申し上げます次第です。

 

  その、会合に向う車中で読んだ「週刊朝日」の中の内館牧子さんのコラム「暖簾にひじ鉄」にとても、良いことが書かれていた。それは「フォーマルな意識」と題したもので、早い話が、「儀式的な行事におけるフォーマルな意識を身につけさせる」ことの必要性を説いたものだ。

 

 良く、結婚式や会合で「平服でどうぞ」といわれることがある。これを何を勘違いしたか、「私服」と思ってセーターや色物のズボン、あるいはひどい者になると、ジャージのような、カジュアルな格好でも良いと思っている人がいる。以前も、中華街で結婚式後の食事会に招かれた折に、案内状には「平服でお越し下さい」とあったので、いわゆる黒、白の礼服ではなく、ダークスーツで行った。ほとんどの人が、私と同じようなダークスーツ姿であったが、驚いたのは、友人が、ジーパンの上下を着て来たことだ。友人なだけに、周りの人の彼に対する侮蔑の視線が私も辛かった。

 たしかに「平服」とは、「普段着」の事であって、「礼服」や「式服」のことではない。しかし、主催者が「平服で」という場合は、「謙遜」、あるいは「遠慮」して言っているのである。それを間に受けて、本当に普段着で出席したならば、お里が知れる、というものだ。

 

 内館さんも、以前、相撲の表彰式に、政治家が「クールビズ」とかいって、ノーネクタイで土俵に上がったことを指摘し、「親方や役員が黒紋付の正装で居るのに、政治家がカジュアルな格好ではけしからん。土俵の上は聖域ではないか」と怒っている。勉強会などもそうで、教える側が背広姿なのに対して、教わる側が、カジュアルな格好ではおかしい。とも言っている。まして神式、仏式を問わずに行なわれる慰霊祭や追悼祭は、日本人の大事な行事の一つである。その場に相応しい格好があるのは言うまでもない。ひよっとすると、伝統文化といものは、こんな所から崩壊して行くのかもしれない。私も、気をつけなければ・・・。

 現在発売の、「週刊朝日」の42頁に掲載されています。是非、ご一読下さい。


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野分祭に出席。

2009-11-27 11:00:04 | インポート

十一月二十四日(火)晴れ。野分祭。

 午前中は、自宅で仕事。夜は、一水会主催の「野分祭」に出席。三十九年前の十一月二十五日、市ケ谷の自衛隊東部方面総監室において、憲法の改正や自衛隊の国軍化を訴えて自決なされたのが、三島由紀夫、森田必勝両烈士。森田烈士が義挙に臨む前日に思いを馳せ、烈士の辞世、

 

今日にかけて かねて誓いし 我が胸の 思いを知るは 野分のみかは

から「野分祭」と名づけられた、今日の追悼祭。

 もう二十五年も前の事だが、この野分祭を「正座」で行なったことがあった。一時間以上も正座していたので、足が痺れて立ち上がることが出来ない。もし、玉串奉奠に指名されたらどうしようかと、ドキドキした。案の定、倒れる同志などがでて、大混乱になった時、司会をしていた犬塚哲爾さんが、「腹を切る痛みに比べたら、足の痛みなんか」と。余計に頭を低くして、指名がないことを祈った。いやはや、マイッタ。

 

 そんなことを思い出しつつ、隠岐康氏と高田馬場にて待ち合わせて、会場に向った。久し振りにお会いする人達も沢山いた。早いもので、あの義挙から三十九年が経った。私は、その義挙がキッカケでこの運動に入った。楯の会義挙の三十九年は、私の運動の三十九年である。終了後は、直会に参加。

 

 解散後は、友人氏らと共に錦糸町へ。お気に入りのお店を二軒転戦して帰宅。久し振りの大破・轟沈の夜でした。

Photo_2 ※野分祭の祭壇


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