白雲去来

蜷川正大の日々是口実

少年老い易く。いやもう手遅れです。

2023-11-29 16:33:38 | 日記

11月27日(月)晴れ。

朝食は抜いた。昼は、冷食のグラタン、玉ねぎの味噌汁。夜は、山芋とトウモロコシのお好み焼き、豚肉とキャベツのみそ炒め、ナスのかば焼き。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

一年が早い。歳を取るにつれけてそう感じる。俗に、20代の頃は、一月が、一年が時速20キロで過ぎて、30代は30キロ、40代は40キロで過ぎて行くという感覚だそうだ。とすると古希を過ぎた私の一年は、時速70キロで、一月、一年が過ぎて行くことになる。普段、高速以外では70キロで道路を走ることなど、まずない。どおりで一年が早いはずだ。あと少しで年の瀬か。

少年老い易く学成り難し。という有名な諺がある。説明の必要はないだろうが、「若いうちはまだ先があると思って勉強に必死になれないが、すぐに年月が過ぎて年をとり、何も学べないで終わってしまう、だから若いうちから勉学に励まなければならない」。同じ出典による「一寸の光陰軽んずべからず」もほぼ同じ意味である。朱熹の「偶成」からといわれている。また類似した諺には「光陰矢の如し」、「少年に学ばざれば老後に知らず」などがある。全くその通りで、若い頃にもう少し、いやもっと勉強をしていたならば、違った人生を歩んでいたかもしれない。

しかし、今からでも遅くはない。という慰めの言葉もある。「壮にして学べば老いて衰えず。 老いて学べば死して朽ちず」。とは、佐藤一斉先生の『言志四録』の中の有名な一節。酒で腐った頭には、ただ、ただ「反省」の二文字にうなだれるだけである。


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誕生日のこと。

2023-11-29 15:44:14 | 日記

11月26日(日)雨のち曇り。

朝食は抜いた。昼は、久しぶりに家族四人で横浜駅の西口にあるヨドバシカメラへ。上の子供の誕生日のお祝いにコーヒーミルと一体になったコーヒーサバ―を買いに行く。昼食も、ビルの地下にあるネパール・エスニック料理のお店ロイヤルへ。ナンとキーマカレーのセット。味はマアマアだが、やはり「モハン」の方が美味しいとは、家族の共通意見。

一度、自宅に戻ってから、夜はロイヤル・パークホテルの68階にある中華料理の皇苑へ。五時過ぎだったが、幸いに雨も上がり、68階からの眺めがとても良かった。ホテルのOBの山崎さんから誕生日のお祝いのケーキが届いていて感激。またH崎さんにもお世話になりました。支払いは、私と愚妻、下の子供との3人での割り勘。助かりました。

私が子供の頃、昭和の30年代の前半だが、誕生日のお祝いなどして貰った記憶がない。日本と日本人がまだ貧しい時代ということもあって、家族で誕生日のお祝いをするという我が家だけではなく、ほとんどの家庭に、そんな余裕がなかったのかもしれない。小学生の4年生の頃に、担任が「自宅にお風呂のある人」とクラスの皆に聞いたら、10人もいなかったと記憶している。それぞれの町に必ずあった銭湯で友達と会うのが楽しみでもあった。道路も車の通る大通り以外の路地はまだ舗装がされておらずに、子供たちの遊び場だった。ベーゴマにメンコ、かくれんぼにドロ巡、缶蹴り・・・。今では、そんなことをして遊ぶ子を見たことがない。貧しかったけれども、幸せな時代だった。

 


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憂国忌か・・・。

2023-11-27 17:36:08 | 日記

11月25日(土)曇り。憂国忌

午後一時、大悲会の志村馨、弊社の松本佳展の両君に迎えに来て貰い、埼玉県北足立郡伊奈町という所に「恋さん」という名前の居酒屋を開店した、野村一門の山崎一弘君のお店のお祝いに、一門が集まった。我が家から車で一時間半。ぽつんと一軒屋ならぬ、ぽつんと居酒屋である。お店の中には、野村先生の書などあり、また「恋さん」は、野村先生の奥様がやっていたお店と同じ名前。懐かしかった。四時前から、八時近くまで飲んで解散。松本君の車に乗った瞬間から爆睡。気が付けば自宅の前だった。

野村先生の獄中句集「銀河蒼茫」に、憂国忌風が鞭振る天に地に がある。いわゆる三島、森田両烈士の自決事件、「楯の会義挙」が起きたのは私が十九歳の時だった。この事件に触発されて、政治に興味を持ち、とりあえず三島由紀夫の本を手にした。しかし、それまで基礎的な教養と言うものとは全く無縁だった十九歳の私に読めたものと言えば「潮騒」と「蘭陵王」ぐらいのものだった。私の勉強は、三島文学を読むことから始まったと言っても過言ではない。読書と言うものはマラソンのトレーニングと一緒で、素人がいきなり42・95キロを完走することなどできない。まずはジョギングから始めて、徐々に距離をのばして行く。自決事件の直後の報道で、二・二六事件との関連性について書かれたものがあり、その中で青年将校に思想的な影響を与えた本として、北一輝の「国体論及び純正社会主義」や「国家改造法案」が紹介されていた。

早速、みすず書房から出版されていたその本を購入して、ワクワクしながら頁を開いた時のショックを忘れることが出来ない。その本の一頁どこか一行も読めないのだ。単なるマラソンファンの素人が、気負ってフルマラソンのスタート地点に立ったようなものだ。挫折しそうになったが、その時に、偶然に手にしたのが、小泉信三の「読書論」(岩波文庫)だった。恐らく、その本を読まなかったならば、「読書好き」にはならなかったと思っている。

そして、囹圄の時代、「一人一殺」ならぬ「一日一冊」の読書を心がけて、まず本を読む体力を養うことにした。休日が続く日などは、読みやすい本は、すぐに読了してしまうので、娑婆にいたならば決して手にすることのないような宗教書や左翼関係の本を、少しずつ読むようにした。ともかく「活字に飢える」という経験をしたことが自分の為になった。

 

 


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野分祭。

2023-11-25 10:49:43 | 日記

11月24日(金)晴れ。野分祭。

朝食は抜いた。昼は、平塚の湘南餃子、赤ウインナー、目玉焼きに大根の味噌汁。夜は、豚肉と鶏肉と野菜たっぷりの鍋、山芋とコーンのお好み焼き、鶏肉の塩焼き。お供は「黒霧島」。

今日は野分祭。昭和45(1970)年11月25日、東京の市谷台にある自衛隊の東部方面総監室にて憲法の改正などを訴えて自決した三島由紀夫、森田必勝両烈士の死から53年となる。野分祭は、自決なされた森田必勝烈士の自決前夜の思いを共有しようという趣旨で、烈士の辞世、「今日にかけて かねて誓ひし我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」から命名された。

当初は一水会が中心となって元楯の会の会員、民族派の学生運動の出身者らによって斎行されていたが、近年の野分祭は一水会から離れて、楯の会の一期生の伊藤好雄さんが祭主となって開催している。

随分前の野分祭で、司会を務めた犬塚博英先輩が、今日は全員「正座」で行うと言い、亡くなられた大野康孝宮司が心のこもった超、長文の祝詞を読んだ。日頃、日本の伝統文化を守れ。などと言いつつ普段正座などしたことのない私は、足が痺れて感覚がなくなっていった。間の悪いことに畳の部屋は満席で、私は廊下の板の間にいた。

祝詞が終わって、玉串の奉奠となった時、立ち上がれない人が続出。無理して立ち上がった人の中には転げる人もいた。私は、もし指名されたらどうしようかと、冷や冷やしていた。そんな雰囲気の中で、犬塚先輩が、「腹を切った森田の痛みに比べたら、足の痺れぐらいなんだ」と喝を入れた。それを聞いた私は、亀のように首をすくめたのです。野分祭を迎えると、いつもこの時のことを思い出す。私は、三島・森田の両烈士の自決事件に影響を受けて、民族派運動に入った。正に人生のターニングポイントであった。両烈士の自決後の53年は、恥ずかしながら、そのまま私の運動史でもある。


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任侠映画が青春だった。

2023-11-24 14:22:46 | 日記

11月23日(木)晴れ。新嘗祭。

起床後に玄関に日の丸を掲げ、皇居を遥拝。三澤浩一さんから「新嘗祭おめでたうございます」とのメールが入っていた。新嘗祭は、天皇陛下が新穀を神々に供え、自身も食する。古くは11月下旬の卯うの日、明治6年以降は11月23日に行われ、祭日とされた。天皇の即位後初めて行うものが大嘗祭(だいじようさい)。

朝食は抜いた。昼食は、愚妻と一緒に、井土ヶ谷駅近くの蕎麦屋で「天丼セット」。食後に事務所へ。久しぶりに事務所に行き、郵便受けを開けたら、郵便物がどさっと届いていた。山平重樹さんの新刊本をご恵送頂いた。『東映任侠映画とその時代』(清談社刊・2200+税)という本。443頁と言う厚さは圧巻である。本の帯には「日本が最も熱かった時代に捧げる鎮魂歌ーその勃興から終焉までを、剛腕プロデューサー俊藤浩滋の足跡を軸に読み解く、傑作ノンフィクション」。

第一部は、「東映任侠映画の時代ろ、第二部は、「三島由紀夫と任侠」、第三部は、「『任侠』から『実録』へ」、第四部は、「俊藤浩滋と東映の黄金時代」。という構成である。

東映の任侠映画が一世を風靡し、社会現象となったのは1960年代後半。戦後の日本が右肩上がりの高度経済成長を走るなか、「怒れる若者たち」が立ち上がり、「若者叛乱の時代」といわれたあの政治的季節を抜きにして、東映任侠映画の隆盛もあり得なかっただろう。そこに描かれているのは、徹底して男の美学であり、任侠浪漫であった。「あのパターンはみんな俊藤浩滋プロデューサーが確立されたものですよ」(本文より)。そういえば、随分前に俊藤さんの奥さんのことを書いた『おそめー伝説の銀座マダム」という本を読んだことがある。ちなみに女優の富司純子さんは俊藤さんの娘さんである。是非、ご一読をお願い致します。

 


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