白雲去来

蜷川正大の日々是口実

大日本生産党再建六十周年。

2014-06-30 15:15:49 | インポート

六月二十八日(土)雨。

朝食は、サバの文化干し、冷奴、おしんこ、しじみの味噌汁。土曜日に雨か・・・。今日は、四時から神宮外苑の日本青年館にて大日本生産党の再建六十周年祝賀会がある。三時半に大熊雄次氏と待ち合わせた。

通っている歯医者の先生からお借りした「我が志アフリカにあり」(島岡由美子著・朝日新聞社)がとても面白くて、電車の中で読もうと思ったら、子供に「酔っぱらって忘れてきたら大変なんだから、他の本を持って行って」と怒られた。親の醜態を良く知っている。ハイハイ。すかさず娘が「ハイは一度でいいから」。ハァー。代わりに持って行ったのが「焼き餃子と名画座」(平松洋子著・新潮文庫)。

この名エッセイストのことを知ったのは、遅まきながら「週刊文春」に平松さんが連載している「この味」というコラムでのこと。イラストは、先日亡くなられた安西水丸氏。「どぜう」のことを書いたエッセイを読んでファンになった。「週刊新潮」の読書欄に平松さんの本の解説が掲載されていて購入した。いっぺんに読んでしまうのが惜しくて、電車移動の際の本にしている。

タイミング悪く、電車を一本乗り遅れ会場に着いたのは開会の五分前でギリギリ間に合った。生産党と言えば平成十七年に亡くなられた北上清五郎先生には大変お世話になった。北上先生と酒席を共にしていると、何となく嬉しくなったものだ。さすがに伝統的な団体の重鎮であり戦前、戦後の民族派運動に関することや頭山満、内田良平といった民族派運動を語る上では欠かせない方たちのエピソードをずい分と勉強させて頂いた。また酒席で興が乗ると「黒龍会節」や「無名烈士を弔う歌」「憂国志士」といった戦前の先輩たちが歌ったものを吟じてくれた。そういった歌を歌えるどころか知っている人さえ少なくなった。

杉山清一先輩から指名されて「乾杯」の音頭を取らして頂いた。諸先輩と共に歓談し、新党首となられた丹野寛親党首にご挨拶。感激したのは、今年九十三歳になられる鴨田徳一先生が矍鑠(かくしゃく)としておられ堂々のご挨拶をなされたことだ。いつまでもお元気で私たちをご指導して頂きたいと思った。

P1000209 ※挨拶する鴨田徳一先生。とても九十三歳とは思えない。


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通夜式へ。

2014-06-30 14:28:32 | インポート

六月二十七日(金)曇り。

昨夜は、好物のカツオで性懲りもなく一杯やった。家族はスキヤキ。朝食はその残りに卵をいれて牛丼風にした。そして気休めの「しじみの味噌汁」。

朝食後は事務所へ。原稿書きと資料整理と蔵書の整理。事務所で仕事をしていると楽しいのだが、困ることはあっという間に時間が過ぎてしまう。あれもやりたい、これもやりたいと落ち着かないのだ。四時まで事務所にいて帰宅。

今日は、七時より菊水国防連合の会長、田代厚氏のご母堂の通夜式が行われ、松本佳展君と共に出席。まだ六十代で肝臓癌とのこと。富山から帰って来たばかりの周本昌山氏や神奈川県の民族派の同志の皆さんと共にご冥福をお祈りした。

横浜に戻り友人と、「やまと」にて弔い酒。一時間ほどいて帰宅。


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努力の跡が滲み出ている「牛喘通信」。

2014-06-30 14:10:41 | インポート

六月二十六日(木)晴れ。

昨日の酒が残っていて起きられず、目が覚めた時は皆出かけた後だった。どんなに体調が悪くても朝食を食べなければ元気が出ない。メニューは、餃子、キュウリの糠漬けに昨日、来浜した堀さんから頂いた、トロロコブに、鰹節とカツオのダシを入れて、醤油で味付けしてからお湯を注ぐ。好きな「トロロスープ」である。海外旅行行くときは、必ず「トロロコブ」を持って行く。軽いのと場所を取らないので便利なのである。

古い同志で愛知在住の栗野成人氏が発行しているのが「牛喘通信」という同人誌。最新号の「百拾五号」が送られてきた。私の事務所には少なくなったとはいえ、様々な雑誌が送られてくる。民族派の機関誌から、なぜか左翼の新聞、図書案内から週刊誌、月刊誌、そして献本などである。その中で栗野氏の「牛喘通信」は特に異彩を放っている。なぜかと言えば、パソコンなどデジタルの全盛期の時代に、手書き、コピーで作られているからである。それも創刊からずーっとである。

寄せられた原稿が原稿用紙のままコピーされていたり、手紙などもコピーされており、栗野さんの手書きの原稿もそのまま掲載されている。本当の手造りなのだ。B5版、42頁。私も、事務所に印刷機が無い頃、コピー機でコピーした物を製本していた時代があったが、一応原稿はワープロで作成していた。しかし、これは大変手間のかかることで、余程、根気はもとより使命感と言うものがなければできるものではない。これは機関誌を作ったものでなければ分からないことだ。

その「牛喘通信」で知ったのだが、何と栗野氏は医者から食道がんと告げられて闘病中とのこ。本当に驚いてしまった。近況報告にはこうある。「かなり厳しい手術になるらしい、と念を押された。今後、点滴と抗がん剤の治療を繰り返し時期を見て手術だそうだ。生還出来るかは神のみぞ知ると思いつつ踏ん張ってみたい」(原文は旧仮名)。

私が戦線復帰した折には、栗野邸にてBBQパーティーを行って頂き、ご自宅にも泊めて頂いた。懐かしい思い出である。

先日も、盟友の折本満氏がすい臓がんの手術をしたばかりだ。お互いに二十代の頃から民族派運動を戦ってきた。折本氏共々一日も早いご快癒を祈るばかりである。

Photo ※栗野氏が発行している同人誌。


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阿婆擦(あばずれ)女とボキャブラリー不足の男。

2014-06-26 17:40:01 | インポート

六月二十五日(水)曇り。

朝食は、マグロの味噌漬け、シジミの味噌汁、キュウリの糠漬け。朝食後は、真面目に仕事。たかが「ヤジ」で連日大騒ぎ。アホじゃないの、と思う人も多いのではないだろうか。どうでもいいけれど「ヤジ」ももっとウイットに富んだものを言えないかね。随分前に都市対抗野球を見に行ったことがあった。日本生命と、相手チームは失念したが、日本生命のバッターにデッドボールが。その時、ぶつけた方のチームを応援していた人が、「心配するなー。相手は保険会社だぁー」。周りは笑いの渦。いっぺんで和やかになった。ヤジとはこうありたいものだ。

結婚もしていないのに、「男と別れるときは必ず慰謝料払わせる。最高で1500万払わせた」と、得意顔で言っていた女がいた。ある意味「恐喝」に近い。我が国では昔からこういう女は世間から「性悪女」とか「阿婆擦(あばずれ・悪く人ずれしてあつかましい者。すれっからしの意)」と陰口をたたかれたり、お上品な人たちからは「御里が知れる(おさとがしれる・言葉つきや動作によって、その人の素性や育ちが分かる)」と言われたものだ。

都議会で、どんな高尚な意見を述べていたかは知らないが、恐らく、党の誰かに書いて貰ったものかもしれない。もし、自分の頭で考え、書いた上での意見ならば、あの程度のヤジに反応することもなかったと私は思う。黙って睨みつけるか、「黙って聞きなさい」ぐらいのことを言えると思うのは、「恋のから騒ぎ」でのあのおんなのキャラを見たからだ。人の書いた物を、良く咀嚼しないで読んでいたからこそ、ヤジなどが気になるのだ。と言われても仕方あるまい。同じヤジをおんなに言えばセクハラで、では男に言ったらどうなる。都議会に関わらず、国会での下品なヤジの応酬を聞いていると、まるで猿山の猿と同じ程度であることが良く分かる。

今風に言えば「オバカキャラ」のおんなが、いつの間にか都議に転身か。どんな心境の変化があったのかいつか聞いてみたいものだ。いや本当はバラエティーに出ている時の姿は「芸」で今の私が本当の姿だと開き直るかもしれない。

マスコミは、あのおんなをジャンヌダルクにするつもりらしいが、どっこいそうはいかないだろう。その気になっていると、因果応報いずれスキャンダルが出る。政治家としての才能に注目されたわけではないのだから、この辺にしておかないと、それこそ御里が知れる。「担ぐ神輿は軽い方が良い」とマスコミはおんなを利用して自民党そのものの責任に転嫁しようとしていることがミエミエである。

ミエミエと言えば、ミヤネエとか言う男が、ヤジを飛ばした議員の倫理観を批判していたが、テメェだって女房がいるのに、新地のホステスを孕ませて子供を産ませたことがあるんじゃないの。下品な表現で恐縮だが、目くそ、鼻くそを笑うとはこのことだ。

最初は白を切っていたのに、後で認めてしまい、おんなに最敬礼か・・・。尖閣に乗り込んだこともパフォーマンスと言われても仕方がない。あんな姿を世間に晒すのならば、謝らずにさっさと辞職した方が男らしい。奥さんや子供さんたちが、おんなの前で最敬礼をする父の姿を見たらどんな思いになるだろう。出処進退のタイミングは難しい。だからこそ先人は「葉隠」に学んだのである。野村先生は、銀座の乞食だって土下座して物を乞わないのに、政治家は平気で人前で土下座する。そんな奴は、もともと卑しい精神の持ち主だ。と言っていた。

夜は、小針政人君と関内駅にて待ち合わせ。FBの「ともだち」、堀 芳康さんとの一献会を催す。関内駅にて、堀さん、ご友人の中野実さんと合流。堀さんとはFBで交流があるので、とても初めてお会いするとは思えない。中華街の「菜香」へ。紹興酒と美味しい飲茶を肴に憂国談義に花が咲く。二時間ほどいて再会を約して別れた。私と小針君はサリーズバーへ。社友の古谷喜久男氏と合流して楽しい酒席となった。久しぶりに日にちをまたいで帰宅。


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横浜に雷注意報で平塚雷鳥?

2014-06-24 23:01:16 | インポート

六月二十四日(火)曇り後雨。

のっけから尾籠(びろう・きたなくて人前で失礼にあたること)な話で恐縮だが、先日胃カメラの検査をしてから、数日後に「ピロリ菌」の検査をするからと渡されたのが検便のキット。ううう検便など何十年ぶりである。

それを提出したら一週間ほどして「陽性なので呼吸の検査をするのでもう一度来てください」と連絡があった。それも朝から、水もダメ。飲まず食わずということなので、大好きな朝食を我慢して朝一番で病院へ行った。

まず、①検査容器に息をぷーっと入れる。②薬を一個、噛まずに水で五秒以内で飲む。③左を下にして五分間横になる。④その後に15分座っている。⑤再び息を検査容器に入れる。これでおしまい。結果はまた一週間後とのこと。まあ歳を取ると、歳なりにあちこちが傷んでくるから仕方ないか。

遅い朝食は、頂き物のマグロの味噌漬け、自家製のキュウリのおしんこと近所の肉屋さんで買った餃子。その餃子だが肉の卸問屋の前に「肉屋さんが作ったお肉たっぷりの餃子・50個、1296円」。とあるので前から気になっていたので、今日買ってみた。まあ値段なりに美味しい方でした。でももう買わないかな。

朝から天気が悪い。横浜に雷注意報が出た思ったらゴロゴロと鳴った。雷と言えば、明治の女流の平塚らいてうは、「雷鳥」とも書く。冬になると羽が純白になるのがきれいで「雷鳥」としたが、「雷」の字が嫌なので、ひらがなで「らいてう」としたそうだ。明治四十四年、雑誌「青鞜」の発刊を祝って、彼女が寄せた文章の表題、「元始、女性は太陽だった」との言葉は、その後、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとなったことは有名である。

平塚らいてうの話をもう一つ。金持ちのおばちゃんが若い男を囲うことを俗に「若いツバメ」と言うが、これも彼女らの雑誌「青鞜」に由来する。当時「青鞜」には、岡本かの子、山川菊栄、田村俊子、野上弥生子、高村光太郎の奥さんの千恵子、伊藤野枝、市川房江、与謝野晶子(さて、皆さんはこのすべての女性を知っていますかな)といった錚々たる女流が集っていた。私なんか名前を聞いただけで萎えてしまう。

余談ではありますが、野上弥生子先生は、1948年 - 日本芸術院会員、1957年 - 『迷路』で第9回読売文学賞、1964年 - 『秀吉と利休』で第3回女流文学賞、1965年 - 文化功労者、1971年 - 文化勲章、1981年 - 第51回朝日賞、1986年 - 『森』で日本文学大賞、という凄い作家で、更にご子息も皆さん立派な方ばかり。長男の野上素一先生は、京都大学教授でイタリア文学者。東京大学教授で物理学者の野上茂吉郎先生は次男、保守派論客で哲学者の長谷川三千子先生は、東京大学教授で物理学者の三男野上耀三先生の娘さんなのである。

平塚は二十八歳の時に三歳年下の画家、奥村博史と同棲していた。「青鞜」の表紙絵を書いていたのが彼である。「青鞜」は書生だけの雑誌であり、正に女の園、そこに奥村が入り込んできたために、後に「サンデー毎日」の編集長となる新妻莞が、「水鳥の群れに、若いツバメが飛んできて、ひっかきまわした」と批判したことから、「ツバメ」が、年下の若い男の愛人として使われるようになった。このエピソードは、嵐山光三郎さんの「文人悪妻」(新潮文庫)に出てくるエピソード。奥方の研究には最高の本ですぞ。

天気は悪いし、空からゴロゴロと雷様がお怒りなので、一日真面目にPCの前で仕事をしていました。夜は、酔狂亭で、雨の音をBGMに独酌。


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