3月3日(月)曇りのち雨。経団連事件から48年。
この日は私にとって色々な意味で感慨深い日である。安政7(1870)年の「桜田門外の変」、そして昭和52(1977)年に恩師らが「財界の営利至上主義を撃つ」として財界の総本山である経団連を襲撃占拠した日でもある。井伊直弼を襲撃した水戸の浪士らは、3月3日の当日、港区愛宕山にある愛宕神社に集合し、桜田門外へと向かった。吉村昭の歴史小説『桜田門外ノ変』をもとにして制作され2010年に公開された同名の映画は必見である。襲撃に参加し、逃げ延びた浪士たちへの、幕府の捕吏による執拗な捜索と末路は多くの人の涙を誘うが、意外と知られていないのが、当日、井伊直弼の警護についていた彦根藩の人たちのその後である。
井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。処分は本人のみならず親族にも及んだ。
年に一度、愛宕神社を訪れるが、水戸浪士集合地にある「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」の前で、黙祷することを常としている。「経団連事件」の日も一瞬雪が舞った。雪と桜・・・。何か日本人は、心を揺さぶられる。
夜は、札幌から後輩の石澤博文君のご子息がガールフレンドを伴って来横。松本佳展君らと共に中華街の「菜香」にて歓迎の食事会。石澤君の子息と会うのは実に15年ぶりである。大学生となった彼と再会を約して別れた。※愛宕神社にある「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」。