白雲去来

蜷川正大の日々是口実

雪と桜には、なぜか心が揺さぶられる。

2025-03-05 14:35:40 | 日記

3月3日(月)曇りのち雨。経団連事件から48年。

この日は私にとって色々な意味で感慨深い日である。安政7(1870)年の「桜田門外の変」、そして昭和52(1977)年に恩師らが「財界の営利至上主義を撃つ」として財界の総本山である経団連を襲撃占拠した日でもある。井伊直弼を襲撃した水戸の浪士らは、3月3日の当日、港区愛宕山にある愛宕神社に集合し、桜田門外へと向かった。吉村昭の歴史小説『桜田門外ノ変』をもとにして制作され2010年に公開された同名の映画は必見である。襲撃に参加し、逃げ延びた浪士たちへの、幕府の捕吏による執拗な捜索と末路は多くの人の涙を誘うが、意外と知られていないのが、当日、井伊直弼の警護についていた彦根藩の人たちのその後である。

井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。処分は本人のみならず親族にも及んだ。

年に一度、愛宕神社を訪れるが、水戸浪士集合地にある「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」の前で、黙祷することを常としている。「経団連事件」の日も一瞬雪が舞った。雪と桜・・・。何か日本人は、心を揺さぶられる。

夜は、札幌から後輩の石澤博文君のご子息がガールフレンドを伴って来横。松本佳展君らと共に中華街の「菜香」にて歓迎の食事会。石澤君の子息と会うのは実に15年ぶりである。大学生となった彼と再会を約して別れた。※愛宕神社にある「桜田烈士愛宕山遺蹟碑」。


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岐阜の鰻。

2025-03-04 14:13:06 | 日記

3月2日(日)晴れ。

土曜日と今日は暖かかった。寒いのが苦手なので、早く暖かくなれば良いと思う。昨日は、昼前に岐阜に着。地元の細川先生のご紹介で昼食は「割烹、鰻亭・きし野」というお店へ。鰻は私の好物だが関西風の「蒸さない」鰻は今回で二度目である。最初は、福岡で食した。関東風のふぁふぁの少し辛めのタレのうな重が好きだが、関西風も又、趣があって良い。正に所変われば品変わる。いずれ向田邦子さんが愛した岐阜の「味噌カツ」も食べてみたいと思っている。「うまき」を食べた大熊雄次さんが、小骨が喉に刺さってしまい、ちょっと気の毒だった。鰻の小骨は「返し」があるので取れにくい。大事に至らなければ思っていたが、夜になったら取れて安心。

朝は、7時半に起床。バスタブにお湯が中々たまらずに、あきらめてシャワーにした。菓子パンの朝食を食べて、8時40分にロビーへ。私以外の若い人たちは、ホテルに戻った後、再び狭斜の巷を徘徊したようで、皆さん眠そうだった。9時30分の新幹線で横浜へ。名古屋の駅でお決まりの「きし麺」の立ち食いを。

帰宅後は、お神輿の「アッコ姐さん」たちの新年会へ。佐伯さんご夫妻、橋本ミッチーさんと合流。鯔背な姐さんたちとの一献会。終了後は、欧陽菲菲に似た女将の居る「愛福楼」に転戦。残念ながら欧陽菲菲は顔を見せず。早めに帰宅し就寝。※写真は「きし野」にて。


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花房東洋先輩の「お別れ会」。

2025-03-03 14:27:02 | 日記

3月1日(土)晴れ。

午後2時から岐阜の護国神社にて行われる花房東洋先輩の「お別れ会」に出席するために9時半の新幹線で岐阜行き。新横浜駅で志村、松本の両君と合流。車中で大熊雄次氏、小田原で今村氏とも合流。名古屋から名鉄で岐阜へ。お別れ会では飲食の提供がないとのことなので、地元の細川先生より紹介された「鰻亭・きし野」という趣のある割烹へ。隠岐康、雪田顕正両氏が先着していて共に食事。関西風の「蒸さない」パリパリの鰻。食後、護国神社へ。

1月1日に亡くなられた花房先輩とは、確か昭和50年ごろからのお付き合いであり、長い分様々な思い出がある。約200名くらいの人たちが参加。弔辞を述べさせて頂いた。終了後に、護国神社内にある「青年日本の歌ー昭和維新の歌」の歌碑の前で皆さんと記念写真を撮る。

名古屋に戻り、一門で弔いの酒。歳のせいか10過ぎにはホテルに戻り、そのまま寝てしまった。


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トレドの思い出。

2025-02-28 18:03:35 | 日記

2月27日(木)晴れ。

良い天気である。窓を全開にして温かい空気を取り入れようかとも思ったが、花粉が心配なのであきらめた。我が家の空気清浄機は全開、フル稼働である。昼は、箱根駅伝の花の二区、権太坂にある蕎麦屋「名古屋」にて。ここの蕎麦はあまり好きではないので小エビが沢山入っている「かき揚げ丼」を。1300円なり。私的には、これは絶品である。

随分前に読んだのが、『ウイスキー粋人列伝』(文春新書・820円)。「吉田茂も黒澤明も向田邦子も日本人はみんなウイスキーが好きだった」と帯にあり、愛飲家90人のエピソードが綴られている。私は飲食に関する本が好きで、特に酒のエビーソードについて書かれたものは、目についたらすぐに買うようにしている。その「列伝」のトップに登場するのがクラッシックのギターリストでエッセイストでもある村治佳織さん。彼女のウイスキーの話も良かったが、嬉しかったのが次の一文。

「トレドには、もう何度足を運んだかわからない。パラドールのお庭から見るトレドの全景、これは画家のエル・グレコも魅せられてトレドに移り住んだという逸話も残っているぐらいでも、千年も景色が変わっていない。私の中では、いま地球上で見られる中でも、もっとも好きな光景の一つです」というもの。ちなみに「パラドール」とは、スペインでは古城などを改装したり、景勝地に新しく建てた半官半民の宿泊施設網のことである。

私は、村治さんが、トレドのパラドールから見た「いま地球上で見られる中でも、もっとも好きな光景の一つです」を、もう30年以上も前に野村先生と共に見た。その庭で、先生は旅の感慨を語り、私がビデオに収めた。命のあるうちに機会があればもう一度訪れてみたいものだ。トレドはキリスト教徒がイスラムを駆逐した「レコンキスタ」(失地回復)の地としても有名である。写真はトレドのパラドールにて。若き日の私です。


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昭和維新の春の空。

2025-02-27 18:41:53 | 日記

2月26日(水)晴れ。

野村先生の獄中句「銀河蒼茫」の中に、「二・二六の今年は獄のほそ霙」がある。二・二六事件に関する本は随分と読んだ。その中で、印象に残っているものと言えば、末松太平の「私の昭和史」、大蔵栄一の「二・二六事件への挽歌」、立野信之の「叛乱」、河野司の「湯河原襲撃」などであろうか。昭和11年2月26日の雪の降る早朝、栗原安秀中尉は、近衛歩兵第三連隊の兵士を集め、こう訓示する。「これより妖雪を払い、御聖断を仰ぎ、昭和維新を断行する」。血が騒ぐなぁ―。

若い頃に、二・二六事件関係の本を片っ端から集め読んでいたが、きりがないので、この十年ぐらいは、その後に出版された二・二六事件関係の新刊を読んでいない。その昔、古書店で、事件に関係した青年将校たちの遺墨を集めた「霊の国家」(だったか?)という本を買った時には、とても興奮した。その後、青年将校だけではなく一般の兵隊にスポットを当てた「二・二六事件と郷土兵」などという本も出版され、これも興味深く読んだ。しかし、いくら読んでも事件の本質は動くことはなく、あとはどう評価するのかや決起した人たちの個人的な人間関係、エピソードにいかに関心を持つかということに尽きるのではないか。最も、私は、研究家ではないので、事件の精神を少しでも理解し受け継ごうとするだけだ。事件の起きた昭和十一年(1936)と言うと、随分と昔のことのように思うが、私が生まれたのは昭和二十六年だから、二・二六事件は、私が生まれるわずか十五年前の出来事。

最近、パソコンの画面のせいか「ドライアイ」気味で、目の具合が余り良くない。久しぶりに自宅近くの眼科へ検査を兼ねて目薬を貰いに行った。上、下、右、左などの検査などを行なった結果「視力は1・0だし、白内障の心配もないので安心してください」。薬局で目薬を貰って帰る。医者と目薬で1790円。

事務所にて、機関誌の最新号の校正。原稿が多く、今月号は61頁にもなった。ヤマトのメール便がなくなり、普通郵便で送るのだが、52頁だと180円だが、61頁となると270円。仕方がないので今回はスマートレター(210円)で送る。原稿が多いのは編集者冥利に尽きるが、送料が高いのには頭が痛い。維新の捨て石たらんと志していた若い頃に比べると、我ながらセコイナァー。反省


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