白雲去来

蜷川正大の日々是口実

何処へ、いや千葉へ。

2025-02-27 10:56:37 | 日記

2月24日(月)晴れ。

所要があって千葉行き。バックには『作家と酒』(平凡社)を一冊。市川までは一時間余の車中である。旅というようなのんびりしたものではなく、かといって仕事でもない。所要という都合の良い言葉があって助かる。電車の旅が好きだ、と言っても、いわゆる「撮り鉄」や「乗り鉄」そして六角精児さんのような「呑み鉄」でもない。「電車の旅」といっても、せいぜい3時間程度が限界である。

横浜から下田あたりまでが我慢の限度。車窓を楽しむのには、それくらいが丁度よい。下田方面に行くときは、座席は左側。小田原を過ぎるあたりから海が見えてくる。天気の良い日などは、石坂洋次郎の小説ではないが「光る海」が目に眩しい。小田原の西湘バイパスの近くには、若くして亡くなった盟友の渡邊康司さんが眠っているお寺があり、いつも目で追う。

横浜駅で、簡単な肴とビールを3本仕入れて車中の人となる。新幹線だと、早すぎて車窓を楽しめない。下田までは、せいぜい「踊り子」か東海道線のグリーン車を使う。窓から入る日差しでついウトウトしてしまい、あーあもったいないと、慌ててビールを飲む。いや、下田行きの話ではなかった。

千葉方面に行くときは、なぜか時間が逆戻りするような気がしてならない。過去に向かって走っているような、不思議な感情に包まれる。市川まで一時間、記憶は中学生のころまで戻った。駅前で盟友が待っていてくれて、とりあえずホテルにチェックイン。彼の会社で二時間ほど、こまごましたことを済ませてから、いつもの蕎麦屋へ。頑固な、それでいて人の好いご夫婦が営んでいる。蕎麦はもちろん、酒の肴も美味しい。盟友の友人10名ほどでお店を貸し切り。県議、元政治家の秘書、計理士、司法書士、ハゼの釣り師夫妻、背広の仕立て屋さん。そこに新進気鋭の保守の論客の岩田温先生とお弟子さんが乱入。談論風発、喧々諤々の酒。その後、一軒転戦してホテルに戻った。何から何までお世話になりました。盟友に感謝。

 


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残刑は十年もある「明日も雪か」。

2025-02-25 16:40:55 | 日記

2月23日(日)晴れ。天長節。

今日は天長の佳節である。起床後に玄関に国旗を掲げ、皇居を遥拝。皇尊弥栄。

昨日から、愚妻と上の子供が昨日から大阪旅行ら出かけたために一人でのんびりとしている。日曜日とあって狭斜の巷の馴染みの店は皆休みで、「鬼の居ぬ間に』とは行かず先日購入した福田和也さんの自伝的批評集『放蕩の果て』を読んでいる。書斎の窓から入ってくる陽射しが心地よく、ウツラ、ウツラとしてしまう。「暗くなるまで待って」から、酔狂亭を開店。肴は、鶏むね肉の薄切りフライにから揚げ、レタスの温サラダ(さっと茹でて、ごま油、ちょっと紹興酒に醤油)、清風楼の焼売、大根と都築農園差し入れの人参のきんぴら。お供は、犬塚先輩の差し入れの「伊佐美」のお湯割り。月下独酌。

一瞬風花が舞った昨日、野村先生の「残刑は十年もある『明日も雪』」の句が浮かんだ。その句は野村先生以外には詠むことができないだろう。いや野村先生だからこその句である。その昔、この句について先生から聞いたことがある。「千葉に降りた時、刑務所の面接があって俺を含めて三人が面接を同時に受けた。その際に面接官が書類を見ながら『一人短いのがいるな』と呟いた。誰かと思ったら、『野村お前だよ』。後の二人は、無期の人だった。ここが長期刑務所であると言うことを思い知った最初の出来事だった。そんな中で無我夢中で二年が過ぎた。やっと二年が過ぎたかぁー。と思った瞬間、これから先、まだ十年も務めなければならないのかと思った時、ゾッとして、体が震えたことがあった。雪の日だった」と。

 

 

 


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雪の降る街を。

2025-02-23 13:55:32 | 日記

2月22日(土)晴れ。風花舞う。

大阪に旅行に行く、妻子を新横浜駅まで送る。久しぶりに「焼売弁当」を買い、昼食に。しかし、一個千円は高い。良い天気だったが、一瞬のうちに曇りだし薄暗くなった。雨かと思ったら、消え入るような風花が舞った。豪雪地帯の人たちのことを思ったら「風流」などと言っては罰が当たるか。しかしながら雪とはほとんど無縁の横浜などにいて、たまに降る雪を眺めるのも良いものだ。

随分前のことだが、8年前に亡くなられた元「群青の会」の代表だった正田秀幸ご夫妻と、私と愚妻とで網走を旅したことがあった。二月のことだったと思う。お互いの思い出の能取岬や、苦労した切通し農場などを見て回った。最も冬の切通し農場へは、雪が深くてたどり着けず遠望するにとどまった。網走湖荘や天都山にある友愛荘に泊まり、お互いに往時を偲んだことが懐かしく思い出される。「雪の降る街を」という歌を聴くと、網走の、それも仄かな灯りの街灯に照らされた雪と、網走の町に降る雪。そして究極は、農場の一面の銀世界と防風林を思い出す。横浜に降るたまにの雪に、様々な感慨が巡る。雪の降る街に、正に、想い出だけが通り過ぎて行く・・・。

夜は、家に誰もいなくて退屈なので、佐伯さん夫妻と待ち合わせて藤棚の「やまと」へ行く。カウンターにはお馴染みさんばかり。一時間ほど飲んで「サリーズバー」へ転戦。千鳥足で帰宅。


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僭越ながら、石破総理に一言。

2025-02-19 11:20:50 | 日記

2月18日(火)晴れ。

昼に伊勢佐木町に行く用事があったので、吉田町の「京城苑」にて焼肉ランチ。色々な焼き肉屋でランチをするが、このお店が値段も安く美味しい・。「極上カルビランチ」1800円なり。夜は、寒いので、豚肉の鍋を囲んだ。お供は、「伊佐美」のお湯割り。酔狂亭にて独酌。

報道では、石破さんが「戦後80年談話」に意欲的だとか。何時まで「反省と謝罪」を行なわなければならないのか。戦争を知らない世代が9割を占める現代において、誰に、何をどう謝罪しようとしているのか。全く良く分からん。大東亜戦争の終戦から「80年」での談話と言うなら、今年は日清戦争の終戦から120年、日露戦争の終戦から110年でもある。なぜ先の大戦、大東亜戦争のみに「談話」を出さなければいけないのか。日清戦争も日露戦争も主戦場は朝鮮半島で、日露戦争と言っても主戦場はロシアではなく遼東半島や奉天、すなわち今の中国である。百歩譲って、過去の50年60年談話にあるように「アジア諸国の人々に対して、多大な損害と苦痛を与えた」と言ったら、日清・日露戦争だって同じではないか。

日清戦争終戦から120年談話、日露戦争終戦110年談話を出そうと、なぜ思わないのか。負けた戦争だけにこだわるのは、威勢が悪いんじゃないの石破さん。「反省と謝罪」と言うよりも、自分が総理でいる間に、何かレガシーを一つ残そうとか言う、姑息な考えがミエミエな気がする。一国の総理に私のような一介の浪人風情が物申すなどと言う、思い上がった気持ちはさらさらないが、私の方が幾らか年上でもあるし、一応、激しい生き方をしてきたと自負している。僭越とは承知していますが、恩師、野村秋介先生から教わった言葉を、石破さんに贈りたいと思う。「馬鹿をさらすよりも、黙っていて馬鹿と思われる方が、いくらかまし」。

「70年談話」などに腐心するよりも、眼前の、米の値段、ガソリンの高騰、諸物価の値上がり等、国民目線で頑張って下さい。


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戦時中の陸軍の名将5人。

2025-02-18 17:43:56 | 日記

2月17日(月)晴れ。

昼食は、白菜ときくらげをたっぷり使った「中華丼」、大根のおしんこ、能登屋のさつま揚げ。夜は、新ワカメとレタスのしゃぶしゃぶ、六ッ川の「中華総菜」の小籠包、みすじ肉。お供は「黒霧島」のお湯割り。大人しく酔狂亭にて月下独酌。

石破総理が好きで影響を受けたというのが、歴史作家の半藤一利氏。保守陣営からは「リベラル」と批判されているが、まあ、学ぶことも多いのは事実である。頭の中にいくつもの引き出しを用意して「良いとこ取り」をすればよいと思う。半藤氏の『昭和史の人間学』という本にとても興味深いエピソードがあるので紹介してみたい。対米開戦時に東条英機の副官を努めた西浦進(陸軍士官学校34期、陸軍大学42期の首席。陸軍士官学校同期の服部卓四郎および堀場一雄と並び「34期三羽烏」と称された)は戦後になって陸士同期の堀場一雄(最終階級・陸軍大佐)と服部卓四郎(最終階級・陸軍大佐)の3人で、戦時中の陸軍の「名将」を5人選んだことがあった。その時、全員一致で1位が石原莞爾の名を上げたという。以下、2位が板垣征四郎、3位・阿南惟幾、4位・今村均、5位・安達二十三の順だったという。

不勉強ながら、安達二十三(はたぞう)の名を知らなかった。ウイキで調べると、部下思いの名将であり、終戦後、捕虜となった部下の判決が全て下るのを待ち、拘留中の部下8名の釈放が決定すると、弁護団に礼を言い、ラバウルの収容所にて自決した。作家の山田風太郎は著書『人間臨終図巻』(徳間書店)において安達の遺書を引用し、次のような言葉を記した。『終戦直後の昂奮時ならともかく、二年を経て、おのれの責任を全うしたと見きわめてから自決をしたのはみごとというべきである。太平洋戦争敗戦にあたって、かかるみごとな進退を見せた日本軍の将官はきわめて稀であった。』

石原莞爾に関する著作は数多出版されており、有名な『世界最終戦争論』は手に入れることは容易である。阿南惟幾と言えば角田房子の『一死大罪を謝す』(ちくま文庫)がすぐに浮かぶ。今村均に関しては、やはり角田房子の『責任ーラバウルの将軍今村均』(ちくま文庫)や今村自身の『幽囚回顧録』(中公文庫)がある。板垣征四郎は「板垣征四郎刊行会編」による『秘録・板垣征士郎』(芙蓉書房)が白眉であろうか。気になった軍人がいれば、是非読んでみて下さい。また、芙蓉書房から出版されている『世紀の自決ー日本帝國の終焉に散った人びと』という名著が出ている。※写真は、石原莞爾。

 


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