この「ハムレット」の脇役であるふたりを主人公にした舞台があることを初めて知ったのは、確かイギリスBBCでナショナル・シアター50周年記念イベントが2013年にあってベネディクト・カンバーバッチがその演目を演じた時だったか、前後してゲイリー・オールドマン主演の映画があると知った時だったと思う。
「ハムレット」のスピンオフのような内容もさることながら、脚本がトム・ストッパードなので見たい度も高まりました。というのも、その少し前に入れ込んだBBCドラマ「パレーズ・エンド」の脚本家で、その時にベネディクトや監督の語りで「トム・ストッパードとは演劇界でかなり尊敬されている脚本家なのだ」とわかったからでした。
そして、今回は初演から50年の記念講演で、キャストにダニエル・ラドクリフも居るのですからNTLiveの中でも楽しみにしていたのです。
そしてその期待と「どうやらハムレットの舞台に出ていない時にあの二人が何をしていたか、という内容らしい」という前情報を上回る面白さでした。
『舞台に出てない時に何をしていたか』ってわかるようでわからないじゃないですか?本当の舞台と客席も一種のパラレルワールドと言えますが、そのような劇場における役者とストーリーと劇中劇とその役者たちのマトルーシュカ状になったパラレルワールドとでも言いましょうか。
でローゼンクランツとギルデンスターンは背の低い役者ふたりで、哲学を語る漫才コンビのような存在なのですが、観客はこのふたりに一般人、庶民としての自分をだんだん見るような筋になっているんです。
そしてハムレットでもそうですが、この二人はどっちがローゼンクランツでどちがギルデンスターンかわからなくなってきます。最初はボケとツッコミがはっきりしているんですが、だんだん役が入れ替わったりしてどっちでもいいような気分になってしまうんです。
ハムレットの俳優たちは身長が皆高く、あのポローニアスでさえもスラリとして美しい衣装を着て、やはり一般人から見たら宮廷のやんごとなき人たちに見えます。ハムレットの舞台を見ている時は、ハムレット目線になるので感じないのですが、ローゼンクランツとギルデンスターンを通してすっかりイカれた王族に見えるのです。しかも彼らのセリフはハムレットと全く同じなので余計にその見え方の差が面白い。
それと旅役者一座。衣装が現代的なレトロで前衛バレエのようでした。この座長が狂言回しで文字通りフールな道化なんですが、気持ち悪くて怖いんですが一番頭が良さそうなのでした。でも一座は、日本だったらチンドン屋、座長以外は本物のフール役に徹していてかなり本気でヤバイ感じでした。
ローゼンクランツとギルデンスターンは脇役なので、ハムレットの世界ではいまひとつ生きる意味や自分の存在が曖昧で悩むのですが、結局どんなに論理的な理論で人生の目的を見つけようとしても、実は痴呆役者と同じに過ぎない、なら死んでいるも同然、死んだ、、、、、
と西洋的なんとか主義をコメディにしたような知的なお笑いだけどふたりの、人間の存在が物悲しいような空気がステージから(カメラではうまく俯瞰で見せてくれる)漂ってきて、
そうか、人生って悩むものだったのか、と20世紀中盤の文化を思いつつ、
インターネット以降、情報があふれて人生の意味を考える暇もなくなったかもしれないと思い当たりました。立ち止まっていたら情報を処理しきれないからです。現在のギルデンスターンたちだったら、コインを投げる代わりにスマホをそれぞれ見てるでしょうね。