2021年に公開されたアニール・カリア監督映画「SURGE」を見ました。
ベン・ウィショー主演の同じ監督の2013年短編作品「BEAT」の長編と言って良いかと思います。
BEAT;どんどん打つ、負かす
SURGE;(感情などの)大波、高まり
タイトルも連動してますね。
どういう映画かは予告編を見ると大体わかるのですが、主人公ジョゼフは空港のセキュリティで働き、乗客の荷物や体をチェックしています。現場の上司に怪しげな乗客を割り当てられてしまう、従順で真面目な青年です。この空港はスタンステッドで、ロンドン北部の不便な場所にある格安航空会社専用空港なので、ロンドンの表玄関ヒースロー空港などに比べると、客層もその分落ちるし庶民的な空港です。そこの従業員は当然そんなに高い収入はないでしょうに、休憩室では「キャロットケーキは貧乏人の食べ物」とジョゼフが自分の誕生日ケーキとして買って来たものをバカにする奴がいるのには滑稽だし、言われたジョゼフはむかつく感情を抑え、その時キャロットケーキをぱくぱく食べていたリリーは彼の中で大切な人となります。
ジョゼフは実家は出ていますが、両親が新しい洗濯機を設置するのを手伝って欲しいというので行ってみると、父親は息子を無視して一人で文句言いながら洗濯機と格闘、ジョゼフは何か役に立とうとしますが「そこに置かないで」とか文句を言われて立場なし。親子3人で食事をすれば「飲む音大きいわね」と言われるし、食事の後にキッチンに入るとジョゼフのバースデーケーキを準備していた母親に「サプライズだったのに」とまたまた怒られる。
これは!
バカバカしいと思いながらも「仕事だから」すべきことをし、良かれと思ってしたことをいちいち揚げ足取られても「家族だから」と許す・・・誰にでもある「あるある」です。ここまではググッとジョゼフは自分と同じだと観客を引き寄せます。
ジョゼフは感情を抑えるのに、飲んでいたグラスを口に押しつけすぎてガラスが割れてしまい、口の中に刺さったグラスの小さな破片が口の中で気になって気になって舌先でずっと口腔内をモゾモゾするんですが、この辺から、あ、その気持ちはわかるけど、口を動かしすぎてヤバい人間の顔になってないか?と違和感を感じ、
さらにバスの中で5歳の子供とシンクロして見知らぬ乗客の毛皮を触ったり、さらには匂いを嗅いだりして子供からも「あたしだってそれはしてない」と言いたげな顔で見られているジョゼフ。
自分のフラットに戻り、レトルト食品のパックを執拗にフォークで刺したのもまだ「あるある」と私は思いましたが、ここから彼は感情を行動に移し始めてしまったのです。晴れ晴れとした顔つき、姿勢、になって職場に向かいます。鬱屈していたさっきまでとは別人のようです。
それでもいきなり別人になるのではなく、ロンドン「あるある」のクレカのエラー、カードをATMに食べられてしまう、銀行の窓口に行ってもパスポートか免許証がないと解決してもらえないという袋小路に追い詰められ・・・誰でも経験するような怒り、無力感が手カメラの揺れる画面でジョゼフの視界のように(実際はジョゼフが映っているのでそうではない)観客も不安定な混沌に追い詰めて、ジョゼフの脳内歯車が狂っていく過程に自然に引き込まれてしまいます。
ジョゼフの行動は狂気に支配されてしまうのですが、なりふり構わなくなるのではなく、彼の中の正義というのはあり、理不尽なことや人に対して我慢しなくなるというのか・・・バスの子供にシンクロしたように社会的ルールから自分にとって重要でないことから自分を解放したら、彼の顔に微笑みが来たわけです。
道を歩くのに微笑んでいる大人はだいたいヤバい人ですが、ジョゼフの内面を丁寧に映し出すことで、狂気が最初からヤバい奴に降りてくるのではなく、抑圧された心が狂気に解放される過程に観客も感情移入させられてしまうのはすごいです!
ジョゼフの実家はロンドン郊外のテラスハウス(つながった家)で労働者階級。お母さんが用意してくれたお誕生ケーキも、冒頭で同僚が「貧乏人のケーキ」と言ったキャロット・ケーキだったのが笑えないジョークのようでしたが、ジョゼフが弾けて中流階級のウェディングパーティーに紛れ込んで勝手に飲食を始めてしまうシーンで出てきたのはチーズ・ケーキでした。う〜む・・・日本人にとってはキャロット・ケーキの方が外国っぽいカフェなどに行かないと食べられない贅沢品と私には思えるのに、リッチなケーキはチーズ・ケーキだなんて、監督のカリアさんを日本のコンビニに連れて行ってあげたいものだ・・・
で、心は解放されたけれど、身体は傷だらけ、ウィショーさん、痛い!痛い役!そしてまた脱ぐシーンありで全身の演技・・・またまたなぜ監督はウィショーさんを脱がせたいのか何故なんだ!世の監督に問いたい。脱がなくても表現力が落ちるわけではないウィショーさんですからあまり俳優を痛めつけないで作品を表現してこそ監督の力量が試せるのではなかろうか。