HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

「スタイリストがファッションに長けている」は、雑誌が作った虚像に過ぎない。

2013-05-10 09:07:16 | Weblog
 今年4月に出版界の異端とも言われる幻冬舎から発刊されたファッション誌「DRESS」。編集長には東京・護国寺にモデルストリートなる異名をもたらした光文社で、STORYや美stを軌道に乗せたY氏を起用。ターゲットは40代の独身女性を設定し、「結婚よりも恋」という大胆なコンセプトで社会を変えるなんて大風呂敷を広げたが、のっけから読者の不評を買ってしまった。

 永年、ファッション誌をチェックしている人間には所詮、男目線でやっていることがすぐに見透かされる商品セレクションやスタイリング。それさえ気づかず、大御所のメディア関係者が仕切っているから、必ず成功すると思っていたとすれば、何とも間抜けな話である。
 不評の責任はY編集長に向けられるべきなのだが、スタイリストのO氏に対する落胆の弁も少なくない。「ドレスがなかったということで。そんなOがドレスを提唱するのが、付け焼刃的な気がする」「顔は長いし、美人じゃないし、足が短くスタイルも悪い」「普段裏方に徹する方が着飾って誌面を飾ったところで、みっともないという印象しかありません」etc.

 これだけ辛辣に語られているのだから、読者はO氏に相当の期待をしていたのがわかる。しかし、元来、スタイリストがファッションディレクターだのと名乗ったところで、それは雑誌メディアが作り出した虚像、虚飾に過ぎない。
 スタイリストはアパレル=洋服の企画製造に関わっているわけではないから、自分がこんなイメージとか、こんなスタイリングと言っても、企画段階にある想像の域を出ない。
 彼らの仕事は「このブランドがこのアイテムを発売する」「今シーズン、このメーカーはこの柄を企画した」など、アパレル側の「でき上がった商品情報」をいち早く入手して、雑誌制作に携わっているだけなのだ。

 極論すれば、編集者やスタイリストが持ち得るのは、企画・デザイン力でも、カラーやファブリケーションのセンスでも、パターンメイキングの技術でもなく、単なる「取材や情報収集、加工の能力」である。
 メジャーなファッション誌の編集者には、何十倍もの就職試験を勝ち抜いた4大卒エリートという意識があるのか、どうも自分の能力を過信しているように見える。
 新刊が発売される度に、ことごとく読者を裏切っているのだから、旧態依然とした編集モデルが通用しなくなっているのを、スタイリストを含めいい加減に認識すべきではないだろうか。

 いくら雑誌ビジネスを支えるのが広告収入であり、スポンサーの意向がコンセプトにまで及ぶと言っても、編集者やスタイリストが無難な路線を歩むのであれば、それはDRESSの「評価」に見られるように読者との乖離を生むだけである。
 ファッション誌の性格からすれば、40代女性というマーケットを区切る場合、「尖ったファッション」や「高感度なスタイリング」路線を歩むのが定石だろうが、それは欧米のラグジュアリーブランド、国内のデザイナーやNBアパレルを露出させることに限らないはずである。
 国内外の専門店系アパレルや個人デザイナーなど、企画力や素材感で勝負するところまでに裾野を広げ、積極的に新たなアイテムを掘り起こしていかないと、誌面が変わったようには見えない。
 
 目の肥えた40代女性がもはや大手百貨店や南青山のショップのみに飛びつく時代ではない。かといって、経験値から値段にはすこぶるシビアになっている。彼女たちにブランド=高額=価値があるという図式は通用しない。
 プレスルームからの貸し出し商品でイージーに構成し、スポンサーに媚を売るような編集スタイルでは、もう目の肥えた40代読者を捕まえるのは難しいだろう。だからこそ、編集者やスタイリストには、本来持っているべき取材や情報収集力に磨きをかけなければならないのだ。

 編集者やスタイリストにはわれわれのように生地を探し、 企画を立て、デザインを考え、サンプリングし、商品を製造し、ブランド化するクリエイティブワークなんてどだい無理な話しだ。
 だからこそ、徹底して商品を「探す」しか手だてはない。国内はもとより海外の産地やメーカーを足しげく回り、そこで探し出した商品を一つのテーマでエディトリアルしてこそ、毛色の変わった雑誌が作れると思う。
 コンセプトだの、テーマだのと能書きばかりこく前に、徹底して商品を見抜かなければならない。それができない編集者やスタイリストに、新しいファッション誌を作れるはずもないのである。
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