HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

遺伝子を生かす経営。

2018-06-13 05:17:43 | Weblog
 先週の業界ニュースで、筆者が注目したのは二つ。一つは一般報道でも大きく取り上げられた「ケイト・スペード自殺」だ。これにはびっくりした。同氏がデザイナーデビューした1993年は、筆者がニューヨークを訪れていた時期と重なる。94年〜95年は現地で、スペード氏デザインのバッグがショーウィンドウを飾るのを目の当たりにしたし、96年にはソーホーにオープンした直営店にもリアルタイムで訪れている。

 ケイト・スペード氏は、元は雑誌マドモアゼルのアクセサリー担当だった。ファッション誌の編集者からデザイナーへの転身。欧米ではよくあるケースで、夫のアンディ氏、友人とともにブランドの「ケイト・スペード」をスタートさせた。今から25年前。30歳の時である。

 当時、米国、特にニューヨークで展開されるバッグのブランドと言えば、ヨーロッパ製のルイ・ヴィットやグッチ、エルメスなど、米国製ではコーチくらいだった。カルバン・クラインがバッグに進出するのは、数年先である。これらのバッグブランドは、どれもコンサバかつ高価格帯で、顧客は富裕層の女性に限られていた。若い女性の感性にフィットするようなバッグは、ほとんどなかったのである。

 そんな中で登場したのが、ケイト・スペードだった。コンセプトは「プラダのようなシンプルかつモダンで、機能性も併せ持つバッグ」。まさにケート・スペードには、ヴィヴィッドなカラーと適度な遊びごころがありながら、非常に使いやすかった。金字で刻印されたロゴマークは、字間を空けたローマン書体の小文字で、いかにもニューヨークらしい持ち味を醸し出していた。

 そんなバッグに、現地のワーキングウーマンが飛びつき、スペード氏の古巣であるファッション誌が紹介する。それらが起爆剤となって、ケイト・スペードは全米に伝播し、ほどなく日本でも知られるようになった。当時の日本で若い女性向けのニューヨークブランドと言えば、アナ・スイくらいしかなく、それもアパレルが主体でデザイナーズ系だった。ヤングOLが好むような手頃なブランドバッグが求められており、96年にはサンエーインターナショナルが販売を開始した。

 その後、SIとの合弁で日本法人が設立され、2009年より正規輸入・販売を始めたほか、17年には世界269ヵ国、180店が展開されるまでに成長した。ただ、スペード氏自身は07年に米キャリアアパレルの「リズ・クレイボーン」社に株式を売却し、ブランドデザインの最前線からは退いた。そのリズ・クレイボーンも業績悪化で、17年にケイト・スペードの株式を「コーチ」(現社名:タペストリー)に売却している。

 リズ・クレイボーンが売上げ不振に陥ったのは、やはり米国特有の量産量販、マークダウンやセールによる売り減らしが通用しなくなったことだ。いくら親会社とは言え、そんな経営感覚のもとでケイト・スペードを保持していても、ブランドが生きるとは思えない。スペード氏のDNAを本業に生かすこともなく、宝の持ち腐れではなかったかと思う。

 もっとも、スペード氏がバッグデザインを担ったのは14年ほど。2015年頃にスタートしたブランドについては、ほとんど聞こえて来ない。ここ数年はうつ病を患っていたというが、詳しい自殺の原因はわからないまま。ただ、ブランド「ケイト・スペード」自体は大手の傘下で、これからも生き続けていくのがせめてもの救いだ。今は故人の冥福を祈るばかりである。

 ファッションビジネスおいて、新興ブランドはヒット商品を出すと、旗艦店など店舗網を拡大してブランド価値を上げようとする。その資金を調達するために株式を上場するのが既定路線だ。ブランド価値が確立していれば、より資金力をもつ有名ブランドやコングロマリットが株式の過半を取得し、新興ブランドを傘下に収めていく。新興ブランドの創業者はここでキャピタルゲインを得て、ビジネスから退くものもいれば、一定の株をもってデザインや経営に参画し続けるものもいる。

 買収側の親会社も上場企業であるケースが多い。投資家からすれば短期に収益アップが望める方が良いので、親会社は買収した新興ブランドにも有能な経営者、売れる商品を生み出せるデザイナーやディレクターを起用して投資家の要求に応えていく。LVMHやケリング、リシュモンといったコングロマリットがとる事業戦略がこの手法で、今や国際競争を勝ち抜く上での趨勢になっている。

 17年にケイト・スペードをリズ・クレイボーンから買収したコーチは、事業の多角化で成長するために社名を「タペストリー」に改めている。コングロマリット化を視野に入れてのことだろうが、ヒットしたブランドを買収したからといって、事業全体が上向くとは限らない。ブランドの暖簾とデザイン遺伝子を守りつつ、いかに時代、マーケットの変化に合わせていくか。経営者のマネジメントや舵取りが重要なのである。

 その意味で注目するもう一つのニュースは、三井物産に買収されたビギホールディングス(HD)の新社長に前レッドブル・ジャパンの唐木利治氏が就任したことだ。同氏は三井物産に入社後、P&Gファーイースト・インク、ナイキジャパン、ペプシコ・インターナショナルなどの外資系企業を経験。16年からレッドブルの日本法人で社長を務めているが、アパレルはほぼ初めてと言って良い(ナイキの在籍はあるにせよ)。

 報道によると、三井物産は商社のネットワークを生かし、国内外のブランドをビギHDの販売網で拡販していく考えとか。4月にはメルローズが英ブランドの「ジョンスメドレー」を輸入販売するリーミルズエージェンシーを子会社化している。でも、これだけをみると既存ブランドをどうするのか、ビギ再生戦略の全体像はよくわからない。

 ビギHDが傘下にもつ各ブランドは「wb」を除いて、陳腐化が激しく企画重視、デザイナー系の面影は消え失せている。それがグループ全体の売上げ不振の原因でもあるのだ。メンズビギもメルローズもヤングを意識しているものの、商社ルートのODM丸投げで企画に注力しているとは言い難い。ジョンスメドレーのような高級品を一緒に販売すれば、逆にジョンスメドレーのブランドイメージを毀損してしまうのではないかと思う。

 それとも、既存ブランドは廃止・休止し、居抜き店舗をジョンスメドレーのオンリーショップにリニューアルする布石なのだろうか。それにしても、ジョンスメドレーがセレクトショップのキーブランドになっていたのは、20年も前のことである。英国ブランドらしくハイゲージニットでフラットデザインは変わらないが、こうしたテイストの商品がこれから今以上に拡販できるとは思えない。

 唐木新社長は商社、外資系企業出身だけに、海外ブランドの市場拡大には長けているのかもしれない。だが、ビギHD傘下の既存ブランドをどうテコ入れするのだろうか。そもそも、ビギがデザイナーズブランドとして一時代を築けたのは、今回の人事で最高顧問に退いた大楠祐二・代表取締役会長が豪腕によるものだ。手法を振り返ってみよう。

 一つは、マーチャンダイジングを重視すること。「デザイナーズブランド全盛の時代にあっても、売場の声やお客の反応を重視したマーチャンダイジングを大楠元社長自身が行い、それに基づいてデザイナーがデザインを修正したから売れた」。ビギはこのバランスが非常に上手かったというのは、多くの業界人が認めるところだ。

 二つ目は、ブランドは大きくせず、いろんなブランドをもつ。「デザイナーのカラーを全面に押し出さないメルローズを開発したのは、菊池武夫氏にビギを去られた苦い経験から」。一つのビジネスに賭けていると痛い目にあうことを反省材料に、ブランド(会社)をいくつも作った。

 三つ目は、服づくりではデザイナー対営業の比率は3:7。「デザイナーが作りたい服、売れる服を作らせたい営業サイドとの意見調整は、過去の実績データから見せるイメージ商品3割、売れる商品7割にする」。服づくりにおいてどちらの意見が強いかと言うと営業サイドになるが、デザイナーブランドの立ち位置も失わない。
 
 四つ目は、展示会でブランド間の競争心を煽る。「大楠元社長は展示会での取引先(バイヤー)の声、マーケットの情報を収集し、『モガではこれだけの受注を取った』『ラ・ブレアではこんな評判だった』 として、ブランド間の競争心を煽り、スタッフの営業マインドを刺激した。ブランド間の競争こそが成長の原動力と見たのである。

 他にも、あまりにビジネス重視の経営方針にデザイナーの反発を買ったことから、ブランドの陰で目立たないアシスタントたちにブランドデビューの機会(ファッションショー「第1回 東京主義」の開催)を与えている。ブランドは量産し過ぎれば飽きられ、少ないと儲からないことから、生産量のバランスを重視した。ファッション感覚は斬新すぎれば着る消費者が限られるため、表現面では一歩先より「半歩先」を徹底させた等々、その手腕には目を見張るものがある。

 今から30年以上前のスタイルだが、決して過去の遺物とは思えない。特に4つの手法は今でもアパレルの王道ではないだろうか。当時は業界紙誌の他に経済誌でも取り上げられ、業界人以外にも注目されていた。唐木新社長は筆者とほぼ同世代。ビギ全盛期は商社マンとして駆け出しの頃か。書店で立ち読みくらいしていれば、記憶のどこかに残ってるはずだ。

 その意味で、「ECに注力していく」なんて戦略を表明するようでは、当たり前過ぎて失笑ものというか、今どき小学生でも言えると突っ込みどころ満載である。まあ、ECごときでビギHDの経営が上向ことは、まずあり得ない。



 もちろん、ブランドデビューを夢見る新人や実績のあるデザイナーを企画の責任者に起用したからといって、簡単にメンズビギやメルローズの活性化できるはずもない。数年前にMade in Japanを打ち出したパパスやマドモアゼル ノンノとて、それで売上げが回復したかと言えば、ノーだろう。新社長にはアパレル経営の基本の基を押さえながら、経営者としていかにアレンジしていくかが求められるのである。

 バーバリーを失った三陽商会は、ワンブランドの売上げ比率があまりに大きすぎた。それに代わるポジションを狙ったクレストブリッジとて、ディレクターに三原康裕氏を起用したが、ブレイクできないままだ。バーバリー柄に代わる英国風のテキスタイル意匠を作ってブランド化を目指すようだが、ベースとなる生地があまりに安っぽくては、 デザイナーズアパレルとしても体を成さないし、ファン客は獲得できない。百貨店向けアパレルがなぜ不振に陥ったのか。その反省をまったく企画に生かせていないのである。

 社長が交替しても、ブランドの再生も活性化もできないアパレルはいくらでもある。だから、その反省からいかに新しい戦略構築の糸口を掴んでいくか。三井物産の力を借りれば、フランスやイタリアから生地調達も容易なはずだ。それらテコに企画デザインに注力するのも一つの方法である。今のマーケットにない新しいデザイナーズアパレルの創造は、決して不可能ではない。

 唐木新社長の業務経歴を見ると、今回も企業経営を軌道に乗せれば次の企業に移るように受け取れる。その時、就任した新社長に「前社長の経営スタイルを反面教師にする」なんて言われないようにしてほしい。ビギのDNAを生かせる経営が求められる。

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