HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

異業種参入の重み。

2019-06-19 06:50:32 | Weblog
 あの「はせがわ」がまた動き出す。子会社を通じてライフスタイルショップの運営に乗り出すもので、6月14日に東京自由が丘にオープンした店舗は、社名と同じ「田の実」。ショップは3層構造で、1階が日本の食をテーマに米と麹、発酵食品を中心とした食料品、料理を引き立てる食器や箸、花器などの売場、2階が米飯や季節野菜が味わえるランチ&カフェ、3階がワークショップなどが行えるフリースペースとなっている。https://senken.co.jp/posts/world-hasegawa-190612

 業態開発では、アパレルメーカーのワールドが自社の雑貨店ノウハウを提供した。仏壇・仏具のはせがわにとっては、品揃え計画から販促カレンダーの作成、MDサポート、什器やインテリアの制作、販売・在庫管理のデジタルプラットフォーム提供までで、支援をあおいだかたちだ。ただ、このコラムではワールドではなく、ライフスタイルショップの運営に乗り出す「はせがわ」について書くことにする。

 冒頭に「また」と書いたのは、はせがわが本業以外の事業を展開するのは、過去にもあったからだ。朝日新聞は6月11日付けのネット記事で、はせがわの新業態開発について「東京で飲食業進出へ、市場縮小にらみ」と、おざなりな見出しをつけた。だが、「仏壇仏具の販売だけでは厳しくなる」との危機感は、現在の長谷川裕一会長が社長時代に抱いており、今さら感じたことではない。

 はせがわの歴史は1929年(昭和5年)、創業者の長谷川才蔵氏が福岡県直方市に長谷川仏具店を開店したことに始まる。1960年代にはオリジナルの仏壇を制作し、76年には本社を福岡市博多区に移転。79年には関東にも進出し、イメージキャラクターの女の子が祈るように言う「お手てのしわとしわと合わせて、幸せ、南無〜」のCMコピーとともに、一躍全国ブランドに躍り出た。

 1985年、グラフィックデザイナーのサイトウマコト氏が「人骨」をモチーフにした同社のポスターを制作し、海外で広告賞を受賞した。人間の死後に生じる「供養」や「墓参」に向き合うビジネスだから安直な発想だったのか、それともクリエーターとして考え抜いた末なのか。どちらにせよ、広告賞とはせがわの知名度アップとは直接の因果関係はない。それよりも、人骨のポスターをプレゼンで受け入れた同社の度量の大きさが、別事業への進出も躊躇わなかった理由の一つではないかと思う。
 
 では、過去の多角化、新規事業を振り返ってみよう。昭和から平成にかけ、すっかり全国区となったはせがわに対し、同業他社やメーカーは対抗策を打ち出し、攻勢をかけていった。それまで仏壇仏具を販売していなかった「葬儀社」に商品を勧めするようになり、こちらが葬儀と合体で提供すると、同社は一気に販路を絶たれかけた。だが、上場企業であったため長期的には株主に還元しなければならず、どうしても利益を出す必要があった。

 そこで、はせがわが参入したのが「海外事業」である。同社は中国で材料調達などを行っていた関係から、アジアの経済成長を目の当たりにしていた。ならば、伸びているところに積極的に投資しようと打って出た。進出先はベトナムやミャンマーなどで、両国とも仏教国だったことから親和性を感じ、ビジネス人脈ももっていた。また、アジア開発銀行からの融資も受けることができた。これも追い風となった。



 ベトナムのホーチミン市で商業ビル「サザン・フォーチュン・ビル」をはじめとして、ホテル運営などのプロジェクトを開始。ビルでは欧米ブランドをリーシングした。ちょうど、筆者がニューヨークにいる頃で、米国でもアジア投資が熱をおびており、進出を呼びかける新聞記事を呼んだ記憶がある。

 ところが、1997年にアジア通貨危機が発生して地価が暴落し、為替が4分の1、5分の1に値下がりした。流石に同社もこれは予測できず、事業撤退を余儀なくされた。10プロジェクトのうち、6つから撤退。一番難しい中国も良い人材を得て早めに手を打つことができた。ベトナムについては手続きに時間がかかり、2000年以降にずれ込んだが、ホテル事業は04年までに撤退を終えるようにした。結果的に海外事業の損失は20億円にも上ったが、それによりはせがわの屋台骨がぐらついたかと言えば、そんなことはない。

 「投資した企業としては今でも当社が一番成功している」「それまで自分に賭け、自分自身に投資してきたが、博打は一切していない」「通貨危機という自分自身を超える力が働いた」「それよりもっと大きなものを得ることができた」。これらは海外事業について長谷川裕一前社長が自ら語った言葉で、筆者が何度か同社の仕事をした時、内容を書き留めていたものだ。

 はせがわが創業した1929年は世界恐慌の年。その影響は日本にも飛び火して昭和恐慌を引き起こしている。地元福岡では炭鉱閉山が相次いで、景気はどん底状態にあった。そんな危機的な状況で、同社は創業した。アジア通貨危機の影響も前向きにとらえ、脱皮するきっかけにしたと言っても過言ではない。

 2000年からは本業回帰のスローガンを掲げ、 仏壇・仏具に加え、墓石の製造・販売に集中した。もっとも、この時点ですでに売上げシェアの3分の2は関東エリアだった。マーケットとして非常に奥が深いと手応えを得る反面、九州のマーケットは日本の10分の1しかない。今から20年近く前に九州はやがて頭打ちになると予測したからこそ、関東への進出、全国ブランド化を進めたのである。

 仏壇・仏具、墓石だけでなく、次を考えていかなければならない。本業に邁進しながらも、決してそれに満足しない。異業種や別市場、顧客の声からビジネスのヒント、時代の変化を嗅ぎ取って来たのも、はせがわの真骨頂である。そして、海外事業を契機としての長谷川裕一前社長の意識が変わったことも大きい。

 権限を役職者を中心にしたスタッフに委譲し、事業本部制にしてトップダウンで行うようにした。組織は東京事業本部、西日本事業部、東海事業部の3つのブロックに分け、企業として伸びていく体制にリニューアル。こうして経営幹部が育ち、関連会社も機能していった。こうした下敷きがあったからこそ、今回のような東京エリアにおける新業態開発にも踏み込めたのである。


新市場開拓の狙いは以前から


 2002年頃、はせがわの仕事をしていて、長谷川前社長に聞いたことがある。

  筆者:「将来、お客さんとなる今の子どもたちにいかにお仏壇や供養に親しんでもらうか。それには仏教を神秘的なスピリチュアルなものととらえ、そこへの誘いから入ってもいいんじゃないですか

 長谷川前社長:「都会のマンションで暮らしていると、まずお仏壇はありません。なおさら、供養が身近に感じられることはないですよね。子どもたちには仏さまのおまじないとか、アクセサリー感覚のお念珠とか、お香によるアロマセラピーとか。そうした身近さからアプローチする業態も必要かと思います

 と、次世代にブランドを浸透させていく上で、長谷川前社長なりに新業態を考えていたようだ。2007年、ご自身は社長職を長谷川房生氏に譲り、代表取締役会長に就いた。そして、同社はマンション向けのモダン仏壇を揃えた「リビングスタイル」、祈りをキーワードにした「こころのアトリエ」と派生業態を開発した。

 リビングスタイルは全国のショッピングセンターとロードサイドに展開し、こころのアトリエは「モラージュ蒲生」と「トレッサ横浜」に出店。筆者の問いかけに対し長谷川前社長が語った答えは、「縁起もの飾り」「もりしお」「ミニだるま」などの商品開発で具現化され、こころのアトリエは「パワースポット」に位置付けられている。

 そして令和に入り、ライフスタイルショップにも参入する。ワールドから店舗運営のノウハウを受けるのは、おそらく多店舗化を意識してのことだと思う。従来の仏壇・仏具、墓石の製造・販売は少売でも荒利益が高いので、それなりにマンパワーをかけることができ、それが社員の育成にも貢献してきた。こころのアトリエでは、低価格商品の販売に踏み込んだとは言え、ライフスタイルショップは全くの異次元であるため、そう簡単にはいかないだろう。

 家具店のバルスが開発した雑貨業態も、「和」「エスニック」「洋」とあったが、結局軌道に乗って今日まで継続されているのは洋の「フランフラン」だけだ。しかも、はせがわは流行廃りが激しい飲食ビジネスにも参入する。食材の販売だけならまだしも、料理メニューを出すにはクリエイティビティや市場ニーズの研究なども欠かせない。



 東京・自由ヶ丘では、かつてアパレルのキャビンが「ザ・セノゾイック」というアジア雑貨のカフェ併設店を出店していた。筆者もここではパスタや魚用の皿を購入した。しかし、キャビンがファーストリテイリング傘下となり、 同業態はアンラシーネなどのブランドと統廃合された影響で閉店した。2000年代初頭はアジア雑貨がトレンドだったために人気を集めたが、流行が去り客足が遠のいたことも要因だと思う。

 田の実は、そうした嗜好の変化がもろ集客に出る自由ヶ丘に出店した。店づくりから商品政策、販売戦略、人材教育までを組み立て、何店舗を展開すれば、収益を最適化できるのか。売上げが低くても、利益を生み出すストアモデルの確立が不可欠だ。ワールドの雑貨店ノウハウと言っても、これまで展開したのはジ・エンポリウムやイッツデモ。基本MDはチープな商品の開発輸入にメーカー仕入れを加えたもの。それらをショップコンセプトに合わせて編集したに過ぎない。しかも、ジ・エンポリウムは、2017年にブランドを休止している。

 今回の「販売・在庫管理のデジタルプラットフォーム」とは、「生活者のリアルな動態データを把握し、店舗への効果的な来訪誘導による広告費用対効果の最大化を目指すもの」とか。ワールドとしては、田の実を自らが起死回生するためのIT戦略の試金石にするつもりなのか。再建途上にある同社のノウハウで、はせがわが雑貨の新たなマーケットが切り開けるか。多少の不安はある。

 東京には目と舌の超えたお客が数多くいる。食器や箸、花器などの雑貨、米と麹、発酵食品を中心とした料理とデジタルプラットフォームを合体して集客できるかは未知数。ただ、筆者の地元、福岡発祥の企業だし、仕事をした縁もあるので、頑張ってほしいと願う。関東で成功すれば、福岡への逆上陸もありうる。10月の東京出張の時、機会があれば寄って見て、じっくり目と舌で確かめたいと思う。

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