狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

"集団自決"のチビチリガマ 初めて生存者が不在の慰霊祭(沖縄テレビ)2023/4/3

2023-04-04 16:02:08 | 資料保管庫

 

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読者の皆様へ

3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。

八月や六日九日十五日詠み人多数。

米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。

 

 

"集団自決"のチビチリガマ 初めて生存者が不在の慰霊祭(沖縄テレビ)2023/4/3

78年前の沖縄戦で、住民の強制集団死いわゆる集団自決が起きた読谷村のチビチリガマで慰霊祭が行われました。 戦争体験者の高齢化が進み生存者が参加できない初めての慰霊祭となりました。 1945年4月1日、読谷村にアメリカ軍が上陸し、チビチリガマでは翌2日に追い詰められた住民たちの間でいわゆる「集団自決」が起き、80人あまりの尊い命が失われました。 慰霊祭はこの日にあわせて毎年行われていますが、遺族会によりますと戦争体験者の高齢化が進む中で今回初めて集団自決を生き延びた人が参加できませんでした。 ▽チビチリガマ遺族会・與那覇徳雄会長 「沖縄戦を体験されたでももう語る事が難しくなっていますので。もう二度とチビチリガマの悲劇を起こさないという思いは皆さん強く思っていますので、みんなでこのガマを守る。それが私たちの今の使命だと思っています」 今回は4年ぶりに一般の参加者を受け入れ、手を合わせる若い世代の姿もありました。 ▽チビチリガマ遺族会・與那覇徳雄会長 「しっかりと学んで、命の大切さを考えて帰ってもらいたいと思っています」 参加者は二度と悲劇を繰り返さないために沖縄戦の実相を次の世代につないでいくことを誓っていました。

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メモ007■『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくり上げられた

2023-04-04 04:26:51 | 資料保管庫

 

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メモ007

 

 

■『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくり上げられた

 巷間言い伝えられている「神話」によると、『鉄の暴風』は、沖縄タイムスにより企画執筆されたというものだが、著者太田記者の取材姿勢から判断し、実際は在沖米軍の指令で発刊されたとされていた。筆者も「米軍が企画し沖縄タイムスが編著した『鉄の暴風』」という論調で書いてきた。

しかし、これまでの検証により『鉄の暴風』は、在沖米軍政府の手に余る企画であり、出版権限や出版資金の両面からも、在沖米軍政府を管轄するGHQの介在が大きく影響していた。

次にその根拠を示し、結論を出しておこう。

■結論ー『鉄の暴風』はGHQの指令と支援で発行された

沖縄タイムス社の見解(沖縄の証言-沖縄タイムス刊)


 豊平良顕、座安盛徳氏らが沖縄戦記編纂のプランを立てたのが1949年5月、三ヶ月で資料を収集し、三ヶ月で編集したということになっている。
 (新聞五十年 380頁には五月にプラン、11月に脱稿とあり)

疑問

 月刊タイムスを発行するための紙ですら米軍政府の目を誤魔化しながら工面していた時代に、新聞社が独断で売れるかどうか分からない単行本の発刊に取り組むものだろうか?⇒不可能

 

 紙面や初期の月刊タイムスが手書きで、活字自体が無い時代に社をあげて取り組むというリスクはかなり大きい。(資金力が無かった)創刊間もない新聞社が取り組めるのか?⇒不可能

 

 米軍政府による事実上の検閲が厳しいなかで、独断で企画したというのであれば、出版許可が下りるという保証は無はあるか?⇒

 

 紙上の連載がなかった『鉄の暴風』が検閲を受けるのは脱稿して翻訳した後だが、400数十頁の分量になる原稿に投じる余裕があったのか?⇒

 

 当時の新聞は2頁立て、月間購読料が30円(新聞のつぶれる日)の時代に、『鉄の暴風』一冊200円売りの本を1万冊、(朝日新聞社と2万冊)売値で200万円となるが、この資金調達のめどがどうして立ったのか?(株主も居ないのに)⇒不可能

 

 脱稿し、英訳はしてはあるが、シーツ長官の出版許可が下りていないものを、朝日新聞社に発行を依頼する権限があったのか?⇒

 

 当時、売れている本ですら2千冊の時代に2万冊の発行を契約出来るのか?(権限・財力)⇒

 

出版を持ち込んだ朝日新聞からは「出版パニックで今頃戦記ものは駄目ですよ」と剣もほろろに断られるが、一週間もたって座安の宿舎には朝日新聞社からじゃんじゃん電話が入ってきた。行ってみれば前回とは違って今度は下へも置かぬ丁寧な対応で、出版しましょうと豹変する。GHQから強い指令があったと推測される

時系列

日付 内容

1948年6月28日

ハウトン大尉(情報部長)が川平朝申の留守中に座安等を呼びその場で沖縄タイムスの発行を許可、目的はうるま新報に対抗させる為(新聞五十年 363頁)。とあるが本当は、うるまの社長に就任した瀬長亀次郎が米軍政府にたてつくようになってしまったからである。

同日

 うるま新報には知らせず、ドル交換の特報を教える。

 

 6月29日 

正式に新聞が発行される前に異例の号外を出す。

1948年7月1日

 沖縄タイムス発行

1949年X月~5月

 『鉄の暴風』のプランを立てる

 

  同年 6月~8月

聞きとり等により資料収集

 同年 7月

ゼネレーター事件(タイムス以外の新聞社が検挙される)

 同年 7月23日

グロリア台風

  

X日

 台風により保管してあった大量の紙が濡れたという理由で沖縄タイムスにのみ格安(無料)でその紙が提供する

 

  同年 9月~11月

編集及び監修、翻訳

 

 同年 10月 

シーツ長官着任

同年 12月

 翻訳済み

 1950年3月29日

有村海運の船にて上京(新沖縄民報の空路は間違い)

 

 同年 5月2日 

マッカーサー総司令官と会見

 同年 5月6日

沖縄タイムス紙に上記内容を掲載

 

  同年 5月X日

米軍政府内が騒然となる、『座安は何を告げ口したのか』

 

 同年 5月26日 

皇居にあがり、陛下にお目通り。皇族と食事などする。

 不明

沖縄に到着 (座安と行き帰りが一緒だった琉球政府公衆衛生部長大宜見朝計氏が6月2日(金)には、県の方針を発表している)

 同年 6月15日

シーツ長官 『鉄の暴風』の発行を許可する。

 同年 7月27日

(記事) シーツ更迭(離任)

 

  同年 8月15日

『鉄の暴風』県内にて販売開始

疑問を時系列に照らし合わせると、こう推測できる。

推測できること その理由
  ① 鉄の暴風はGHQの指示による(米軍政府ではない)
  1. 米軍政府が企画したのであれば、朝日新聞社に印刷製本を依頼しに上京する前にシーツ長官の許可は下りていなければならない
  2. シーツ長官が許可もしていない時に座安は、朝日新聞社と契約し、沖縄に帰ってしまっている。(東京に同行した大宜味朝計氏は6月2日には県職員と会議をしている。)
  3. 『鉄の暴風』の印刷製本及び印刷機材の購入の財源は当時の琉球銀行では調達できない。(戦後琉球経済史)
  4. 当時マッカーサーと会見できるのは、天皇陛下と総理大臣といわれていた。創立間もない地方新聞社のいち役員が希望したからといって会えはしない
  5. 総司令官にお目通りがかなうとすれば、同司令官の右腕といわれていたウイロビー少将(情報局長)の口利き以外にあり得ない
  6. ハウトン大尉(沖縄軍政府情報部長)はウイロビーの直属の部下だった。
  7. 沖縄ではMPよりCICの方が強い権限があった。(新聞のつぶれる日)
  8. マッカーサーはフィリピンと沖縄までも管轄した
  9. 『鉄の暴風』の初版を2万冊にした根拠はWGIP(War Guilt Infomation Program)を行った2冊の本のうち、市販のみで発行した本が2万冊だったから。
  10. 月刊タイムス 1950年1月号に『鉄の暴風』の編纂を『承った』と豊平良顕が明記している。
  11. 座安を上京させたのが米軍政府ならば、座安がどのような立場でマッーサーに会ったのかタイムスに聞く必要はない。
 集団自決を冒頭に掲載したのは、GHQ情報局の指示
  1. 米軍は先の大戦の前に中国大陸の植民地化の拠点に沖縄の基地化を計画しており、そのため県民と日本軍を離反させるために心理作戦を昭和16年から練っていた。
  2. 沖縄戦中にまかれた心理作戦用のビラは23種類で600万枚から800万枚といわれている。(紙爆弾)
  3. 投降勧告に住民を仕向けたのは、戦後実行される心理作戦の題材にするためだった。
  4. 勧告に行けば、殺されると確信し、嫌がる住民を無理やり仕向けた。
  5. 投降勧告は、正式に軍人が軍使となるべきで、その軍使の保障は国際法で重んじるように規定されていた。
  6. 沖縄戦で、最後まで降服せず、住民とともに居たのは赤松隊だった。
  7. 梅澤少佐が慰安婦と不明の死を遂げたとした誤報は、重症を負い、エイコという慰安婦と爆死した森井芳彦少尉の階級章を見間違えたのではないかと推測される。
  8. 渡嘉敷島の上陸の日にちが26日になっているのは米国時間か米国のカレンダーによる記述が出典となっているからではないかと推測される。
 発行と印刷機材の資金はGHQが担保した  戦後沖縄経済史 琉球銀行調査部編をみると当時流通していたお金は2000万円ほど、4000万円は凍結させられていた。
 戦後の救済事業だったマーシャルプランがその財源かもしれない。

 2008年4月号「諸君」に掲載された鴨野 守氏よる中松竹雄氏(70歳)の証言

豊平良顕氏の息子と同級生でもあったのでよく家に出入りし、豊平氏の話を何度も聞いた間柄だった。豊平氏はおしゃべりで、戦後期における米軍とのやりとりの裏話を語っていたという。そして中松氏は、高校生の時、出来上がった『鉄の暴風』を一冊もらった。好奇心の強かった中松氏に、豊平氏は次のように語ったそうである。
「沖縄タイムスは、米軍から新聞発行のための紙の配給を受けている。それで米軍から、「こういう記事を書け」という指示が来る。そうしないと紙の配給がストップし、新聞が出せなくなる。その米軍の指示通りに書いたのが『鉄の暴風』である。・・・

沖縄の集団自決問題は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』に端を発する。著者の太田良博記者は、那覇から目と鼻の先の慶良間諸島には一度も取材に行かず、伝聞と噂を物語風に書いたのが『鉄の暴風』である。

問題はその伝聞記事を根拠にノーベル賞作家大江健三郎が自著『沖縄ノート』で、名指しこそしていないが、赤松嘉次、梅澤裕両隊長を島民に自決命令を下した極悪人であるかのように描き、両隊長の名誉を著しく棄損した。

そこで梅澤氏と赤松氏の実弟が大江氏らを相手に大江岩波訴訟を提訴したが、軍命の立証は出来ぬまま、大江氏らの名誉棄損は免責され、残念ながら大江氏ら被告の勝訴が確定した。

■「軍命」に対する反証は悪魔の証明

裁判で争われた「軍命の有無」に関し、挙証責任のあるのは「軍命はある」という被告大江岩波側である。

「軍命は無かった」という証明は、原告側にとっては立証は不可能である。「悪魔の証明」と言われる通り、反証は不可能である。

ちなみに曽野綾子氏の現地聞き取り調査では「軍命があった」という証言は一件もなかった。地元の作家星雅彦氏の現地調査でも「軍命があった」という証言は聞いていなかった。

■沖縄戦での米軍のジェノサイド(民間人虐殺)

集団自決における「軍命の有無」を論じる前に、ここで従来の沖縄戦史ではあまり取り上げられなかった米軍の民間人虐殺を検証して見よう。

 

世界史をひも解くと、人類の歴史はつまるところ、戦争の歴史である。

そこで、戦争のやり方を国際的ルール(戦時国際法)の制約の下におこうとする知恵が生まれた。 1907年にオランダで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表である。

戦時国際法では、戦闘員(軍人)同志の戦闘を戦争と規定する。したがって戦闘員(軍人)以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止された。

一方、大東亜戦争末期には、アメリカが東京大空襲をはじめ多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下して多数の民間人を無差別に殺戮した。ひるがえって沖縄戦では米軍の無差別殺戮は無かったのか。

東京大空襲の前年の1944年10月10日、東京大空襲の前哨戦として那覇空襲が行われ、翌年の3月末、慶良間諸島住民に対し艦砲爆撃による無差別殺戮が行われた。これまで語られなかった米軍による民間人虐殺である。

敗戦後行われた東京裁判では、原爆を落としたアメリカが裁判を主導しており、当初から国際裁裁判としての違法性が指摘されていた。

被告日本側の弁護人で米軍属のブレークニー弁護士が、アメリカの原子爆弾投下を住民虐殺の戦争犯罪としてとりあげたことは有名である。

東京裁判の罪状を要約すれば次ぎの三つに分類できる。

➀平和に対する罪(A級犯罪)
東京裁判やドイツのニュルンベルク裁判のために制定した「事後法」なのではないかという批判も根強く存在する。

②(通例の)戦争犯罪(B級犯罪)

③人道に対する罪(C級犯罪)
人道に対する罪とは、一般市民に対して殺害や絶滅、拷問などの危害を加えた者に対する犯罪を指す。

本書は東京裁判の違法性の追求が目的ではないので、沖縄戦における米軍の民間人虐殺に関連する「③人道に対する罪」を重点的に検証する。

■東京裁判で断罪された「民間人虐殺」

戦後の日本社会では、特に教育や新聞等マスコミの分野が、国際法に無知で、国際法を無視した平和主義が横行した。 その結果「戦争はすべて悪」とする戦争観がまかり通っている。

しかし、国際法においては、第二次世界大戦当時に至るまで、戦争は合法的な制度であるとされてきた。つまり、国家には基本権のひとつとして戦争権があり、戦争権には「開戦権」と「交戦権」「降伏権」も認められていた。 国家は戦争権の一部である開戦権を行使して、相手国との間に「戦争状態」を創出することができ、こうして国家は交戦国となり、交戦国には、国際法によって「交戦権」が認められた。

国家は交戦権により、平時には認められない敵国兵力への攻撃・殺傷、軍事目標や防守地域への攻撃・破壊、敵国領域への侵入・占領などを合法的に遂行できる権利を得た。その一方で、留意すべきは「国家は戦争遂行にあたり、交戦法規を遵守しなければならない」ということである。

■ 交戦法規の具体的な内容

交戦法規の中で最も重要なものとして、以下の4つが挙げられる。

第一に、一般住民ないし非戦闘員たる民間人を殺傷してはならない(戦争は、あくまでも軍隊と軍隊の戦いである)。

第二に、軍事目標以外の民間物を攻撃、破壊してはならない。第三に、不必要に
残虐な兵器を使用してはならない。そして第四に、捕虜を虐待してはならない、
というもの。

■「10・10空襲」 沖縄戦は米軍のジェノサイドで幕を開けた

沖縄戦で一般住民の戦没者は約94000人を数え、日本軍の戦没者(軍人)にほぼ匹敵する。この冷厳な数字が示す沖縄戦の真実は、米軍の無差攻撃による民間人虐殺である。沖縄戦は1944年10月10日、米軍の無差別空爆という「那覇空襲」のジェノサイドの幕を開けた。

「沖縄戦は米軍によるジェノサイド」という視点こそ、『鉄の暴風』が謳う「人道的な米軍」というイデオロギーを真っ向から否定する沖縄戦の真相である。

 

第二次世界大戦で史上最大の作戦と言えば、ノルマンディ上陸作戦が知られているが、ノルマンディ作戦以上の最大・最強の米軍が沖縄戦、特に沖縄本島から離れた慶良間諸島に上陸した事実は余り知られていない。

慶良間島の島民が山から見ると、海が黒く見える程大量の米軍艦が島を取り囲んだ。逃げ場を失って右往左往する島民に米軍は容赦なく艦砲射撃で攻撃した。民間人に対する無差別攻撃は『鉄の暴風』そのものである。これは、米軍によるジェノサイド以外の何物でもない。

しかも米軍が上陸開始した座間味島、渡嘉敷両島の「守備隊」と言われる軍は小人数の特攻隊であり、使用する特攻機ははベニヤ板で作った○レという特攻艇であった。 したがって、守備のための軍備は旧式の銃と手りゅう弾程度の軽装備であり、島を取り囲んだ大規模の量の米軍艦隊に対抗するにはあまりにも少人数かつ軽装備で、なす術を持たなかった。 慶良間島を囲んだ米軍による無差別攻撃は、民間人の虐殺に相当し国際法に違反する蛮行であり、人道上も到底容認できない。

■戦後77年目、渡嘉敷ビーチで不発弾発見 

本書執筆中の7月23日付沖縄タイムスは、「阿波連ビーチ 不発弾発見か 今日自衛隊確認」という見出しで、渡嘉敷島の阿波ビーチで不発弾が発見されたと報じた。渡嘉敷島では米軍の艦砲射撃による民間人虐殺が行われ、米軍によるジェノサイドの痕跡が戦後77年経過して発見された。 これは、無差別攻撃の犠牲になった島民の霊が、米軍の戦争犯罪の物的証拠を突き付けたのだろうか。

■ピューリッツァー賞受の米従軍記者が証明するジェノサイド

ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、ピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している。実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた。

■『鉄の暴風』に描かれた米軍のジェノサイド

1950年発行の『鉄の暴風 沖縄戦記』初版の「まえがき」には、こう述べられている。

「ここに、米軍上陸から、日本軍守備隊が潰滅し去るまでの、住民側から見た、沖縄戦の全般的な様相を書いてみた。(中略)

最高度の破壊的化学兵器による立体戦、しかも前線も銃後もなかった沖縄戦は、残酷な近代戦が、もっとも圧縮されたかたちにおいて行われた唯一の実例である」。

『鉄の暴風』の初版の「まえがき」には米軍による民間人虐殺(ジェノサイド)が、生々しく描写されている。

重要な一次資料になるので、長いが関連部分を引用しておく。

 

まえがき

(略)

それに、逃げ場のない幾十万の住民が、右往左往して、いたずらに砲爆弾の犠牲となり、食に飢え、人間悲劇の極致を展開した。沖縄には、自然の洞窟が、いたる処にあつた。また、直ちに掩蔽壕になりうる堅固な墓があつた。住民は、洞窟から洞窟へ、墓から墓へ、わずかな荷物を抱えて、死の彷徨をつゞけた。あるいは、一族が、先祖の墓の中で死を待ち、あるいは、一つの洞窟の中に、何百の老幼男女が、押しこまれて、陰惨な生活をつゞけた。砲爆撃のあい間をみては、食を、水を、漁りに、穴を匍い出して、負傷したり、死んだりするものが続出した。

沖縄戦が終了したとき、ことに激戦地たる、沖縄島の、中南部は一木一草もとゞめぬほど、赤ちやけた地肌を表わしていた。そして、辛うじて死をまぬがれた人々は、極度の緊張と、営養失調と、不自然な壕生活のために、生きた人間の姿とは、思えないほどだつた。それは、人間の体力を維持するには、余りに無理な、ながい疲労と、不潔と、暗黒の生活だつた。死ぬことを教えられて、しかもたえず、死の恐怖に戦慄しつゝ、生を求めつづけようとした人間の、最悪のあがきであつた。こゝに、どたん場までおい詰められた人間の、いろ〱な姿がある。こゝに真実の物語がある。

もちろん、われ〱は、日本軍国主義の侵略戦の犠牲となつたが、われ〱がいわんとするものは、もつと、深いところにある。

 

上記引用の描写は米軍の無差別艦砲射撃で逃げ惑う民間人の虐殺の場面だ。さらに、「まえがき」は、『鉄の暴風』の出版の目的を赤裸々に綴るが、先ず全体を貫く「日本軍憎悪」の論調は「もちろん、われわれは、日本軍国主義の侵略戦の犠牲となつた」という文言で表現されている。

■米軍占領の開始―3月26日のニミッツ布告

 1945(昭和20)年3月26日、慶良間(けらま)諸島に上陸した米軍は、ニミッツ布告を発し、日本帝国政府のすべての行政権を停止して、南西諸島を米国海軍軍政府の管轄下におくことを宣言した。

3月26日は、米軍の無差別攻撃でパニックに陥って集団自決を行った日である。自分が統治下に置いた島民を無差別攻撃した米軍の艦砲射撃は民間人殺戮を禁止したハーグ条約違反である。

ニミッツ布告以来、沖縄は日本から政治的に切り離され、1972(昭和47)年5月15日の日本復帰までの27年間、本土と異なる戦後の歴史を歩むことになった。
 1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は読谷(ヨミタン)村比謝に米国海軍の軍政府をおき、南西諸島の軍事支配を本格的に開始することになる。

■10・10那覇空襲、米軍の民間人虐殺
 
沖縄戦における1944年の10・10空襲は、米軍による民間人虐殺であり、翌年の3月10日東京大空襲、さらに8月の広島、長崎への原爆投下という民間人大虐殺(ジェノサイド)に繋がっていく。
 
2022年6月19日付沖縄タイムスで、沖縄戦の体験者玉寄氏(85)が、ロシアのウクライナ民間人虐殺と自分の戦争体験を重ね「嵐のような艦砲射撃と機銃掃射にさらされた。避難のために一緒に歩く人たちが米軍艦からの砲撃で一人、また一人と倒れていった」と証言した。玉寄氏の体験は、米軍による民間人虐殺の何よりの証拠である。
 
沖縄戦で米軍による民間人の虐殺は各地で生じた。最も被害の大きかったのは那覇市で、11日まで続いた無差別空爆の火災により当時の市内市街地のうち9割が焼失し、死者は255名にのぼった。本島全体では330人が死亡し、455人が負傷している。
本島で全損となった家屋は11,451戸(うち那覇11,010戸)、半壊62戸であった。
宮古島でも民家13軒が半焼している。沖縄県の鉄道は機関車4両・ガソリンカー4両・客車6両などが中破以上の損害を受けた。民間自動車は7割の94両が破壊された。
 
■日本政府が米軍のジェノサイドを抗議
 
日本政府は、同年12月、非軍事目標である市街地を攻撃したことが戦争犯罪に該当するとして、中立国のスペイン政府を通じた外交ルートでアメリカ政府に正式抗議した。しかし、アメリカ側は、従来の自国の解釈からすれば戦争犯罪に該当するとしつつ、それを認めると捕虜になったパイロットが訴追される危険があることや、被害実態が日本側主張通りか明らかでないことを考慮し、この抗議を黙殺した。
 
 
■沖縄メディアが日本政府の抗議を黙殺する理由
 
沖縄メディアが、10・10那覇空襲の米軍によるジェノサイドを日本政府が抗議した事実を隠蔽し、現在もこの事実に触れることはない。
 
理由は何か。
 
『鉄の暴風』が「人道的な米軍」「残虐非道な日本軍」というイデオロギーに立脚して描かれているからだ。つまり、沖縄戦で日本軍と米軍を評価するときのバイブルが『鉄の暴風』であり、沖縄における米軍の民間人虐殺は沖縄タイムスに取って不都合な事実ということになる。
 
沖縄戦を論じる場合「全国唯一の地上戦(実際は北海道の占守島の戦いなどがある)」を強調するため、1945年の3月末米軍が慶良間諸島に上陸した時を、あたかも沖縄戦の始めのように強調する。
 

1945年3月末、慶良間列島を軍艦で取り囲んだ米軍は抵抗力を持たづ逃げまどう民間人に雨あられと艦砲射撃で攻撃した。まさに『鉄の暴風』と呼ばれるジェノサイドであった。

戦争にもルールがある。

国際法のひとつである戦時国際法は、戦争状態であってもあらゆる軍事組織が遵守すべき義務を明文化したものだ。

米軍が1944年10月10日に那覇市を空爆したことは、紛れもなく「民間人への攻撃禁止」に相当するハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約違反である。

 

 

■再刊行第2版が語る『鉄の暴風』の正体

朝日新聞社刊行の初版『鉄の暴風』と沖縄タイムス社刊行の第2版の、両者の「まえがき」を比較すると極めて興味深いことが分る。まずは沖縄タイムス刊の第2版の「再刊行について」の全文を引用しよう。

再刊行について

二十年が、あっというまに経過した。正しくは二十五年だが、この戦記(否沖縄人にとって受難の記録)を上してもはや二十年である。

今年は安保七〇年である。そして沖縄返還を具体化するために日米共同声明の公表後幾月がたった。

ところが、わたくしたちは、佐藤首相のいう「沖縄の戦後」が終わったとは少しも考えたくない。そして、一方では、権力の手で再び日本再軍備強化の気配さえおぼえる、きょうこの頃である。

沖縄人が「反戦・平和」を叫ぶ真の理由は、ここにある。当時、沖縄にあって戦乱のルツボに叩きこまれた人たち約四〇万の非戦闘員たちのうち、辛うじて生き残った人たちは、百万といわれる沖縄の現人口の何割かを占めるほどの寥々たるありさまである。戦後の若い世代は勿論、二十年の歳月は、沖縄人が陥ったあの狂乱怒涛時代を知らぬ人たちとの間には一種の断絶さえつくろうとしている。七十二年復帰を控えて、あえてこの記録を再上梓するゆえんである。

旧「鉄の暴風」は内容を一切元のまま、むしろ復刻の形で再び世に問うたわけだが多少、一部の章句を訂正した。(牧港篤三)

引用:鉄の暴風 – 沖縄戦記、1970年6月20日第2版沖縄タイムス発行

上記の引用から第2版の発行目的が明確だが、注目すべきは「むしろ復刻の形で再び世に問うわけだが多少、一部の章句を訂正した。」と書かれた部分だ。それは初版と第2版を比較すると明白なので、その訂正した部分を引用し、初版と第2版を比較すると初版と第2版との目的の違いよく分かる。

■初版の「まえがき」から削除された文言

以下は『鉄の暴風』初版のまえがき。

まえがき

こゝに、米軍上陸から、日本軍守備隊が壊滅し去るまでの、住民側から見た、沖縄戦の全般的な様相を、描いてみた。生存者の体験を通じて、可及的に正確な資料を蒐集し、執筆し、書きおろし戦争記録として、読者諸賢におおくりするものである。

軍の作戦上の動きを捉えるのがこの記録の目的ではない、飽くまで、住民の動きに重点をおき、沖縄住民が、この戦争において、いかに苦しんだか、また、戦争がもたらしたものは、何であつたかを、有りのまゝに、うつたえたいのである。このことは、いかなる戦場にもなかつたことであるし、いかなる戦記にも書かれなかつたことである。

最高度の破壊的科学兵器による立体戦、しかも、前線も銃後もなかつた沖縄戦は、残酷な近代戦が、最も圧縮されたかたちにおいて行われた、唯一の実例である。陸、海、空の立体陣を布いた攻撃軍の前に、日本軍守備隊が、地下戦術で終始した、この戦闘では、一方は、質量ともに圧倒的な化学兵器の破壊力に自信をもち、他方は、自然洞窟豪の堅牢さに信頼をかけて、物量の限界を見とゞけようと、空しい期待に一縷の望みを託するだけだつた。

それに、逃げ場のない幾十万の住民が、右往左往して、いたずらに砲爆弾の犠牲となり、食に飢え、人間悲劇の極致を展開した。沖縄には、自然の洞窟が、いたる処にあつた。また、直ちに掩蔽壕になりうる堅固な墓があつた。住民は、洞窟から洞窟へ、墓から墓へ、わずかな荷物を抱えて、死の彷徨をつゞけた。あるいは、一族が、先祖の墓の中で死を待ち、あるいは、一つの洞窟の中に、何百の老幼男女が、押しこまれて、陰惨な生活をつゞけた。砲爆撃のあい間をみては、食を、水を、漁りに、穴を匍い出して、負傷したり、死んだりするものが続出した。

沖縄戦が終了したとき、ことに激戦地たる、沖縄島の、中南部は一木一草もとゞめぬほど、赤ちやけた地肌を表わしていた。そして、辛うじて死をまぬがれた人々は、極度の緊張と、営養失調と、不自然な壕生活のために、生きた人間の姿とは、思えないほどだつた。それは、人間の体力を維持するには、余りに無理な、ながい疲労と、不潔と、暗黒の生活だつた。死ぬことを教えられて、しかもたえず、死の恐怖に戦慄しつゝ、生を求めつづけようとした人間の、最悪のあがきであつた。こゝに、どたん場までおい詰められた人間の、いろ〱な姿がある。こゝに真実の物語がある。

もちろん、われ〱は、日本軍国主義の侵略戦の犠牲となつたが、われ〱がいわんとするものは、もつと、深いところにある。

『民族を超えた、人間としての理解と友情。』われ〱は、それを悲願し、永遠の平和を冀求する。さらに、われ〱沖縄人としては、すぎ去つた『悪夢のような戦争』を、忘れることなく、もう一度、当時を顧みて、一つの猛省の機とし、併せて、次代への新らしい発展を期する資料となし、後世に傳えて、再びあの愚をくりかえさぬよう熟願したい。

幸か、不幸か、当時一縣一紙の新聞紙として、総ゆる戦争の困苦と戦いながら、壕中で新聞発行の使命に生きた、旧沖縄新報社全社員は、戦場にあつて、つぶさに目撃体験した、苛烈な戦争の実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感し、ついに、終戦四年目の、一九四九年五月、本書編纂を、旧沖縄新報社編集局長、現沖縄タイムス社理事豊平良顕【監修】、現沖縄タイムス社記者伊佐良博【執筆】、旧沖縄新報社記者、現沖縄タイムス社記者牧港篤三【執筆】、の三名に托し、一年を経て、上梓の運びに至つた。前述のごとく、この記録は、軍の作戦上の動きを捉えるのが目的ではなく、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点をおいたという点、他に類がなく、独自な性格をもつゆえんである。なおこの動乱を通じ、われ〱沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであつた。国境と民族を超えた彼らの人類愛によつて、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏みだすことができたことを、特筆しておきたい。

1950年7月1日 – 沖縄タイムス社しるす

 

 

■『鉄の暴風』の初版は、米軍の出版許可が不可欠だった

上記の引用から明白に分かる事実は、初版の”まえがき”の最後の太字の部分が第2版から削除されていること。

削除の理由は、敵国の米軍を「高いヒューマニズム」や「人類愛」などとあまりにもあからさまに褒め上げてしまっては、『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダとして書かれた事実がバレると懸念したのだろう。

しかし、いくら沖縄タイムスが隠蔽を企てようとも、『鉄の暴風』が意図する「人類愛に満ちた米軍」と「残虐非道な日本軍」という米軍に媚る表現は必要不可欠だった。 初版の当時は、米軍の検閲(ニミッツ布告)を通らないと出版は許可されなかったからだ。

第二版が「米軍を忖度」する記述を削除した理由は他にもある。

つまり初版当時は沖縄戦の悲劇を語るにも”米軍への忖度”が無ければ、出版は許可されなかったことを暗示しているが、第2版が出版された1970年6月20日、はすでに初版後20年も経過しており、今さら米軍に「高いヒューマニズム」などと忖度する必要がなくなっていた。

噛み砕いて説明しよう。朝日新聞は沖縄タイムスが持ち込んだ『鉄の暴風』の出版を当初「戦記物は売れ無い」という理由で発刊を辞退した。ところが沖縄タイムスの座安専務がマッカーサーに依頼したら朝日は掌返しで出版を承諾し、初版は朝日新聞で刊行された。 マッカーサーから朝日の直接出版の指示があったので、朝日は米軍への忖度をした「まえがき」をそのまま忸怩たる思いで掲載した。

この事実は初版と第2版の発行目的が明らかに違うことを意味している

『鉄の暴風』の「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの後の国映館(洋画専門館)の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。

当時全沖縄の情報を押さえていた米軍の協力があったからこそ、三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書きあげることができたという太田氏の話も納得できる。

このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍が「残虐非道」であることを沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 

当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な言論統制の下にあり、『鉄の暴風』の初版本の原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を受けていた。

 ■『鉄の暴風』、シーツ軍司令官が出版拒否。

英語に翻訳された『鉄の暴風』の原稿は、先ず当時の沖縄の最高責任者シーツ米軍沖縄司令官の元へ出版許可のため提出された。

ところがシーツ司令官は原稿の内容に興味を示したが、何故か出版を拒否した。米軍のことを「ヒューマニズム溢れる」などと賛美し、日本軍のことを「沖縄住民に集団自決を命ずる残虐非道な日本兵」と罵声を浴びせる『鉄の暴風』は、沖縄と日本の分断を目論む米軍の意図に沿った内容であり、米軍当局が出版を推奨はしても出版拒否など考えられないことだった。

これに加えて今回、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍と沖縄タイムスの関係について語っている記述を発見した。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう。

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも公表だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らかである。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

『鉄の暴風』の執筆にあたり、戦前からのベテラン記者である共著者の牧港篤三記者は、元々戦記には造詣が深かったが、当時可能な限りの戦記を取り寄せ執筆に備えたという。一方、元々作家希望だった太田良博はトルストイの文学作品を読んでいたというが、それが「戦争と平和」と牧港記者は言っている。

■苦しかった執筆条件

《苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした》(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は『鉄の暴風』の性格を知る上で興味深いものがある。 太田は、後の作家曽野綾子との対談で、『鉄の暴風』は名前も思い出せない人物の噂話を検証見せず記した、と語っている。

牧港記者の回想は続く。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

2005年に提訴された「大江岩波訴訟」「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれ裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、『鉄の暴風』が書かれた昭和24年当時、米軍の広報紙の沖縄タイムスが、沖縄戦記を書くには米軍の意向に沿った噂で書くのもやむえなかった。そのような時代背景の歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるという逆説だ。

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 

■シーツ善政

ジョセフ・ロバート・シーツ(Josef Robert Sheetz、1895年11月20日 - 1992年1月28日[1])は、1939年から1941年までアメリカ陸軍指揮幕僚大学で教鞭を取り、太平洋戦争が勃発した1941年、陸軍省副参謀長に転任した。1944年には陸軍准将・第二十四軍団砲兵指揮官となり、1945年には沖縄戦の戦場に赴き、この部隊を指揮した。

終戦後は1949年10月、ウィリアム・イーグルスの後任として琉球軍司令官・琉球列島米国軍政府の軍政長官に就任した。

シーツは終戦後4年を経てなお経済・治安の混乱が続き、米軍の軍規も乱れていた沖縄において、経済復興、政治体制の確立、治安改善などの復興策に組織的に取り組んだ占領後初の軍政長官となった。

具体的には那覇市街地の首都としての再建、琉球・奄美・宮古・群島民政府の設立とその知事・議員の公選、米軍部隊の再編成と待遇改善・綱紀粛正などを行い、その施政は当時の沖縄住民によって「シーツ善政」と称えられた。

■マッカーサーとシーツ司令官

一般的に日本兵を語る時、日本兵は天皇に対する狂信的忠義を糧に徹底抗戦を続けた戦士として、その狂気じみた戦意を取り上げて諸外国の軍隊には見られない無い特異(奇異)な存在として語られる場合が多い。

ところが交戦相手である米国が見た日本兵の姿は必ずしもそうではない。防衛戦に長け、飢餓と弾薬不足でも戦意を失わず、むしろ米兵でも共感できるくらいの感性を持ち合わせていたこと、彼らも同じような人間臭さが有ったことを吐露している。

特に沖縄戦で沖縄攻撃の最前線で指揮を執った海兵隊のシーツ司令官にとって、米軍に比べて質量とも極めて貧弱な兵器で、果敢に米軍に立ち向かう日本兵は一種の驚きと同時に戦士として一種の畏敬の対象ですらあった。想像するに、シーツ司令官はぜい弱な軍備で果敢に立ち向かう日本兵をみて、「サムライ」が持つ「敵ながらアッパレ」の気概を感じたのだろう。

さて、沖縄タイムスの座安専務はシーツ司令官に出版を拒否された後上京し、GHQ最高司令官マッカーサーに面会し、『鉄の暴風』の出版を直談判、マッカーサーのお墨付きを得て出版にこぎ着ける。

そして不思議なことに座安氏ら沖縄タイムス一行が意気揚々と沖縄に帰った後、「シーツ善政」として沖縄住民に慕われたシーツ長官が病気を理由に僅か1年余で更迭され沖縄の歴史から姿を消す。マッカーサーに逆らったから、という噂もあったが真相は闇の中である

■『鉄の暴風』出生の秘密■

 

■米軍は解放軍■

『鉄の暴風』という言葉から受ける印象は、「沖縄対日本軍」の戦いであり、日本軍は沖縄県民を虐殺するが、米軍は日本の沖縄を解放に来た解放軍だという印象だ。

2007年10月30日付世界日報にこんな記事が掲載された。

米、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日)》

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、敵意剥き出しの反日報道をするには理由があった。

■沖縄タイムス出生の秘密■

その訳を深く掘り下げると沖縄タイムスの出生の秘密にたどり着く。

それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にすべてが凝縮されている。

前文に「米軍の高いヒューマニズム」「米軍の人類愛」などと書かれている。揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者太田良博氏によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)


■米軍広報紙としての出発■

さらに沖縄タイムスの創立者の1人座安盛徳氏(故人)は昭和25年5月2日、東京のGHQを訪問し、当時の沖縄人としては珍しくマッカーサー元帥と面談もしている。

当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。

これによって沖縄タイムスが米軍の沖縄占領政策の重要な一部門に組み込まれていたことが分かる。

マッカーサーとの面談の三ヵ月後に『鉄の暴風』は初版が出版されることになる。


■「鉄の暴風」に続く「紙の爆弾」■

当時、不足気味の新聞用紙の提供など報道に必要な備品は全て米軍によって提供された。

沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。>(世界日報「米軍より日本軍怖い」感覚へ)

米軍は「鉄の暴風」を吹き荒れさせた後は、

「紙の爆弾」といわれた膨大な量の宣伝ビラを島中にばら撒いて住民と日本軍の分断を図った。

この心理作戦遂行のため、情報部は沖縄での空中散布用に五百七十万枚のリーフレットを印刷。米軍上陸後にまかれたあるビラの文面を紹介しよう。

 皆さん達の家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。……日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(世界日報より)

全島に降り注いだ紙の爆弾の効果はてき面だった。


■沖縄と日本との分断工作■

『鉄の暴風』が書かれた戦後5年目の沖縄は通信手段や交通手段さえ現在とは比較にはならない。

バスやタクシーが未だ無いので、交通手段は勿論電話や取材用の紙さえ米軍に頼らざるを得なかった。


■不可思議な取材活動■

『鉄の暴風』著者太田氏の取材の様子を世界日報は次のように報じている。

≪さて、太田氏はこの反論連載(沖縄タイムス掲載の曽野綾子氏への反論)の中で『鉄の暴風』の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」と書いている。≫

現役記者の鴨野氏は、取材活動でケータイは勿論PC、カセットテープを駆使し、移動手段も飛行機、電車、車、場合によってはミニバイクに乗って取材活動している。

『鉄の暴風』の取材方法については、同業者として次のように疑念を呈している。

記者二人で、三ヶ月の取材で書き上げた分量は四百字詰め原稿用紙で750枚前後に及ぶ膨大なものだ。 しかも離島だけではなく、本島の北から南にまでの兵隊や住民の動向を取材の視野に入れている。・・・・果たして証言内容を精査、吟味する時間をどれほど持てたのだろうか。

だが、読者の疑念は次の事実で氷解する。

『鉄の暴風』は証言内容の精査、吟味は不要であり、

米軍がその機動力で一か所に集めた都合の良い「証言」者から聞き取るだけで済んだからである。

何故なら『鉄の暴風』発刊の主旨は著者がいう「歴史の記録」というより、「住民と日本との分断」という米軍の意図の下で発刊を許可されていたからである。

■米軍協力で集められた「証言者」■

昭和25年、那覇市の今で言う国際通りの国映館界隈は未だ道路も舗装されておらず米軍トラックが通ると埃が朦々と立ち込める悪路であった。

埃っぽいその道路から奥まった一角に在った某旅館に「集団自決」の証言者と称する人たちが集められた。

米軍の協力の下、実際に動いて証言者を集めたのは、沖縄タイムス創立の1人座安盛徳氏であった。

『鉄の暴風』の著者が不備な交通手段や通信手段を使わなくとも済むように、座安氏は先ずその旅館に「証言者たち」を集め、取材の準備を万端整えた。

そして『鉄の暴風』の連載を企画し、その後、単行本実現に米軍情報部との強力なコネを通じて影の力を発した。

その結果、太田氏は現地取材することも無く、一か所に集められた「関係者」からの聞き取りだけで「裏付け」をとることもなく、『鉄の暴風』を著したのである。

太田氏の取材は当時としてはある意味で、比較的容易に行われ、それが後日「伝聞取材」であると批判される原因になる。

一方影の著者とも言える座安氏のやったことは、「関係者」を集めるとは言っても、電話も交通手段も不備だった昭和25年当時の沖縄で、全島から「関係者」を一か所に集めることは至難の業で米軍の機動力の支援なくしては出来ない仕事であった。

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