狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

【武田邦彦】トヨタの逆襲!トヨタが絶対に知られたくない「プリウス」のとんでもない真実!

2023-04-28 12:06:07 | 経済

 

 

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読者の皆様へ

3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。

八月や六日九日十五日」詠み人多数。

★民間人虐殺の典型

⇒鉄の暴風

米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。

【武田邦彦】トヨタが絶対に知られたくない「プリウス」のとんでもない真実!

プリウス16万キロ乗ってました。素晴らしい自動車です。燃費は満タン空にして30Km/Lいったことあります。静かだし、運転し易いです。どうしても欠点を挙げろといわれればサスペンッションがやや柔らかい位ですかね。トヨタが世間に知られたくないことなんて無いと思います。
 
かつてトヨタの前身豊田自動織機はイギリスの自働紡織機を圧倒した。
 
無停止杼換式豊田自動織機G型。トヨタ産業技術記念館の展示。
 
豊田自動織機G3型。G型をベースに構造を強化し厚地が織れるようにしたもの。刈谷市歴史博物館の展示。
 

【衝撃】日本車潰し失敗!EV業界に激震!やはりトヨタが正しかった!【トヨタの逆襲】

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自爆した琉球新報!「屈辱の日」で

2023-04-28 07:19:03 | マスコミ批判

 

 

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3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

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※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。

八月や六日九日十五日」詠み人多数。

★民間人虐殺の典型

⇒鉄の暴風

米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。

辺野古ゲート前/4・28「屈辱の日」に新基地建設の資材搬入に抗議

 

[大弦小弦]屈辱の日

 
2022年4月28日 7:40有料
社会・くらし

 「鉄の暴風やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民は(中略)屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋(つな)がれた」。国頭村の辺戸岬にある祖国復帰闘争碑に記されている

▼1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され、日本の主権が回復した一方で、沖縄は日本から切り離された。あれから70年になる「屈辱の日」に、碑文を思い出して考える。沖縄にとって、日本は祖国といえるのかと

▼ロシアによるウクライナ侵攻で、中国の台湾有事や尖閣諸島周辺の緊迫化を懸念する声がある。3月まで東京勤務だったが「沖縄も大変になるのでは?」と聞いてくる人もいた

▼日本の平和が沖縄の犠牲の上にあることへの無知、無理解、無関心…。本当に心配しているのは、本土への飛び火だろうと勘繰ってしまう

▼国土面積の0・6%しかない沖縄に、在日米軍専用施設の約70%が集中する。そこから派生する事件事故などの不条理。自衛隊の「南西シフト」が進み、軍事要塞(ようさい)化される沖縄が「再び捨て石にされる」という不安も膨らむ

▼「県民の平和への願いは叶(かな)えられず日米国家権力の恣意(しい)のまま軍事強化に逆用された」。碑文に刻まれた激しい怒り。岬の突端で波や強風にさらされる碑と、歴史に翻弄(ほんろう)されてきた沖縄の存在が重なる。日本復帰50年の先に、「屈辱」が晴れる日は訪れるだろうか。(吉川毅)

潜在主権に期待 当時の報道 被害相次ぎ失望へ「屈辱の日」

対日講和条約の発効を伝える1952年4月28日付の「琉球新報」

 対日講和条約が発効した1952年4月28日、県内の新聞は「祖国の独立を祝う」と日本が国際社会に復帰することを歓迎する一方、沖縄の「日本復帰を確信する」との比嘉秀平主席のメッセージを掲載した。

 「当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつか日本に帰れるという安心感があったから、祖国の独立を喜ぶことの方が大きかった」。元琉球新報記者の下地寛信さん(87)は振り返る。だが、講和条約第3条によって沖縄が日本から切り離され、米国統治になって以降、米軍による住民の土地接収や人権を踏みにじる事件事故が相次ぐ。記者たちの期待は失望に変わり、4・28を「屈辱の日」と意識するようになったという。
 講和条約発効について52年4月28日付の琉球新報は「こども版」で記念特集を組み、「晴れて世界の仲間入り」などの見出しとともに「こんご琉球はどうなる?」と、沖縄に引き付けた囲み記事を掲載。今後の琉球の地位について「ふかく気をくばらなければならない」と指摘している。一方、沖縄タイムスにも「経済・各面に好影響」との見出しが見られた。
 当時の県内関係者の談話には「いつかは復帰できる」という趣旨の言葉が多く、期待の大きさがうかがえる。ただ琉球新報の社説は「喜んでばかりはいられない。これがわれわれ琉球住民にいかなる意味を持つものであるかは、全く未知数」とも指摘している。
 52年当時は軍作業員で、54年に琉球新報に入社した下地さんは当時の記事を見て「一般の人々は食べるのに精いっぱいで、条約発効はぴんときていなかった。当時は屈辱というような表現はなかった」と話す。
 52年当時、大学生で、琉球新報東京支社でアルバイトの記者をしていた親泊一郎さん(81)は「当時はよく沖縄は里子だという言葉が使われた。親に返る時は立派に成長して帰り、親に喜ばれなければいかん、それまでじっと我慢して頑張っていこう。そんな雰囲気があった」と話した。

自爆した琉球新報!「屈辱の日」で 2013-04-21

自爆した琉球新報!「屈辱の日」で 

政府主催の「4・28主権回復の日」を「屈辱の日」と感じるのが県民の総意などと喧伝する沖縄2紙.

その発狂報道は、4月28日を目前にますます加熱の様相である。

常軌を逸した報道(発狂報道)を、ブログ「地元紙で識るオキナワ」さんより引用するとこうだ。

2013年04月18日

4・28「屈辱の日」沖縄大会

 
(沖縄タイムス4/28、記事原文はこちら



琉球朝日放送のニュース映像(動画)
2013.04.17 「主権回復」「屈辱」… 沖縄で考える4・28





 
(沖縄タイムス4/16、記事原文はこちら



 
(琉球新報4/16、記事原文はこちら



 
(沖縄タイムス4/16)



 
(琉球新報4/17)

「主権回復の日」を「屈辱の日」などと考える県民は、一部の反日サヨク複合体の面々に限られる、と何度も書いた。

彼らが「屈辱の日」と称する根拠に「沖縄を米国に売り渡した」などという「天皇メッセージ」を挙げる。

最終的には「天皇制廃止」をもくろむ本音を「屈辱の日」から垣間見ることができる。

先日の「普天間固定化に反対する市民大会」で登壇した筆者は。講和発行当時の琉球新報や沖縄タイムス、教職員たちは、祖国日本が一人前の独立国として世界に認められたことを祝賀し、祖国復帰が一歩近づいた、という認識だった、と話した。

そして当時の琉球新報記事のコピーを掲げて、「屈辱の日というのは復帰前後沖縄に流入した日教組らの影響を受けた反日左翼複合体による、後付けの言い掛かりに過ぎない」と話したら大喝采を受けた。http://www.youtube.com/watch?v=4BQgA4ugEn8

 当時の記事を根拠にした筆者の「屈辱の日」に対する反論に対抗するつもりなのか、琉球新報が当時の自社の社説を引用して「屈辱の日」を正当化する記事を書いた。

当時の記事を検証した筆者は、どのような反論かと興味津々きたいしながら読んだ。

そして驚いた。

なるほど見出しだけは反論の体裁だが、記事内容はまたしてもブーメランの連発で自爆しているではないか。

祖国日本の主権回復を「屈辱の日」と捉えたというのは、真っ赤な嘘であると言う証明ではないのか。(涙)

潜在主権に期待 当時の報道 被害相次ぎ失望へ「屈辱の日」

2013年4月20日 

 

対日講和条約の発効を伝える1952年4月28日付の「琉球新報」

 対日講和条約が発効した1952年4月28日、県内の新聞は「祖国の独立を祝う」と日本が国際社会に復帰することを歓迎する一方、沖縄の「日本復帰を確信する」との比嘉秀平主席のメッセージを掲載した。
 「当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつか日本に帰れるという安心感があったから、祖国の独立を喜ぶことの方が大きかった」。元琉球新報記者の下地寛信さん(87)は振り返る。だが、講和条約第3条によって沖縄が日本から切り離され、米国統治になって以降、米軍による住民の土地接収や人権を踏みにじる事件事故が相次ぐ。 記者たちの期待は失望に変わり、4・28を「屈辱の日」と意識するようになったという。講和条約発効について52年4月28日付の琉球新報は「こども版」で記念特集を組み、「晴れて世界の仲間入り」などの見出しとともに「こんご琉球はどうなる?」と、沖縄に引き付けた囲み記事を掲載。今後の琉球の地位について「ふかく気をくばらなければならない」と指摘している。一方、沖縄タイムスにも「経済・各面に好影響」との見出しが見られた。
 当時の県内関係者の談話には「いつかは復帰できる」という趣旨の言葉が多く、期待の大きさがうかがえる。ただ琉球新報の社説は「喜んでばかりはいられない。これがわれわれ琉球住民にいかなる意味を持つものであるかは、全く未知数」とも指摘している。
 52年当時は軍作業員で、54年に琉球新報に入社した下地さんは当時の記事を見て「一般の人々は食べるのに精いっぱいで、条約発効はぴんときていなかった。当時は屈辱というような表現はなかった」と話す。
 52年当時、大学生で、琉球新報東京支社でアルバイトの記者をしていた親泊一郎さん(81)は「当時はよく沖縄は里子だという言葉が使われた。親に返る時は立派に成長して帰り、親に喜ばれなければいかん、それまでじっと我慢して頑張っていこう。そんな雰囲気があった」と話した。

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 >対日講和条約が発効した1952年4月28日、県内の新聞は「祖国の独立を祝う」と日本が国際社会に復帰することを歓迎する一方、沖縄の「日本復帰を確信する」との比嘉秀平主席のメッセージを掲載した。

>「当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつか日本に帰れるという安心感があったから、祖国の独立を喜ぶことの方が大きかった」。元琉球新報記者の下地寛信さん(87)は振り返る。

>記者たちの期待は失望に変わり、4・28を「屈辱の日」と意識するようになったという

>講和条約発効について52年4月28日付の琉球新報は「こども版」で記念特集を組み、「晴れて世界の仲間入り」などの見出しとともに「こんご琉球はどうなる?」と、沖縄に引き付けた囲み記事を掲載。今後の琉球の地位について「ふかく気をくばらなければならない」と指摘している。一方、沖縄タイムスにも「経済・各面に好影響」との見出しが見られた。

 普通に読解力のある読者なら上記引用文に特別の説明は不要だろう。

誰が考えても新聞を筆頭に当時の沖縄人は祖国日本に主権が戻ったことを祝賀し、同時に祖国復帰の日が遠からず実現すると期待感に満ちている様子が読み取れるではないか。

それに「当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつか日本に帰れるという安心感があったから、祖国の独立を喜ぶことの方が大きかった」と振り返る元琉球新報記者の下地寛信さん(87)は、正直に「天皇メッセージ」がもたらした「潜在主権」の効用を直に認めているではないか。

琉球新報が当時の自社記事を引用し、「屈辱の日」を正当化使用としたが、自分の紙面に刻まれた歴史の事実は消すことは出来ず、むなしく自爆し果てたのは大爆笑である。

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