狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

メモ【武田邦彦】※緊急※ 日本を舞台に第三次世界大戦が始まるぞ!

2023-04-23 07:38:55 | 政治

 

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メモ:7:20極小
 

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3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

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※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。

八月や六日九日十五日」詠み人多数。

★民間人虐殺の典型

⇒鉄の暴風

米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。

 

 

沖縄タイムスの報道は、警察を配備したら泥棒が増える、という論理だ。

外国のミサイル攻撃に対して、迎撃するミサイルを日本が配備する。

歓迎すべき事態だが、沖縄タイムスの見出しを見ると、「迎撃ミサイル」配備により、まるで戦争が始まるような印象だ。

沖縄タおムス二面トップの見出し。

県内全域で迎撃態勢

知事「唐突の配備」情報の精査指示

社会面トップ

県内に迎撃ミサイル

配備候補地不安と警戒

コメント (2)

中国の援軍と琉球処分

2023-04-23 04:35:27 | 資料保管庫

 

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メモ:安寿 リトルターンℤ 立ち上がり、折り畳み
洋;黒帯外す、昨日買い物 
 

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★民間人虐殺の典型

⇒鉄の暴風

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中国の援軍と琉球処分

2008-08-22 08:27:31 | 未分類

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コメント欄で太平山さんが「琉球処分」について詳述されているので、本欄に記事として転載します。

従って、コメント欄は削除させてもらいますのでご了承ください。

                   ◇

沖縄タイムス、琉球新報の偏向報道をブログネタにさせてもらっているが、両紙は偏向を通り越して、反日新聞ではないかいう声も聞く。

沖縄タイムスが戦後、米軍政府のプロパガンダ紙の性格で創刊されたことは再三述べたが、その軸足は最近では「中国が祖国」といった論調に立っているように思える。

タイムスがその論拠を琉球処分に求め、そのとき「侵略者日本」を撃退する為に「解放者中国(清)」が援軍をよこすといった「タイムス史観」を書いたのが、

再三引用するタイムス・コラムの「大弦小弦」。

何度も繰り返して恐縮だが「絶滅危惧文」として以下にしつこく引用して、それに対する大平山さんのコメントを転載します。

その前に、復習の意味で「琉球処分」の概略を琉球新報の解説で参考までに。(煩雑と思う方はスルーしてください)

琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)
明治政府による琉球藩設置から分島問題の終結までをいう。明治維新にともない、1872(明治5)年、明治政府は〈琉球国〉を廃して〈琉球藩〉とし、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王(国王)自ら上京することなどを再三迫った。が、琉球が従わなかったため、79年3月、処分官、松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球王国は滅び、〈沖縄県〉となる。華族に叙せられた藩王(国王)尚泰は東京在住を命じられた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど、問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。

                    ◇    

琉球新報はタイムスと違って、中国(清)に援軍を求めたのは琉球士族の一部と正確に記述している。

付け加えさせてもらうと琉球士族のなかの中国系士族で、琉球王府で既得権を享受していた一部士族とした方が正確であろう。  

沖縄タイムスの言うように「沖縄」(明治の琉球人)全てが中国に援軍を求めたのではない。

◆<2005年5月16日> 沖縄タイムス
[大弦小弦]

 黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった▼実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった▼一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した▼日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦)


                    ◇

以下は上記タイムス記事に対する、

太平山さんのコメントの転載です。

                   ◆

公開   タイムス記事 2008-08-20 18:22:34 太平山 thz11 李登輝氏の沖縄講演 
狼魔人さま
こんばんは。またまた出しゃばることご了承の程を。タイムス記事を読み、黙っておられなくなりました。李登輝氏についてはさておきタイムス記事に言及してみたいと思います。

相変わらず何が言いたいのか、論理の一貫性がなく意味不明の文章が多いですね。例えば以下の文章です。

>日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか<

これは何が言いたいのか?知人が「黄色軍艦が沖縄を侵略する」と勘違いしていることを現在の沖縄の人が、かつて中国が琉球の宗主国であったことを知らないでいることを嘆いているものなのか?今の位置とは?沖縄が日本であることなのか?何か嫌らしい表現ですね。沖縄が日本であることが不満で中国へ帰るべしと言っているように思われます。次に

>中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ。百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう<

上記も全く意味不明!歴史の反転とは?最近の銃口や占領者とは誰のことなのか?沖縄戦と米軍のことか、それとも日本軍のことか?そして「平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう」について何故黄色い軍艦や幸地親方の言葉がこれに繋がるのか全く解らない。一体何が言いたいのか。

援軍を頼むのが平和の選択肢なのか?幸地親方の言葉のように日本を拒否するのが平和の選択肢なのか?援軍を頼まないのがそうなのか?あの文章では中国に帰ることが平和の選択肢であるように受け取れるのだが。添削して大きな×を沢山つけたいですね。はっきり書け!と。

そして「武力で琉球国を併合した明治政府に対し」これも大間違い。軍隊は送ったがそれは不測に事態に備えるためであって当然のこと。その軍隊は人民に銃口を向けてはいないし、実際死者は一人も出なかった。明治政府はその前に琉球藩を置いている。突然に併合したわけではない。全く姑息で悪意を感じさせる文章ですね。平和さえ唱えれば論理なぞどうでも良いと思っている。

琉球処分(1) (太平山)
 
2008-08-20 18:43:06 
 
≪琉球処分について、

「つまり琉球は当時は日本への帰属をいやがっていた。住民の意思を無視して無理矢理日本領にしてしまったわけです」

上記については王府や役人達はそうであったかもしれないが一般民衆の大半を占める農民は明治新政府の大和世に期待していました。特に史上希にみる悪法の人頭税に長年苦しめられていた宮古、石垣の先島地方の農民はそうでした。もちろん正確な情報が伝わるわけではありませんが噂で光明を見る思いだったでしょう。
http://www.beats21.com/ar/A01051824.html
http://www.tabiken.com/history/doc/J/J226R200.HTM

明治4年明治新政府から琉球側に最初の琉球処分((王国解体)の通達がなされて琉球王国は琉球藩となりましたが王府側では頑固党(親シナ派)と開明党(親大和派)がそれをめぐって相争うようになります。明治新政府は宮古島島民の台湾遭難事件(明治4年)を奇貨とし明治7年台湾征伐を行い大久保利通を全権大使として清国との交渉に当たらせ琉球の日本帰属を認めさせました。

明治新政府は同8年それを琉球側に伝え清国側との朝貢関係を断つよう命じますが既得権を失うことを不服とした頑固党は新政府が佐賀の乱、西南の役で忙殺されている隙をつき明治10年3月琉球処分の撤回を求めて清国に救援の密使(幸地親方)を送ります。それは軍や軍艦の派遣要請といったものでなく琉球を見捨てないでくれと訴えるものだったでしょう。

琉球側の要請を受け清国は翌11年日本に抗議しますが国際問題になりつつある状況に内務卿伊藤博文(大久保利通は5月に暗殺される)は先手を打って翌12年3月松田道之に命じ軍隊を伴わせ琉球処分(廃藩置県)を断行します。そこではじめて首里城が明け渡され沖縄県が誕生します。

しかし頑固党の密使(幸地親方)はそれでも諦めず時の宰相、李鴻章に何度も嘆願しその情意に動かされた李鴻章はその頃清国を訪れていたアメリカ前大統領のグラント将軍に日本政府との仲介を頼みます。グラント将軍はこれを聞き入れ琉球2分割案すなわち北琉球(奄美)中琉球(沖縄本島)は日本が領有し南琉球(宮古、石垣)は清国が領有すると言った内容の仲裁案を日本政府に提示します。

琉球処分(2) (太平山)
 
2008-08-20 18:49:17
 
(NO.2)
日本政府はアメリカ前大統領の調停とあって無視もできず国際問題となった琉球問題に再度交渉の場につきます。その際日本政府は明治4年に締結した日清修好条約の改正を代償条件としてその案に同意することを清国に提示しますが清国はそれには同意せず日本を警戒し別案(奄美は日本が宮古、石垣の先島は清が領有し沖縄本島は琉球王国に復活させるという案)を提示しました。

しかしそれは日本政府の拒否にあい清国はやむなく日本政府の提示した2分割案に合意します。条約は10日後に調印する予定でしたがしかし事はそう簡単には終わらず清国が調印をずるずると引き延ばしたため結局分島案は決着を見ることなく曖昧のままに終わりました。
 
清国が調印を遅延した理由として

① 条約内容をリークした琉球密使幸地親方が合意撤回を必死に清国側に嘆願したこと
② 欧米列強の圧力に屈して結んだ不平等条約と同等な特権を日本側に与えることに対し国内の抵抗が大きかったこと
③ ロシアとの国境紛争の最中であったこと(イリ条約で解決)
③フランスの安南侵攻があったこと(後に清仏戦争となり天津条約を締結)
④朝鮮をめぐって日清間に軋轢があったこと(後に日清戦争となる)

以上が考えられます。
 
琉球処分(3) (太平山)
 
2008-08-20 18:54:30
 
(NO.3)
沖縄では先の琉球処分を日本の侵略としてとらえ琉球を被害者として見る向きがあり清国へ渡った幸地親方を始めとする頑固党一派を分島案を阻止した功労者として評価する偉い先生方もいます。
http://www.jca.apc.org/~runner/oki_sosyo/oki-jyunbi3/dai2.html
http://w1.nirai.ne.jp/ken/rekishi.htm
しかし琉球王国は1609年薩摩の侵攻により実質的には滅びていますからその後は薩摩藩の支藩であり続けたと考えるのが妥当でしょう。外交権は薩摩が握っていました。

幕末まで琉球王国はさも独立国であったかのような前提でもって文化人・学者達は琉球論を展開するため大半の人が琉球処分即日本の侵略として捉えがちです。しかし当時の国際情勢の中にあってはそれが琉球にとっては最善であった少なくとも最良であったことは言うまでもありません。

琉球側も現実的にこれ以外の選択肢はなかった。薩摩藩という日本最強の雄藩が背後にいたからこそ欧米列強の植民地支配からも免れたとも言えるのです。

そもそも明治維新も奇跡と言われる程当時の欧米列強進出による日本の対外状況は非常に危うかった。それが成就したのは日本側に幸運があったからだとも言われる。即ちクリミヤ戦争でロシア、フランス、イギリスが、南北戦争でアメリカがそれぞれ釘付けとなり一時期本格的に日本に進出することができなかった。

戦後処理を終え体制を整えるには時間が要る、少なくとも結果的に日本は時間を稼ぐことができた。その僅かな空白と間隙をつき明治維新が成功したそれが僥倖だったと言える所以で、その明治維新後の日本に統合された琉球もまた幸運だったとも考えられるのです。

琉球処分(4) (太平山)
 
2008-08-20 18:57:35
 

幕末期、明治初期の琉球国首脳は国際情勢が見えなかった。何より琉球国は独立国であると錯覚してしまった。あるいは錯覚はしなくとも過度に清国を過大評価し期待し過ぎていた、その反動として当然のことながら維新後の明治新政府を見くびり清国が出れば日本は譲歩するだろうと考えていた。

当時の清国はアヘン戦争、太平天国の乱と欧米列強の進出に遭い内外共に難題を抱え争乱期にあって国力の低下が著しかった。琉球を顧みる余裕等無かったのではないか。

琉球は260年間薩摩の支配下にありながら己の立場がどういうものか解せず現状認識が非常に甘かった。その認識の甘さは他でもない清への過度の期待に因るものでありそれはまさしく1609年慶長の役(薩摩侵攻)で明を頼った謝名親方の轍と全く同じである。260年後再び同じ轍を頑固党の幸地親方、林世功は踏みつつあった。

明治12年(1879年)の琉球処分(廃藩置県)以降も頑固党による琉球王国復興の工作は尚も執拗に続く。日清戦争(1894)時には清国の黄色い軍艦が琉球に大挙してやって来るとの報に、頑固党は狂喜乱舞するがそれは一時のうたかたと消えた。黄色い軍艦が現れることはとうとうなかったのである。

頑固党はそれでも日本の勝利をデマだと信じて疑わず清国艦隊襲来を期待する。しかし那覇港に目にするのは台湾に往来する旭日旗の軍船のみでそこでようやく清国は敗れたと悟るのである。清国へ渡った頑固党一派26人が沖縄へ帰ってきたのが日清戦争2年後(1896)で彼らは清国には琉球を救援する意志は無しと伝えるのでした。

(終り)

勝手にこの板を借りて好き放題言って来ました。非常に不快な言動も多々あったと思います。これまでの投稿、もし不都合があれば遠慮なく削除して下さい。

私だけが書いてしまって他の人が書き込むことを阻害してきたように思われます。しばらくコメントすることは控えますが、また頭に来た場合には書き込むことをお許し下さい。このコメントもしばらくしてから削除して下さいね。お願いします。

それではこれにて失礼します。

                   ◆

太平山さん

>また頭に来た場合には書き込むことをお許し下さい。

 

頭にこなくてもコメントは歓迎します。(笑)

特に琉球処分に関するこのコメントは大変勉強になりました。

 

以下は当日記で過去に「琉球処分」について触れたエントリーです。

 
 

琉球処分報じた中国紙入手 沖縄は日本ではない?

 

「琉球処分」Ⅱ 王朝の春 優美に幕開け

 

司馬遼太郎も読んだ『鉄の暴風』  「琉球処分Ⅲ」

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