【我那覇真子緊急参戦!K●DOKAWA】アメリカからの弾圧か?日本で出版停止してしまった本の話 No5◆文化人デジタル瓦版◆
小島昭浩様のメール
写真↓は私が東京に住んでいた頃に都内で開かれた保守の集まりの時に我那覇隆裕局長へ 写真を撮って下さいとお願いしたところ、では肩を組みましょう。と言って頂き撮らせて いただいた時の物です。真子さんもいいのかな、と思いながら嫁入り前の娘さんに触れる のは辞めておこうと判断して敢えて辞めましたね。 真子さんの近頃の行動力は目を見張るものがあり、みんな今何処に居るのか分からないく らいのようです。 素晴らしいと思います。左奥に見えるマンゴー屋さんは気にしないで下さいꉂꉂ(ᵔᗜᵔ*)アハハ
観光客で賑う沖縄那覇市の「国際通り」の名前の由来をしている者は県民ですら少なくなってきた。
筆者(江崎)より約10年ほど年下の県民なら、ピュリツァ―賞を受賞した米軍の従軍記者アーニーパイルの名を冠した「アーニーパイル国際劇場」という名に由来している事実を知っているだろう。
アーニーパイルは米軍統治下の沖縄では英雄として称賛され、トルーマン米大統領の名は知らなくてもアーニーパイルの名を知らない子供たちは少なかった。(学校ではそのように教えられていた)
あーーにパイルは第二次世界大戦に従軍記者として同行し、1944年にピューリッツァー賞を受賞するなど、翌年4月に従軍先の沖縄県伊江島にて戦死した。遺体は一度現地に埋葬されたのち米軍基地に移され、1949年にハワイ・ホノルルの国立太平洋記念墓地(英語版)に埋葬された。毎年4月18日に最期の地となった伊江村で慰霊祭が行われる。 第二次世界大戦後に アメリカ軍統治時代の那覇の国際通りにも、琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニーパイル国際劇場」という映画館が建設された。「アーニーパイル国際劇場がある通り」から「国際通り」と呼ばれるようになった。
■伊江島のアーニーパイル記念碑
アーニーパイル国際劇場(奇跡と呼ばれた一マイル-沖縄国際通り物語より)
- 著者名
- 大濱 聡
- 出版社名
- ゆい出版
- 問合わせ先
- 電話 098-973-9872
- 住所
- 〒904-2245沖縄県具志川市字赤道713-2
沖縄従軍記者アーニーパイル
事実上陸して後、進軍の途中で見た沖縄の村の様子についてはこう書いている。
「実際に見た沖縄は、アメリカの大抵の土地とさして変わりなかった。海兵隊にとってはここ三年見てきたどこよりもアメリカに似ていた。気候も熱帯というよりも温帯的で、植物もそうだった。海岸にはたぶんパンダナスの茂みと思われる熱帯植物もあるにはあるが、枝を水平に張っている樅の類が豊富に生えている。私のいた隊が最初の2日間に通過した村はきれいに耕されていた。海岸から小さな段々畠がなだらかに延びているところなどインディアナ州の、ものみなが乾燥しはじめて褐色を帯びる晩夏のころをまざまざと思わせた。」
(アーニーパイル「最後の章」)4月16日、アーニーパイルは沖縄での最後の取材をするために、第77師団とともに伊江島に上陸した。
伊江島は離島にあって最も熾烈な戦闘を展開した所である。
周囲22キロの小さな島での戦闘は、後に「沖縄本島の規模を縮小したようなもの」といわれた。2日後の18日、アーニーパイルは連隊の指揮官とジープに乗って前線に向かった。
村はずれにさしかかったとき、道路脇の丘に隠れていた日本兵から機関銃の狙撃を受けた。ふたりはジープから転がり出て、傍らの溝にうつぶせになった。
やがて、辺りが静かになったので、様子を見ようとパイルが頭をあげたときである。再び銃弾を受けた。銃弾は鉄かぶとの縁の下から、パイルの左こめかみに命中した。
従軍記者アーニーパイルは、こうして戦場で命を失った。44歳だった。
「同僚ならびに兵隊からも将軍からもひとしく愛された従軍記者アーニーパイルは、今朝日本軍の機関銃弾に左こめかみを貫かれ、ついに戦死した。アフリカから沖縄にいたるまでのあらゆる戦線から報道を書き送った有名な寄稿家の死は午前10時15分、司令部から約一哩前方であった。(琉球諸島、伊江島司令部にて)」(「ウルマ新報」)4月18日発のAP電である。
アーニーパイルが犠牲になった3日後、伊江島は完全に米軍の手に落ちた。
その後、彼が戦死した場所に墓標が建てられ、沖縄戦終了後の7月1日、米軍によって除幕式が行われた。
「第77歩兵師団はこの地で、戦友アーニーパイルを1945年4月18日に失う」碑には、そう記されている。
もしアーニーパイルが生き延びて沖縄戦終結にまで見届けていたなら「ありたっけの地獄を一カ所にまとめたような戦争」と言われ、大勢の住民を巻き込んだ沖縄戦をどう伝えたのだろうか。興味のあるところである。