狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

今暴かれる60年前のケネディ暗殺の真相!衝撃の新書…アメリカで出版された「ならずもの政府」に記された驚きのJFK事件の真相と、7.8事件に共通する点とは▽山岡×佐波×加賀【リ

2024-03-21 15:14:32 | 政治

 

 

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衝撃の新書…アメリカで出版された「ならずもの政府」に記された驚きのJFK事件の真相と、7.8事件に共通する点とは▽山岡×佐波×加賀【リ

 

【おまけ】

12月20日発売の月刊willに『沖縄「集団自決」の大ウソ』が掲載されました。

◎沖縄
■江崎孝…「集団自決」の大ウソ

 
 
 

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山本太郎に止めを刺された成田悠輔!老人経済学【武田邦彦】60歳以上の人は大至急この動画を見てください!大変なことになりますよ!

2024-03-21 15:10:11 | 経済

 

 

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山本太郎に止めを刺された成田悠輔!「集団自決」「集団切腹」問題の全てが分かる!成田悠輔の今後の運命は?

「年寄りの冷や水」「年甲斐もなく」「定年を止めよ」

希望なき人間は消費しない。

 

#1091【よく聞け成田!高齢者がいなければ国は存続しない】高齢者がお荷物だ?どの角度から見ても間違っている。高齢者がいなければ

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【vlog】老人日記〜65歳の仕事探し

思い出はすごく大事だと思いますよ  五木寛之さん流 “人生後半を豊かに生きるヒント”・・記憶と記録

 

"座り込みの黒幕"に気付いてゾッとしました。辺野古基地反対運動を裏で操ってたのはXXXなんですよね、、、【ひろゆき 切り抜き 論破 ひろ

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❸マッカーサーの置土産  潮音寺土座衛門

2024-03-21 07:03:26 | 政治

 

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【随想】

【※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。】

 

マッカーサーの置土産  潮音寺土座衛門

『鉄の暴風』は、後に沖縄タイムス社長になり豊平良顕氏の監修で、戦前からのベテラン記者牧港篤三、そして米軍民政府に勤務していた太田良博の3人で執筆することになった。それまで一読者に過ぎない太田は『鉄の暴風』の執筆を機タイムス社に入社した。
 
同書の執筆開始以来、取材三カ月、執筆三カ月の予定で、春から夏にかけて突貫工事で脱稿した。
当時、タイムス社は那覇市崇元寺の向かいにあって、社屋はカマボコ型トタン屋根だった。編集局と隣り合わせた総務局のかたすみで、ひとつの机をはさんで、牧港と太田が向き合って、取材した資料を整理した。勿論現在のようなクーラーや扇風機さえない当時、夏の炎熱がトタン屋根にあたるため、部屋の中は、むし風呂のようであった。
 
当時トタン屋根の校舎で授業を受けた、沖縄の中学生は皆むし風呂地獄を味わっている。
 
年長者の豊平と牧港は、沖縄戦の体験者で、戦記編纂に対する熱意も体験から出たものだったが、体験者でもなければ記者としては素人の太田は、一度も現地に取材することも無く、なかば両先輩の熱意に引きずられたような形であった。
執筆が終わると、原稿は全部アルバイトに清書させていた。
 
また、英文の全訳をアメリカ軍政府に提出する必要があったので、琉球大学の翁長俊郎に依頼して翻訳させた。当時、あのていどの本を出版する設備が沖縄にはなかった。結局同書は、朝日新聞(東京)の刊行となった。
それには「現代人による沖縄戦記」というサブ・タイトルがついていた。
 
それから、ちょうど二十年を経た一九七〇年、沖縄タイムス社から『鉄の暴風』第二版が出ている。第二版では、初版の副題「現代人による沖縄戦記」はとりのぞかれて、単に「沖縄戦記」としてある。第二版は同社で印刷製本したようだが、東京の朝日新聞で刊行された初版とくらべると、紙質といい印刷、製本など、はるかによく、時代の流れを感じさせる。
 
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が沖縄戦を描いた最初の出版物と言われるが、
『鉄の暴風』がでる前に、すでに不戦兵士・市民の会の古川成美著の『沖縄の最後』がでていた。
 
結局、これが沖縄戦に関する最初の戦記だった。

そして古川 成美著『沖縄の最後』こそが『鉄の暴風』のネタ本であった。

本職の牧港記者は執筆前に「戦記もの」に目を通していたが、記者としては素人の太田が執筆前に目を通していたのはトルストイの「戦争と平和」などの文学作品や、吉川成美著『沖縄の最後』を読んでおり、特に『沖縄の最後』については「文章が美しく、映画のシーンを見るような鮮やかな印象を与えられた場面がいくつかあった」などと文学青年の心情を告白していた。

つまり戦前からのベテラン記者牧港篤三をさしおいて、それまで米軍民政府の職員に過ぎなかった文学青年・太田良博に執筆を委ねた真意を、後に『集団自決の真実』を著した本職の作家曽野綾子は、「戦記というより文学作品」などと褒め殺しで、すでに見破っていた。さらに曽野は太田の対談で『鉄の暴風』の表現を「戦記というより講談の類」とこき下ろした。

さて、親川元帥とマッカーサー元帥マッカサ―元帥に話を戻そう

■親川元帥とマッカーサー元帥

私が中学時代の頃、同じクラスに親川ゲンショウという友人がいた。

親川君はどちらかというと目立たない少年であったが、あだ名は「元帥」と呼ばれていた。

あだ名の理由は彼の名がゲンショウ(漢字の名前は忘れた)と発音するので、当時戦勝国の英雄として著名なマッカーサー元帥の語呂合わせでゲンスイ呼ばれていた。

だが、親川君は口数も控えめで、少なくとも彼の言動が英雄的であったのではない。元帥と呼ばれたら何のためらいもなく返事をしていたほどだ。

その当時のアメリカの大統領はアイゼンハワーだったが、戦後わずか十数年しかた経っていない米軍統治下の沖縄ではあったが、かつての敵国アメリカの大統領アイゼンハワーの名は知らなくても、マッカーサー元帥の名を知らぬ者は居なかった。それ程マッカーサーの勇名は沖縄の少年たちの心をとらえていた。

マッカーサーが沖縄の少年にカッコよく映っていたのは、彼がGHQの最高司令官として軍用機バターン号で厚木飛行場に降り立った時の映像が、沖縄の少年の脳裏に英雄のように刷り込まれていたのだろう。

■マッカーサーと覇を競った従軍記者

想い出ついでに、当時の沖縄の中学生が英雄として尊敬した人物を挙げてみよう。沖縄戦で米海兵隊に従軍したアーニーパイル記者のことだ。

アーニーパイルは、沖縄に上陸して後、進軍の途中で見た沖縄の村の様子についてはこう書いている。
 「実際に見た沖縄は、アメリカの大抵の土地とさして変わりなかった。海兵隊にとってはここ三年見てきたどこよりもアメリカに似ていた。気候も熱帯というよりも温帯的で、植物もそうだった。海岸にはたぶんパンダナスの茂みと思われる熱帯植物もあるにはあるが、枝を水平に張っている樅の類が豊富に生えている。私のいた隊が最初の2日間に通過した村はきれいに耕されていた。海岸から小さな段々畠がなだらかに延びているところなどインディアナ州の、ものみなが乾燥しはじめて褐色を帯びる晩夏のころをまざまざと思わせた。」
 

4月16日、アーニーパイルは沖縄での最後の取材をするために、米海兵隊第77師団とともに伊江島に上陸した。

2日後の18日、アーニーパイルは連隊の指揮官とジープに乗って前線に向かった。
村はずれにさしかかったとき、道路脇の丘に隠れていた日本兵から機関銃の狙撃を受けた。ふたりはジープから転がり出て、傍らの溝にうつぶせになった。

やがて、辺りが静かになったので、様子を見ようとパイルが頭をあげたとき、再び銃弾を受けた。銃弾は鉄かぶとの縁の下から、アーニーパイルの左こめかみを撃ちぬいた。
従軍記者アーニーパイルは、こうして戦場で命を失った。44歳だった。

「同僚ならびに兵隊からも将軍からもひとしく愛された従軍記者アーニーパイルは、今朝日本軍の機関銃弾に左こめかみを貫かれ、ついに戦死した。アフリカから沖縄にいたるまでのあらゆる戦線から報道を書き送った有名な寄稿家の死は午前10時15分、司令部から約一哩前方であった。(琉球諸島、伊江島司令部にて)」(「ウルマ新報」4月18日発のAP電)


アーニーパイルが犠牲になった3日後、伊江島は完全に米軍の手に落ちた。

その後、彼が戦死した場所に墓標が建てられ、沖縄戦終了後の7月1日、米軍によって除幕式が行われた。

碑には、こう記されている。

「第77歩兵師団はこの地で、戦友アーニーパイルを1945年4月18日に失う」

アーニーパイル慰霊祭

今では沖縄県人でさえアーニーパイルの名を記憶している人は少ない。

ただ、内外の観光客で賑う現在の国際通りの真ん中に位置するテンブス館に辛うじてその名を留めている。

現在の那覇市テンブス館界隈に、「アーニーパイル国際劇場」という映画館あった。 そこから、国際通りの名前がついた。

当時は何もなかった国際通り周辺に、戦後の人々に娯楽を楽しんでほしいとの事から米軍政府と琉球政府の協力で民間会社がこの劇場を建設し、アメリカの従軍記者で第二次世界大戦中に沖縄地上戦で亡くなったアーニーパイルの名前を付け、「アーニーパイル国際劇場がある通り」から「国際通り」と呼ばれるようになった。

国際通り(向かって右が現在の県庁方面)アーニーパイル国際劇場

戦争中は鬼畜米英と言ってた敵国の総大将マッカーサーが復讐の年に燃えて日本占領を開始した。マッカーサーの巧妙な占領政策では世界に類を見ないほど成功を収めた。

日本国民はマッカ―サーを、戦前の軍国主義日本から日本を解放しに来た自由と民主主義の伝道師として敬意の眼差しで仰ぎ見た。 

そして、マッカーサーがトルーマン米大統領により解任され日本を去る時は日本国民がその占領政策に謝意を示した。

「マッカーサー様、ありがとう」と約40万通の 感謝の手紙を送り、マッカーサーに日本の首相に成って欲しいと懇願する国民もいたくらいだ。

さて沖縄の中学校で親川君が親川元帥と呼ばれていたころ、学校の授業では日米戦争の事をどのように教えていたか。

米軍は『鉄の暴風』を出版する前に、米軍の出版許可を必要とし、手始めにラジオ放送による川平アナウンサーの朗読で、一般県民の洗脳に取り掛かった。

マッカーサー率いるGHQの占領政策は、公職追放に絡む日本の「非軍事化」であった。だが切り札はもう一つあった。

それは民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。

これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。

言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。

GHQへの批判はもとより、占領軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。

GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙は競ってGHQの礼賛記事を掲載するようになった。

 
そう、GHQの公職追放は、沖縄の中学生にまで「マッカーサーは正義の味方」という情報を刷り込んでいた。

20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。

■「真相はこうだ」の沖縄版が「鉄の暴風」だった。

12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。

CIEの手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。

放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。

ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。

こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。

文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。

 

GHQ司令長官マッカーサーは、日本で行った「公職追放」は沖縄では実施しなかった。ところが後でわかったことだが、実は沖縄でも「公職追放」の影響を受けていたが、次の理由で「公職追放」実施を免れた。

マッカーサーは沖縄を永久占領し、米国の領土にする予定であった。

マッカーサーは沖縄を永久占領するため、これまで米軍統治下にのみ流通していたB軍票を米国本土と同じドルに切り替えた。

■「コーンパイプの煙幕」が半世紀後の中学生の精神に食い込んでいった。

マッカ―サのコーンパイプの「魔のけむり」による催眠効果は沖縄の中学生に持続していた。
「コーンパイプの魔のけむり」が、ボディブローのようにきいてきた時--アメリカという名の巨大な生き物が、日本の精神文化の隅々にまで浸透し、この島国の社会全体を被いつくしてしまった時でもあったのだ。

フィリッピンでは日本軍の猛攻に惨敗、部下を残して敵前逃亡を余儀なくされたマッカーサーが日本に初めて第一歩を刻むとき、マッカーサーは復讐の怨念に燃えていた。復讐の証拠は彼が日本軍に煮え湯を飲まされフィリピンのバターン地方の名を冠した「バターン号」にその怨念が表れている。

 マッカーサーは武器は拳銃一つすらも帯同せずレーバンのサングラスを着用、コーンパイプを手に、丸腰でバターン号から着陸用の階段を一歩降りて、辺りを睥睨した。 

その姿は歌舞伎で大見えを切る千両役者そのものであった。後でわかったことだがマッカーサー程他人の目を気にする人物もめずらしい。

■上司マッカーサーから「演技」を習ったアイゼンハワー副官」

7年間に渡ってマッカ―サの副官を勤め後の上司のマッカーサーを抜いて米国大統領になったアイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、次のように上司を褒め称えている。「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している。

■マッカーサーから「演技」を学んだアイゼンハウワー

その一方、アイゼンハウワーはマッカーサーの影の部分も指摘している。連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている。

アイゼンハワーの陸軍士官学校の成績は平凡で、卒業時、164人中61番だった。もし彼が旧帝国陸軍の軍人だったら、うだつのあがらない平凡な存在だったであろう。

陸軍士官学校を一位で卒業した誇り高きマッカーサーは、歴史の節々で有名な「殺し文句」を、後世に残している。

ここで日本でもよく知られているエピソードを紹介しよう。

先ず、フィリピンでの対日戦争を指揮したマッカ―サが日本軍の猛攻に敗北しオーストラリアへ敵前逃亡した時、誇り高きマッカーサーは面目丸潰れになった。

そこでマッカーサーは従軍記者を相手に次のような大見えを切った。

I shall return (必ずや私は戻るだろう)

この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の中で数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。

また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。

敵前逃亡で面目を潰したマッカーサーは、オーストラリアに逃亡し、再度フィリピンに上陸したとき、「I shall return.」を身をもって証明した。

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー

この時撮影された、レイテ島に上陸するマッカーサーの著名な写真は、当時フィリピンでも宣伝に活用されたが、これは実際に最初に上陸した時のものではなく、翌日に再現した状況を撮影したものである。 マッカーサーが上陸した地点では桟橋が破壊されており海中を歩いて上陸するしかなかったが、この時撮影された写真を見たマッカーサーは、海から歩いて上陸するという劇的な情景の視覚効果に着目し、再び上陸シーンを撮影させた。

アメリカ国立公文書館には、この時に船上から撮影された映像が残されており、その中でマッカーサーは一度上陸するものの自らNGを出し、戻ってサングラスをかけ直した後、再度撮影を行う様子が記録されている

 

マッカーサーの巧妙な占領政策は、表面では自由と民主主義を標榜しながら、実際は、「言論弾圧」、つまり「焚書坑儒」を実施した。

マッカーサーは日本占領に際し、数多くの占領政策を実施したがその詳細はここでは立ち入らず、最も日本に影響を残し現在でもその後遺症を引きづっている政策は、「公職追放」である。公職追放が戦後約70年経過しても、依然として日本人の心をむしばみ続けている事実を知ったら、当事者のマッカ―サは「日本人は精神的に13歳」と呟いて仰天しただろう。

■自由と民主主義を普及する正義の戦争

連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの主要な任務は、

戦争犯罪人の処罰

▽非軍事化

▽民主化-の3つだった。そこでマニラの極東司令官時代からの部下「バターン・ボーイズ」をGHQの要所に配し、権力をより固めた。

中でも信頼を寄せたのが、弁護士出身の将校である民政局(GS)局長、コートニー・ホイットニーだった。GHQ内で唯一マッカーサーとアポなしで面会でき、ほぼ毎夕1時間ほど面談した。

これにより、ホイットニー率いるGSはGHQ内で覇権を握り、主要な占領政策をほぼ独占して推し進めることになった。

だが、GSの「民主化」は急進的かつ社会主義的だった。戦前の政府要人や大物議員、財界人は「反動的」とみなして次々に公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れしたため、政界は混乱が続いた。

GSは、外相を経て首相となる吉田茂も敵視した。吉田の孫で、現副総理兼財務相の麻生太郎(75)はこう語る。

「祖父はマッカーサーとの信頼関係を醸成することでGSの介入を排除しようとしたんだな。ホイットニーに呼ばれても『わしはトップとしか会わんよ』と無視を決め込んでいたよ」

では、どうやって吉田は、気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか-。

× × ×

 
これに伴い戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーら知日派の「ジャパン・ロビー」が復権した。GHQ内ではGSと他部局の覇権争いがあり、23年10月の第2次吉田内閣発足時にはGSは力を失っていた。

占領政策は「民主化」から「経済復興」に大きく舵が切られた。だが、超緊縮財政を強いるドッジ・ラインで大不況となり、日本の本格的な復興が始まったのは、皮肉にも昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争により特需となったからだった。

× × ×

GHQの「非軍事化」「民主化」の切り札はもう一つあった。民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だ。

これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。

言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、進駐軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。

GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。

20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。

12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。

CIEの手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。

放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。

ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。

こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。

文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。

 

 マッカーサーは武器は拳銃一つすらも帯同せずレーバンのサングラスを着用、コーンパイプを手にバターン号から着陸用の階段を一歩降りて、辺りを睥睨した。 

その姿は歌舞伎で大見えを切る千両役者そのものであった。後でわかったことだがマッカーサー程他人の目を気にする人物もめずらしい。

■上司マッカーサーから「演技」を習ったアイゼンハワー副官」

7年間に渡ってマッカ―サの副官を勤め後の上司のマッカーサーを抜いて米国大統領になったアイゼンハワーはマッカーサー参謀総長の副官時代を振り返って、次のように上司を褒め称えている。「マッカーサー将軍は下に仕える者として働き甲斐のある人物である。マッカーサーは一度任務を与えてしまうと時間は気にせず、後で質問することもなく、仕事がきちんとなされることだけを求められた」「任務が何であれ、将軍の知識はいつも驚くほど幅広く、概ね正確で、しかも途切れることなく言葉となって出てきた」「将軍の能弁と識見は、他に例のない驚異的な記憶力のたまものであった。演説や文章の草稿は、一度読むと逐語的に繰り返すことができた」と賞賛している。

■マッカーサーから「演技」を学んだアイゼンハウワー

その一方、アイゼンハウワーはマッカーサーの影の部分も指摘している。連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長と順調に経歴を重ねていくアイゼンハワーは、ある婦人にマッカーサーを知っているか?と質問された際に「奥さん。私はワシントンで5年、フィリピンで4年、彼の下で演技を学びました」と総括したとも伝えられている。

アイゼンハワーの陸軍士官学校の成績は平凡で、卒業時、164人中61番だった。もし彼が旧帝国陸軍の軍人だったら、うだつのあがらない平凡な存在だったであろう。

陸軍士官学校を一位で卒業した誇り高きマッカーサーは、歴史の節々で有名な「殺し文句」を、後世に残している。

ここで日本でもよく知られているエピソードを紹介しよう。

先ず、フィリピンでの対日戦争を指揮したマッカ―サが日本軍の猛攻に敗北しオーストラリアへ敵前逃亡した時、誇り高きマッカーサーは面目丸潰れになった。

そこでマッカーサーは従軍記者を相手に次のような大見えを切った。

I shall return (必ずや私は戻るだろう)

この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の中で数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。

また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。

敵前逃亡で面目を潰したマッカーサーは、オーストラリアに逃亡し、再度フィリピンに上陸したとき、「I shall return.」を身をもって証明した。

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー

この時撮影された、レイテ島に上陸するマッカーサーの著名な写真は、当時フィリピンでも宣伝に活用されたが、これは実際に最初に上陸した時のものではなく、翌日に再現した状況を撮影したものである。

■歴史の皮肉『鉄の暴風』と『アメリカの鏡 日本』

敗戦国日本の新聞社沖縄タイムスが発刊した『鉄の暴風』が米軍の事を「人道的」と褒め上げたが、その一方戦勝国アメリカGHQの要因ヘレンミラーは書いた『アメリカの鏡 日本』は、日本では発売禁止であった。

『アメリカの鏡 日本』抄訳刊行にあたって

【占領が終らなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない】

(ダグラス・マッカーサー(1949年8月6日付書簡)

この本の原著『Мirror Àmericans:japan』がアメリカで出版されたのは、日本の敗戦後三年目、1948年(昭和23年)であった。

翻訳家・原百代氏はヘレンミアーズより原著の寄贈を受け日本での翻訳出版の許可を求めた。しかし、その望みは断たれた。翻訳出版不許可の決定が下されたのだ。

マッカーサーは上記書簡の中で、「私はいかなる形の検閲や表現の自由の制限も憎んでいるから、自分でこの本を精読したが、本書はプロパガンダであり、公共の安全を脅かすものであって、占領国日本における同著の出版は、絶対に正当化できない」と述べている。

そして米軍の日本占領が終了した翌年の1953年(昭和二十八年)、原氏の翻訳は『アメリカの反省』として出版された。

大東亜戦争をはじめとする近代日本の戦争は「野蛮で凶暴な侵略者」の日本と「自由と平和の守護者」米英露と中華連合国の戦いっていう単純化された歴史では無かったということである。

学校で歴史を教えてる教師や「戦争法案」とかレッテル貼する政治家はこういう本を読んでみるべきだ。

欧米流で合法的な国家運営をしようとしていた日本が、桁違いに凶暴な西欧帝国主義国家の狡猾さに翻弄された事実がはんめいする。無慈悲な殺戮に斃れた我らの祖父母は無念であろう。何故勝てない戦争をしたのか知りたい人は読むべきだ。

マッカーサー「占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない」 本書が日本の敗戦後、三年目にアメリカで発売されたものであることに驚いた。
開国から敗戦までの日本、何を学び何を誤ったのかが、かなり公正に書かれている。 訳者も書かれていたが、私もまた、悲惨で惨めに死んでいった日本人についての記述は泣きながら読んだ。 日本の戦争へ至った道のりに疑問を持つ人は是非、読んでほしい。
我々の父祖は決して、野蛮で好戦的な民族ではない。物事が起こるには、様々な理由があるのだ。
 
「近代日本は西洋列強がつくり出した鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ(326頁)」・・・1948年の出版時、マッカーサーにより翻訳出版が禁じられたという本。日本が満州事変、支那事変を経て真珠湾攻撃へと突き進むまでの経緯、中国をめぐるパワーゲーム、そして近代日本と欧米列強の関係性について冷静且つ緻密に分析されており、何より戦後すぐに‘米国人によって書かれた’という事実に驚かされた。‘法的擬制’、‘二重基準’、‘権益確保’、‘人種問題’等のキーワードでまとめてしまうには、深く重すぎる内容。必読。
 
■「公職追放」逃れた當間重剛・琉球政府主席

當間重剛・琉球政府主席は、初代那覇市長だった当間重慎の息子として沖縄県那覇(現・那覇市)に生まれる。

沖縄県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、1920年に京都帝国大学法学部を卒業。1939年に那覇市長に選出され、戦時中は大政翼賛会沖縄県支部長を務めた。 沖縄戦後には一転沖縄民政府行政法務部長を歴任し、1946年には戦前の市町村長経験者を市町村長に起用する米軍の特別措置に伴い再度那覇市長に就任。その後、琉球上訴裁判所首席判事を経て1953年に又吉康和市長の死去に伴う那覇市長選挙に出馬し当選。首里市や小禄村の合併を実現させ、比嘉秀平主席の急死に伴い1956年に琉球政府行政主席に就任した。

 

援護法と沖縄戦   沖縄タイムス『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくられた
2024-02-10 07:06:33 | 政治
 

マッカーサーの指令により刑務所から釈放されて沖縄出身の共産党員徳田球一の出身地である名護市のガジュマル公園には、功績を記念して市によって記念碑が建立されている。

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コメント (1)

石垣港湾ストで物流に被害 米艦船寄港に抗議

2024-03-21 05:47:31 | 政治

 

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【ゆっくり解説】あの後も沖縄タイムス阿部記者は変なことばかり言ってます…

 

石垣港湾ストで物流に被害 米艦船寄港に抗議

 

新たな反米運動となる懸念も

石垣港に寄港した米ミサイル駆逐艦「ラファエル・ペラルタ」(目撃者提供)

全日本港湾労働組合(全港湾)沖縄地方本部が、石垣市の石垣港で11日から3日間にわたり全面ストライキを強行し、八重山地域一帯で物流が滞るなど大きな被害が発生した。米艦船の同港への寄港に抗議する形でストが行われたが、同市の中山義隆市長は「適法な手順を踏んでいない」と批判。県労働委員会は関連法に規定されている「争議行為に当たらない」との見解を示しているが、政治的目的を行使するためのストだった場合、新たな反米・反自衛隊運動に利用されかねない懸念がある。(沖縄支局・川瀬裕也)

中山市長が違法性を指摘

県労働委「争議行為に当たらず」

全港湾沖縄地方本部は11日、那覇市内で会見を開き、米海軍ミサイル駆逐艦「ラファエル・ペラルタ」の石垣港湾区域内への停泊に伴い、荷役作業に当たる組合員の「安全を確保できない」などとして、13日の同艦船離岸までの間ストライキを実施すると発表した。同本部は昨年9月に米掃海艇が石垣港に入った際もストを実施しており、「争議行為は今回で2回目」だとしている。当初、石垣港に加え、那覇港(那覇市、浦添市)でもストを実施すると通告していたが、「労働者の安全確保に関する認識が共有できた」として見送られた。

同艦船停泊に関して同市の中山市長は、沖合での停泊であることや上陸方法などを確認した上で「安全性が確認できた」とし、法的に拒否する理由はないとして入港を許可した。

玉城デニー県知事は11日、この件に関して「緊急時以外の民間港の使用は自粛すべきだ」とコメント。日米地位協定では、米軍は申請すれば日本の空港や港湾などを利用することができるため、自粛要請にとどめた形だ。とはいえ、「こういう事態を招いてしまうことを米軍や防衛省はしっかり受け止めて」と、その矛先はしっかりと米軍と政府に向いている。

地元紙なども「住民脅かす軍事施設化(3月13日付八重山毎日新聞社説)」などと見出しにとり、猛烈に批判した。

品薄になったスーパーの写真と共にスト解除を求める投稿(現地在住者と思われるアカウントによるXの投稿より)

一方で、ストの強行に伴い石垣島や宮古島など、八重山地域のスーパーなどでは一部の生鮮食料品が品薄となり住民生活に影響が発生。SNSなどでは、空になった商品陳列棚の写真と共にストの解除を求める投稿が相次いだ。

これらの動きを受け、石垣市議会では12日、ストの即時解除を求める要請決議が賛成多数で可決され、同日全港湾沖縄地方本部に送付されたが、事前の告知通り、ストは13日まで続けられた。

中山市長は14日の記者会見で、一連のストについて、労働関係調整法に違反しており、「適法な手順を踏んだものではなかった」と語った。同法では、公益事業の従事者が争議行為を行う場合、10日前までには県労働委員会および厚生労働相または都道府県知事にその旨を通知しなければならないと定められている(37条)。しかし、この点について市が県労働委員会事務局に問い合わせたところ、ストで必要となる事前の通知が無かったことを確認したという。

ストによる商品の未入荷を謝罪する張り紙(SNSより)

これを踏まえて、市が適切な対処をするよう求めたが、県労働委員会は同ストについて、「中央労働委員会事務局および厚生労働省との同一見解のもと、労働関係調整法に規定されている争議行為に当たらず、一連の手続きも不要」と市側に回答したという。

中山氏は、争議行為(スト)自体について、憲法28条(勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利)により保障されている正当な権利として認めることに異論はないとした上で、今回の石垣港湾のストについて「正当な争議行為に当たるかどうかは最終的には司法の判断」だとしながらも、仮に正当な争議行為に当たらなかった場合、デモや抗議活動の一環として、憲法が保障する「表現の自由」の範疇(はんちゅう)となり、「公共の福祉のため必要かつ合理的な制限を受けるものと認識している」との見解を表明。

その上で中山氏は、今回のストによって貨物船の荷役作業が止まり、島々の物流が混乱したとして、「政治的な闘争を背景にした住民生活を盾に取るストライキは、今後、厳に慎んでいただきたい」と訴えた。

ストの目的は「有利な労働条件を確保することを目指す」と定められている。もし特定の政治目的を行使するために強行されたのであれば、新たな「反米軍・反自衛隊運動」として利用されかねない懸念がある。その点も踏まえ、今回のストについて検証する必要がありそうだ。

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【電気自動車】米テスラの株安止まらない 直近ピークから5割下落 EV市場減速

2024-03-21 04:24:00 | 政治

 

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助けて!テスラの株価下落が止まらず50%減少する異常事態に!EVはオワコンなのか【ゆっくり解説】

 

2024年03月20日

 

【電気自動車】米テスラの株安止まらない 直近ピークから5割下落 EV市場減速

1 名前:ぐれ ★:2024/03/20(水) 07:20:35.17 ID:I01u8+GD9.net
※3/18(月) 13:35配信
時事通信

 【ニューヨーク時事】米電気自動車(EV)大手テスラの株安が止まらない。

 世界的なEV市場の減速懸念などを背景に、2023年夏に付けた直近のピークから5割弱も下落した。一時期は半導体大手エヌビディアなどとともに米相場をけん引する「マグニフィセント・セブン(壮大な7社)」と呼ばれたが、その称号を失いつつある。

引用元
https://news.yahoo.co.jp/articles/0e8ca85e2e5b4f149a09f50768d4a58ea6933103
2: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:21:48.92 ID:ezjtv4DG0
だってトップが

3: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:22:06.46 ID:aKjTRnL/0
EVは不便だからね

10: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:30:58.47 ID:QQWs7vvx0
トヨタ頑張れ

4: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:22:06.81 ID:LJvaxgpU0
欧米か

7: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:26:40.84 ID:Jrs/SK9j0
ついにアメリカのバブル弾けたか

11: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:32:30.52 ID:HK3bN4ZL0
もしかして買い時ジャマイカ

12: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:32:54.97 ID:zHUXFZoV0
元のガレージハウスへ

13: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:33:54.57 ID:u+Lpllym0
やっぱりトヨタスゲーッて思っちゃうわ好きじゃないけど

14: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:33:57.06 ID:SNz6rwde0
バッテリーが次のレベルまで発達しないと
限界なんでないか

15: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:34:10.05 ID:i1IfuA5M0
高かったテスラ車の下取り価格大暴落か
ザマァ

17: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:34:58.25 ID:PVh9IG9i0
半額でも高い

18: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:35:55.77 ID:ys9zG7rP0
3万キロ超えて走ってたら爆発とかしないのかな?近くにいたら怖い

19: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:36:22.28 ID:4QVqNdiL0
常に電欠のこと考えながら運転する車なんて少なくとも内燃車が無くなるまで絶対に買わない。

20: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:36:49.26 ID:HCwMbJL+0
全員が使ったら充電施設がパンクするから利用率が低くないと機能しない意味不明な構造

23: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:38:00.82 ID:fag8PuLs0
どうにも止まらない♪

25: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:38:23.66 ID:BGphASsh0
またXは身売りか

27: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:39:17.78 ID:ZaKWnwzA0
高品質で真面なバッテリーを積んだEVを販売しようとすればEV価格は現状の販売価格の数倍数十倍になる
これが真実

28: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:40:22.23 ID:ZDDFfWa90
中国共産党にいいように使われて捨てられた存在

30: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:41:33.61 ID:Y6OtwQws0
おまえらトヨタの株買っておけ
世界の自動車産業を牛耳るレベルで一人勝ちだぞ

31: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:42:07.04 ID:IjjXuKaL0
テスラというかEVもつのはそんなに悪くないと思う
お買い物車として近場で使うことと家に発電施設あれば

32: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:42:10.63 ID:9S0MEUfo0
EVとかだけじゃなくて自動運転とかのソフトへの期待を込めて株を買ってたのもいたんだろうけどな

33: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:42:17.47 ID:HCwMbJL+0
どんどん利用者が増えていくってモデルが欺瞞
金あるやつともの好きが買えただけでそれ以上は広がらん。

43: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:45:18.64 ID:PIEOlzBz0
EV路線は悪くないが技術が追い付いとらん30年後に期待やw

50: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:48:21.50 ID:gQzVtYaT0
そりゃまあEV車はノルウェーで大失敗したしなあ
上がるわけ無い

52: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:49:26.66 ID:ys9zG7rP0
今半額ならマスクは売り終わってるな

62: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:57:06.03 ID:GmS1WJzZ0
もうEVはテスラと中国EVしか生き残らないと思うわ
そのテスラですらBYDに負けると思う

64: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:57:35.95 ID:5xK66vu00
韓国がEV陣営に付いた時点で法則不可避だった

65: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 07:57:48.14 ID:tY+Zy7t+0
中古が出回ってきたらこうなるわな

69: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:00:31.21 ID:2AHnGpGc0
自宅駐車所持ってない人は買わんだろ

86: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:11:58.52 ID:kL8KAll90
イーロンマスク終了のお知らせ

104: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:25:51.39 ID:U50W1zoX0
営業利益 テスラ 1.3兆円 トヨタ 4.2兆円
時価総額 テスラ 80兆円 トヨタ 60兆円

どっち買う?

120: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:37:51.29 ID:BNnbA/0v0
ちなみにトヨタの時価総額はこの円安にもかかわらず、最近サムスンを超えた
サムスンを上回るのは俺の記憶ではここ10年はなかった

131: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:40:53.75 ID:YyQqZbvO0
ここで買えるやつが勝つ

137: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:43:01.52 ID:BIDSKgw00
でしょうねとしか
でも地域によってはいいんじゃないの?EV

138: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:43:23.28 ID:kgBKOA5R0
こうなるともう止まらねえな😙

145: アフターコロナの名無しさん 2024/03/20(水) 08:46:14.58 ID:BNnbA/0v0
テスラは最初から一貫した思想で車作り続けてるから生き残ると思う
むしろざまあみろと思うのはEVシフトにわかにはじめて今ハシゴはずされてる欧州メーカーだな
VWとか


元スレ:https://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1710886835/0-
 
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