狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

尊富士、出場し自力優勝!尊富士 110年ぶり新入幕優勝が目前に!黒星喫した日にまさかの人物から電話が…目標にしている人から放たれた言葉とは一体!?自分の後輩

2024-03-24 14:24:44 | 政治

 

 

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尊富士 110年ぶり新入幕優勝が目前に!黒星喫した日にまさかの人物から電話が…目標にしている人から放たれた言葉とは一体!?自分の後輩

 

大相撲 横綱照ノ富士が尊富士に愛のブチ切れ「忘れてるかなと思って」筋トレ敢行で激怒→忠告守り十両優勝

 カンテレで28日未明、「ジャンクSPORTS」が放送され、「どすこい!新世代オールスター」で将来の横綱、大関を担う若手力士たちが出演。1月場所で十両優勝を果たし、春場所で最速タイの新入幕を果たした尊富士は伊勢ケ浜部屋の先輩で横綱・照ノ富士にブチ切れられた事件を明かした。

 ベンチプレス220キロなどウエートトレに力を注いでいた尊富士。1月場所前に照ノ富士から「急に『上半身のトレーニングをするな。四股とすり足だけをやれ』って言われて。数日後に忘れてるかなと思って筋トレしてたらまたブチ切れられて」と明かした。

 浜田雅功から「本気で?」と聞かれ「本気です。冗談じゃないです」と言い切った尊富士。番組内で張り合っていた各界の筋肉番長を自負する朝紅龍から「じゃあやめた方がいい」とアドバイスされスタジオは笑いに包まれた。

 ここで豊ノ島さんが「横綱自身もケガで苦しんだから、下半身の基礎をしっかりしろっていうことなんだと思います」と助言すると、尊富士も「はいそうです」と納得の表情。ブチ切れ事件もあって「先場所は四股とすり足だけやって筋トレまったくやらなかったら、優勝しちゃいました」とドヤ顔。これに浜田は「今の、腹立つわ。これカットや」と語っていた。

 

【おまけ】

12月20日発売の月刊willに『沖縄「集団自決」の大ウソ』が掲載されました

◎沖縄
■江崎孝…「集団自決」の大ウソ

 
 
 

読者の皆様へ

『沖縄「集団自決」の大ウソ』の増刷が完成しました。ご注文次第発送できます。ご注文の方は下記要領でお申し込みください。

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村上末子氏による土地所有権確認等請求事件 第一次訴訟

2024-03-24 04:45:43 | 政治

 

 

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倉林朋子「日本共産党」砲が岸田文雄に炸裂❗汚職の黒幕は森喜朗と暴露され顔面真っ青

数ある法律関連案件で、逮捕は本人の自由を奪う最重要案件。

「疑わしきは罰せず」の原則にも違反するし、何より憲法違反の恐れさえある。

久高氏の唯一の「物的証拠」が「切り張り」した「ありがとう」の音源が一つだけというのも曖昧である。

仮に久高氏の逮捕が適法なら、森喜朗元首相も逮捕すべきではないか。

                 ★

逮捕人権侵害の最たるもの。

逮捕状⇒自動発券機⇒98・8%は

県警、久高被告を追送検へ 前那覇市議長 政活費詐取疑い

 
2024年1月17日 4:57有料

 那覇市有地の所有権を巡る贈収賄事件で、現金計5千万円の賄賂を受け取ったとして収賄罪で起訴されている前那覇市議会議長の久高友弘被告(75)について、県警は17日にも政務活動費を一部不正に受け取ったとする詐欺容疑で追送検する方針を固めた。捜査関係者への取材で分かった。久高被告は逮捕前の本紙取材に事実関係を認め、市に返還している。

 県警は昨年10月、業務実態のない人件費100万円以上を不正受給したとみて、久高被告の関係先を家宅捜索した。これを皮切りに、贈収賄事件の捜査も本格化した。

 同市の政務活動費は、各市議が調査研究などの必要経費として年間108万円を受け取り、使い切らなかった場合は返還すると定められている。

 久高被告の政務活動費収支報告書などによると2017~20年度の4年間、知人女性を運転手などとして雇用したとする人件費を毎年48万円計上していた。だが実際には女性の稼働実態はなく、虚偽に申告された人件費は計192万円に上ったという。

 久高被告は本紙の取材に「女性に金を貸していたため、女性の雇用経費を計上し、それを私が受け取ることで返済した形にしていた」と説明した。

 昨年10月に捜索を受けた久高被告は、政務活動費の詐取を大筋で認めて議員辞職。その後議会事務局に192万円を返還したが、翌11月に収賄容疑で逮捕された。

 


 
(資料写真)前那覇市議会議長の久高友弘氏をブルーシートで覆い、久高氏の自宅マンションから出る捜査員=2023年11月15日、那覇市三原
(資料写真)前那覇市議会議長の久高友弘氏をブルーシートで覆い、久高氏の自宅マンションから出る捜査員=2023年11月15日、那覇市三原

議長室で現金5000万円授受 「ありがとう」録音データに声 那覇市有地巡る贈収賄事件 音声が残った理由は

 
2023年12月14日 9:40有料
社会・くらし

 那覇市有地の所有権を巡る贈収賄事件で、2021年2月に市議会議長室で現金5千万円の授受があった際のやりとりを録音した音声データが存在していることが13日、関係者への取材で分かった。当時那覇市議会議長だった久高友弘被告(75)=収賄罪で起訴=が、「ありがとう」などと現金提供のお礼とみられる言葉を話していることも判明。県警は録音データを押収し、把握しているもようだ。

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 民間人女性が所有権を主張する土地は、那覇市おもろまちの市上下水道局の敷地や安里配水池の一部、市上之屋の泊配水池を・・・
www.okinawatimes.co.jp

 複数の関係者によると、贈賄容疑で逮捕・起訴された会社役員の被告(70)が周囲に気付かれないよう、録音していたという。

 会社役員の被告は久高被告らへ渡す5千万円を知人から「出資」との形で借り受けていた。録音したのは、知人から借りた現金を着服せず、間違いなく手渡したことの証拠にするためだった可能性があるという。

 関係者によると、他にも会社役員の被告は、現金供与の趣旨について「議会対策」などとメモに記していたという。このメモは同じく贈賄罪で起訴された元総会屋の被告(80)と電話でやりとりした時のものとみられるという。

 会社役員の被告は調べに当初否認していたが、その後容疑を認めた。13日に保釈が認められている。

今回は、以下の二つの資料をまとめました。
那覇市の昭和の初期からの水道事業についてと
私有地を掠奪したと思われる米軍政府公文書の改ざんについて

あくまで状況証拠でしかありません
しかし、池宮城氏の土地である可能性がこれほどあり、
那覇市の物だとする証拠が無いのですから、那覇市は黄金森公園等の市有地を返す英断すべきだと思います。

後、時間が取れましたら、那覇市が土地の登記を後代の人々が追跡出来ないように換地と称して、過去の地番・番地を消し去り、土地を飛ばしてバラバラにした資料を作成する事に致します。

また、池宮城氏が12000坪もの土地を購入した経

 

村上末子氏による土地所有権確認等請求事件 第一次訴訟
池宮城必達市の曾孫、村山聡の妻末子が原告 相手那覇市
平成 15 年(ワ)第 1562 号土地所有権確認等請求事件
平成 15 年 12 月 9 日平成 16 年 1 月 8 日
平成 16 年 12 月 20 日第 6 回弁論にて結審
控訴審 平成 17 年
判決平成 18 年 5 月 30 日(結審 4 月 20 日)
池宮城必達氏は、大正 13 年から 14 年当時大城兼義氏より 850 円にて土地を取得。
長女繁子昭和 19 年 8 月 10 日贈与を受ける。(必達氏が東京へ疎開する前に書いた財産目録)
琉球政府法務局臨時土地調査局より池宮城薫子宛に対象地 4 筆の 1954 年(昭和 29 年) 4 月
1 日から 6 月 10 日までに土地調査をする知らせの葉書あり。同年 12 月 10 日池宮城繁子が
対象土地 4 匹の土地を法務局で名義変更する手続きを母(村山貴子)に委任した委任状あり。
登記済権利書池宮城繁子が那覇地方法務局で登記したことを証明する登記済み権利書あり。
住所:浦添市屋富祖 279 番地
孫娘村山貴子昭和 21 年 8 月 10 日贈与約束する
住所:那覇市松尾 2 丁目 8-13
現在、那覇市寄宮 2 丁目 30-65
裁判には、真和志村住民により土地が池宮城氏の物であるとしているとの事。
(資料は裁判所保管の為未確認)
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「那覇市水道 50 年史」 昭和 58 年 12 月 15 日発行
478 ページから 482 ページに泊まり水場譲渡証書あり
「琉球民政府により或は、それを通じて活動している米合衆国は、琉球列島沖縄那覇市に対
して、ここにその所有権に関する条件、あるいは保証なしに下記の財産を譲渡します」と始
まって、その最後に「本譲渡は、琉球列島沖縄那覇市により次の誓約がなされることを考慮
に入れて行われる。米合衆国代理機関代理人使役者雇用者が行うこの上記財産の建設、占有、
使用及び、それら造営物のある土地によって起こる或は関係する如何なる方法の請願要求に
対しても、例えそれが本譲渡の日付の前に起こったものであろうと、後に起こったものであ
ろうとを問わず、全て、それらの請願要求に対しては無実であるように永久に防護せられな
ければならない。本書は、以下、那覇市による受諾がなされなければ、いかなる目的に対し
ても無効である。以上の承認署名として、米合衆国のために活動している琉球列島米国民政
府は本書を署名して、本日 1954 年 3 月 30 日に那覇市に対し交付いたします。
署名:ジェーエンゲルゾン、琉球民政府責任財産係将校
署名:チャーレス、ヴィ、ブラムリ米国陸軍准将
署名:那覇市長当間重剛によって
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泊浄水場返還式典
1953 年(昭和 28 年) 12 月 21 日午後 3 時 30 分から
場所 泊まり水場の沈殿池前に設けられた式場
軍官民の招待客 200 人から 300 人が列席。当間重剛那覇市長、市議会議長並びに市議会議
員等が参列。レセプションは式典の後、琉球ホテルに移して賑やかに行われた。
参考書籍
「那覇市水道 50 年史」(478 ページから 482 ページ)
沖縄の水 (42 ページから 47 ページ) 著者:金城義信:昭和 35 年琉球大学卒、沖縄米
軍水道局勤務、石川浄水場長。琉球水道公社浄水課長等
沖縄では、敗戦後、水道のほとんどを米軍が管理し、その後、米国の管理課の琉球、水道公
社が水源から浄水場、槽水館まで所有運営する形態になり、市町村は水道公社から用水の供
給を受けて、水道事業を運営していた。
昭和 37 年に泊浄水場を拡張することになる。
着工。昭和 37 年 3 月
竣工 昭和 38 年 4 月
特徴円形アクセレーターの導入設置
走行費 85 万ドル、
施設能力 22,000/日(従来の施設の 2 倍)
これにより那覇市の水道施設は急速に整備され、合わせて業務量の増加に伴って、水道部の
気候も充実されてきたと記されています。
詳細
(1)米軍統治時代の変遷概要、
1945 年(昭和 20 年) 4 月、米軍の沖縄上陸により、わが国に唯一の激しい地上戦になった。
沖縄は米軍に占領され、その結果、日本政府による行政権は停止されたこの時から 1972 年
5 月(昭和 47 年)の本土復帰に至るまでの 27 年間にわたって米国による沖縄統治が始まっ
た。
米国による沖縄統治の形態は、具体的には次の 3 つに区分することができる。
第 1 期は、米軍の沖縄上陸から、日本の降伏までの約 4 ヶ月間体第 2 期は、日本の降伏か
ら平和条約の成立までの約 7 年間である。(1945 年 8 月 15 日から 1945 年 4 月 28 日まで)
つまり、ポツダム宣言に基づく連合国の占領管理課で、沖縄は行政分離覚書書によりアメリ
カの直接管理下に置かれたのである。その間に「琉球列島米国民政府に関する指令」1910 年
12 月 5 日が出され、軍政府から有給列島米国民政府(USC AR)が発足した。また 1952 年 4
月 1 日には、これまでの臨時中央政府や群島政府に代わって「民政府布告第 13 号」により、
琉球の中央政府として琉球政府が設立された。
その結果、立法、行政、司法の 3 つの期間が創設された。
第 3 期は、平和条約成立後からホンダ復帰までの約 20 年間である。(1952 年 4 月 28 日か
ら 1912 年 5 月 15 日まで)
その間に琉球政府の行政の最高責任者として、比嘉秀平、当間重剛、太田政作、松岡政保、
屋良朝苗の 5 人が琉球政府主席として就任している。
また、1957 年 6 月 4 日には「有給列島の管理に関する要請命令」が出され、高等弁務官制
が実施され、温度復帰までの 14 年間に 6 人の高等弁務官が君臨した。この高等官の布令に
基づき、金融、電力、水道等の公益機関が誕生し、琉球統治の体制が次第に確立されていく
ことになる。
(2)那覇市の水道事業
わが国で唯一の地上戦となった沖縄では、大多数の水道施設が戦災によれ灰塵わにしてしま
った。
終戦後の沖縄住民の水事情は、極めて厳しく、生活用水については、以前のように、昔の井
戸水や天水に頼らざるを得なくなってしまったのである。
県下で最も古い水道事業の歴史を持つ那覇市においては、昭和 19 年 10 月 10 日の大空襲に
より、死の 90%が破壊され、その結果、水道施設も壊滅的な打撃を受けた。その後 7 年間に
わたって水道の空白時代があるが、昭和 26 年 10 月には Siri の湧水を水源とする簡易水道
によって、やっと 1 部地域に給水が開始されたのである。しかし、これとで不十分な水量の
ため、水不足の暖和策としては、市内の既設米軍用の排水管から分譲水を譲り受けて、これ
を市民に供給するといった状態であった。
首藤那覇市における水道の復旧状況が、以上のような状況であったので、その他の市町村に
おける水事情等は推して知るべき状況であった。
特に、那覇市が本格的な水道の債権ができ、た背景には、主要水道施設であった泊浄水場や
牧港ポンプ場等が米軍に占領され、米軍の占用施設となってからである。
この泊浄水場の那覇市への変換については、私の財産、採子の返還要求の結果 1954 年(昭和
29 年) 3 月 30 日に正式に変換された。
一方、昭和 29 年 9 月から昭和 39 年 12 月にかけて、那覇市は首里市、小禄村、真和志市と
の合併が実現したため、市域の拡大に伴って人口も増加し、一躍 18 万 6000 人余りの人口
を抱える都市となり、水道の需要も必然的に増大してきた。その結果、自己水源による不足
分を米軍から購入する。浄水で賄っても、なお、渇水器の需要を満たすことができず、1 部
地域では給水制限を実施するなど、水は深刻な状態となってきた。その対策として自己水源
の開発と浄水施設の拡張が計画され、昭和 35 年には首里の西森に浄水場を新設する計画を
立てたが、当時の米国民政府は既設の泊浄水場を拡張すべきであると主張し、新設案には大
反対し、かつそれに対して融資は一切できないとしてきた。その結果泊浄水場を拡張するこ
とにした。
...
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土地所有権に関する登録手続きについて
1946 年 2 月 28 日米海軍軍政府本部指令第 121 号
土地所有権申請には①~③がセット
① 土地所有権申請書
字、小字、原名、地番、地目、地積、等級,適用
申請人の住所、氏名
申請する土地の隣接地主 2 名が保証人となる署名捺印が必要。
② 前土地所有者申告書 氏名と住所
③ 見取り図
1950 年(昭和 25 年) 4 月 14 日発布の米国軍政府本部特別布告第 36 号「土地所有権証」
第 3 条
所有権申請人の申請書原本に含まれる資料及び申請人が所有権を承継した前所有者の氏
名及び取得の日付に関する申請人の申述に基づいて問題がなければ、当該財産の位置を記
述する申請人の原図が現時点での状況等を比較し相違点を指摘する註と共に未記入証明
書用紙の空白部分に記入する。その後、署名を除いて、完成された土地所有権証明書は一
括保存し、公示を持って 30 日間一般の縦覧に供される。
第 4 条「1 点土地所有権証明を公示して、縦覧に供した後、各証明書にまたは争いがない限
り村長はこれを承認して、署名捺印をし申請人たる土地所有者に交付しなければならない。
2.証明書原本により通知用謄本 3 通を作成し、その 1 通には表面に「土地登記所」と明記
し、他の 1 通には「税務署」さらに他の 1 通には「中央土地事務所」と記入、市町村長は
各通を表示された関係庁に送付する」
通知用謄本に必要なもの
1 所有者氏名及び所有者住所
2 所有権取得経路
① 旧所有者氏名(前所有者氏名)
②旧所有者住所(前所有者住所)
③所得期日(年月日)
罰則条項 第 13 条「事情を承知しながら、また恋に不正の人生を主張して、土地所有権証
明書を取得したり、土地所有権証明書の発行に関連して、恋に虚偽の陳述または申請をな
すものは、5 万円以下の罰金または 2 年以下の懲役に処せられる。
布告:沖縄列島軍政府長官米国陸軍少将ジョセ・R・シーツ
1952 年 12 月(昭和 27 年 12 月)に土地所有権証明書を交付。
1953 年(昭和 28 年) 12 月 21 日午後 3 時 30 分から 泊水場の沈殿池前に設けられた式場に
て泊浄水場返還式典、レセプション。
1954 年 3 月 30 日泊浄水場譲渡証書交付
琉球民政府責任財産係将校 署名、
米国陸軍准将 署名
那覇市長 当間重剛 署名
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偽造文章
指令 121 号指定を改竄している。
1950 年 4 月 14 日のシーツ命令書米国軍政府本部特別布告第 36 号に違反しており、これが
明らかにならば、5 万円以下の罰金、または 2 年以下の懲役に処せられるもの。
この偽造文書は、那覇市編集発行の「那覇市史」202.209 頁にも掲載されている。
1946 年 4 月 18 日沖総土第一号
各市町村、長殿の宛
諮詢会総務部長:又吉康和
土地調査に関する件
土地調査に関する件」の(10)の(ロ)地主不明。または保証人選定不能の場合は、字土地所有
権委員をして保証人たらしめることを得」と言う規定を改竄した文章を刺し入れている。
真和志村はこれを少しアレンジして、さらに独創的な事務準備、部落おける事務処理と言う
表題をつけた文章を以下のように作っている
1946 年 7 月 10 日
真和志村土地調査実施要項
村長:金城和信
(遺骨収集、慰霊碑建立、遺族連合会活動からこの偽造文章は何者かの指示と思われる)
1946 年(昭和 24 年) 4 月 5 日、沖縄全地区市町村長協議会にて沖縄県知事志喜屋孝信宛陳情
書には、土地所有権認定促進に関する陳情
真和志村の手数料問題のとき、面白からざる紛争について触れられています。
(一筆につき、30 銭の初期量を徴収すること)
イ、各字委員会に土地所有権申請取扱書記を置き、土地所有主と細密合議の上、申請書作成
を担当させる。この場合からは一筆につき、金 30 銭の書記料を徴収すること。
ロ、各字土地所有権調査委員は事務完了するまで調査。事務一切を担当するほか、現地調査、
小字別図面の作成に従事するものとする。委員の数は村長に於いて定める。
ハ、からチまで省略
全真和志村の土地所有権申請書約 15,000 筆の全てに隣接地主が 2 人保証人の署名が無く、
(署名は同一の土地調査委員によるもの)
その土地の前所有者の氏名住所が記されていないとの事。池宮城氏の土地は広く、多くの隣

 

 

那覇市の水道事業と私有地掠奪に至るまでの状況
沖縄では、敗戦後、水道のほとんどを米軍が管理し、その後、米国の管理下の琉
球水道公社が水源から浄水場、配水管まで所有運営する形態になり、市町村は
水道公社から用水の供給を受けて、水道事業を運営していた。那覇市は昭和の 5
年から水源を求め宜野湾村の大山地域からの取水をすべく、地域地主から土地
の買収を試みるも地域田芋農家等からの激しい反対に阻まれる。当時の那覇市
助役の当間重剛氏(後に那覇市長、裁判官、琉球政府主席)等が土地収用法の適
用を政府に求めて強引ともとれる手法でこれを取得して、宜野湾、浦添、真和志
を経由する水道工事を完成し昭和 8 年 9 月に給水を開始した。当時の那覇市の
人口は約 7 万人。
この時に真和志村字天久に沈殿池(浄水場用地と通路)として取得した那覇市
の土地は 4,092 坪でした。
戦後侵奪されたという池宮城必達氏の土地は、この周辺の現在数棟の高層マン
ションや総合病院、住宅、公園となっている地域で当時は黄金森や高真佐理森
(タカマサイ)を含めて 12,000 坪あったとされています。(当時、池宮城氏が
生業としていたのは、この二つの森から採れる薪売りでした。近所の子供たち
の遊び場でもありました)
参考文献「沖縄の水」著者:金城義信 (42 ページから 47 ページより)
昭和 35 年琉球大学卒、沖縄米軍水道局勤務、石川浄水場長。琉球水道公社浄水課長、本土
復帰後沖縄県排水課長、設計計画課長、水道技術管理者等歴任
(1)米軍統治時代の変遷概要、
1945 年(昭和 20 年) 4 月、米軍の沖縄上陸により、わが国唯一の激しい地上戦に
なった。沖縄は米軍に占領され、その結果、日本政府による行政権は停止された
この時から 1972 年 5 月(昭和 47 年)の本土復帰に至るまでの 27 年間にわたって
米国による沖縄統治が始まった。
米国による沖縄統治の形態は、具体的には次の 3 つに区分することができる。
第 1 期は、米軍の沖縄上陸から、日本の降伏まで(1945 年 4 月から 1945 年 8
月)の約 4 ヶ月間
第 2 期は、日本の降伏から平和条約の成立までの約 7 年間である。(1945 年 8 月
15 日から 1945 年 4 月 28 日まで)つまり、ポツダム宣言に基づく連合国の占領
管理課で、沖縄は行政分離覚書書によりアメリカの直接管理下に置かれたので
ある。その間に「琉球列島米国民政府に関する指令」1910 年 12 月 5 日が出さ
れ、軍政府から有給列島米国民政府(USC AR)が発足した。また 1952 年 4 月 1
日には、これまでの臨時中央政府や群島政府に代わって「民政府布告第 13 号」
により、琉球の中央政府として琉球政府が設立された。その結果、立法、行政、
司法の 3 つの期間が創設された。
第 3 期は、平和条約成立後からホンダ復帰までの約 20 年間である。(1952 年 4
月 28 日から 1972 年 5 月 15 日まで)
その間に琉球政府の行政の最高責任者として、比嘉秀平、当間重剛、太田政作、
松岡政保、屋良朝苗の 5 人が琉球政府主席として就任している。
また、1957 年 6 月 4 日には「琉球列島の管理に関する行政命令」が出され、高
等弁務官制が実施され、本土復帰までの 14 年間に 6 人の高等弁務官が君臨し
た。この高等弁務官の布令に基づき、金融、電力、水道等の公益機関が誕生し、
琉球統治の体制が次第に確立されていくことになる。
(2)那覇市の水道事業
わが国で唯一の地上戦となった沖縄では、大多数の水道施設が戦災によれ灰塵
してしまった。終戦後の沖縄住民の水事情は、極めて厳しく、生活用水について
は、以前のように、昔の井戸水や天水に頼らざるを得なくなってしまったのであ
る。県下で最も古い水道事業の歴史を持つ那覇市においては、昭和 19 年 10 月
10 日の大空襲により、市の 90%が破壊され、その結果、水道施設も壊滅的な打
撃を受けた。その後 7 年間にわたって水道の空白時代があるが、昭和 26 年 10
月には首里の湧水を水源とする簡易水道によって、やっと一部地域に給水が開
始されたのである。しかし、これとで不十分な水量のため、水不足の暖和策とし
ては、市内の既設米軍用の配水管から分譲水を譲り受けて、これを市民に供給す
るといった状態であった。
首都那覇市における水道の復旧状況が、以上のような状況であったので、その他
の市町村における水事情等は推して知るべき状況であった。
特に、那覇市が本格的な水道の再建ができた背景には、主要水道施設であった泊
浄水場や牧港ポンプ場等が米軍に占領され、米軍の占用施設となってからであ
る。
この泊浄水場の那覇市への返還については、市の再三再四の返還要求の結果
1954 年(昭和 29 年) 3 月 30 日に正式に変換された。
一方、昭和 29 年 9 月から昭和 39 年 12 月にかけて、那覇市は首里市、小禄村、
真和志市との合併が実現したため、市域の拡大に伴って人口も増加し、一躍 18
万 6000 人余りの人口を抱える都市となり、水道の需要も必然的に増大してき
た。その結果、自己水源による不足分を米軍から購入する浄水で賄ってもなお、
渇水期の需要を満たすことができず、一部地域では給水制限を実施するなど、水
は深刻な状態となってきた。その対策として自己水源の開発と浄水施設の拡張
が計画され、昭和 35 年には首里の西森に浄水場を新設する計画を立てたが、当
時の米国民政府は既設の泊浄水場を拡張すべきであると主張し、新設案には大
反対し、かつそれに対して融資は一切できないとしてきた。その結果泊浄水場を
拡張することにした。
昭和 37 年に泊浄水場を拡張することになる。
着工:昭和 37 年(1962 年)3 月
竣工:和 38 年(1963 年)4 月
特徴円形アクセレーターの導入設置
総工費:85 万ドル、
施設能力:22,000 ㎥/日(従来の施設の 2 倍)
これにより那覇市の水道施設は急速に整備され、合わせて業務量の増加に伴って、水道部の
機構も充実されてきたと記されています。
沖縄戦終結後に米軍の進駐そして駐留。施政権が米軍政府となり、戦争で失われ
た土地の所有権の登録が米軍政府の指導で始まります。これが、1946 年 2 月 28
日海軍軍政府本部指令第 121 号及び特別布告第 36 号に基付き土地所有権申請
手続きが翌 47 年から開始されます。その時に住民との取次を行った諮詢会(米
軍防諜隊CIC丸元正二中尉の下に沖縄の諜報部員が多数)総部長又吉康和氏
は、他の市町村とは異なる通達を問題とただ今問題となっている真和志村に行
います。この通達を真和志村金城和信村長が更に改ざんしました。
これは米海軍軍政府本部指令 121 号及び特別布告 36 号と 1950 年 4 月 14 日沖
縄列島軍政府長官・米国陸軍少将ジョセフ・R・シーツの特別布告 36 号第3条
に違反しており、厳しい罰則が科せられる犯罪でした。この偽造にどれだけの人
物が関わったかは定かではありませんが、上記にあげた人物の他に当間重剛氏
の存在を除く事は出来ません。
根本原因は、米軍による国際法違反の私有財産の強奪による水道施設建設にあ
ります。この水道施設を那覇市が返還(譲渡)を受ける条件に全ての建築物や土
地の問題に関する請願要求に対して米軍政府に責任は無く、譲渡を受ける那覇
市が永久に防護しなければならないとする誓約条件が課せられたことに私有地
掠奪の問題があると推測するところです。
しかし、奪われた池宮城氏の土地は、現在、冒頭に記述した如く、転売されてお
り、当時多額の利益を得た者が居たことは否定出来ません。
また、指令第 121 号や布告第 36 号の違反の具体例は別紙にて説明します。
接地主が居たはずです。

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