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爆問大田への鉄槌、「時代の価値観」というデタラメを発信し結果的にサイコ小山田を擁護する⇒言い訳タラタラ!太田光が小山田圭吾に関する発言で反省の弁「大勢の人を傷つけた」2021-07-22
爆問大田「人間が人間を裁くことはできない。裁くなら法廷で裁け」
民主主義社会には根源的な善悪というものが存在しており、法律の条文以前の問題として、やって良いことと悪いことがある。
民主国家においては、条文にさえ抵触しなければ何をしてもよいという価値観は否定されている。
小山田氏の虐待問題「当時と今は違う」という主張が完全にデタラメな理由
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東京オリンピック開会式の会場となった国立競技場(写真は6月当時)。写真:AP/アフロ
障害者に対して凄惨なイジメを行っていたことが問題視されていたミュージシャンの小山田圭吾氏が、東京五輪・パラリンピック開会式の楽曲担当を辞任することになりました。大会組織委員会は当初、過去の問題であるとして引き続き起用する方針を示していましが、本人が辞任を申し出たことで、小山田氏の楽曲は使用しないことになりました。 内容があまりにもおぞましく残虐であることから、ここではあえて書きませんが、小山田氏が障害者に対して行っていたとされる行為は完全に虐待や拷問のレベルであり、とうていイジメという言葉で済まされるような話ではありません。しかも被害者による告発といった形で露呈したのではなく、本人が2度も雑誌で、凄惨な虐待行為を自慢話として嬉々として語っており、それが拡散したに過ぎません。 海外メディアは、こうした問題で忖度することはありませんから、「虐待」などという言葉を使って問題をストレートに報じています。過去の話とはいえ、障害者に対して虐待や拷問を行い、それを公然と何度も自慢していた人物がパラリンピックの音楽を担当するというのは、どう考えても説明のつく話ではなく、辞任は当然のことだと思います。 しかしながら、今回の一連の騒動では、一部から「今の価値観で評価すべきではない」「サブカルの世界にはそうした面もあった」という意見が出ているようです。当時を知らない若い世代の人の中には、30年前の日本はそのような社会だったのか、と思ってしまった人がいるかもしれません。
筆者は小山田氏と同世代であり、問題となった雑誌2誌が出版された1994~1995年当時は、駆け出しの記者として仕事を覚え始めた時期にあたります。当時の状況を良く知る人間として断言しますが、当時の日本においても、障害者への虐待が大した問題ではないと認識されていた、などということは絶対にあり得ません。 小山田氏が虐待を行っていたと思われる1980年代は、近年と同様、イジメが大きな社会問題となっており、多くのメディアがこの問題を取り上げていました。そして1993年には、山形県の中学校においてイジメ被害者が体育用のマットにグルグル巻きにされて逆さの状態で窒息死し、遺体が放置されるという残虐極まりない事件まで発生しています(山形マット死事件)。この事件は、連日テレビ番組が取り上げ、多くの日本人が衝撃を受けました。 当時と今とで違いがあるとすれば、当時は学校内部の問題に警察など他の行政組織が関与することをタブー視する雰囲気があり、犯罪として立件化することが難しかったという事情があると思います(ちなみに、日本ではこの事件をきっかけに少年法厳罰化の動きが活発になっていきました)。犯罪として裁かれるかどうかという点では違いがあったかもしれませんが、少なくとも明治維新以降、日本社会が障害者に対する虐待を当然視していた時代など存在しません。
サブカル誌云々という説明にも違和感があります。虐待の自慢話を最初に掲載したのは有力な音楽雑誌のひとつであり、この雑誌を、いわゆるサブカル誌として括ってしまうのは少々無理があるでしょう(当然ですが、版元の会社は2社とも謝罪の声明を出しています)。小山田氏あるいは編集者が、話をより大きくするため内容を膨らませた可能性は否定できませんが、行為そのものは事実でしょうし、それを嬉々として、2度も公の場で自慢しているという図式そのものは否定のしようがありません。 なぜ一部の人が「当時の価値観と今の価値観は違う」というあからさまなウソをつくのか筆者にはまったく理解できません。何らかの利害関係が存在するのか、そうでなければ、当時の小山田氏と似たような価値観を持っている人なのかもしれません。 近年、ネットの発達で過去の話が蒸し返されるケースが増えており、こうした風潮が行き過ぎると様々な問題が出てくるのは事実だと思います。しかしながら、民主主義社会には根源的な善悪というものが存在しており、法律の条文以前の問題として、やって良いことと悪いことがあります。 例えば不倫というのは、一部の人にはショッキングなことかもしれませんが、基本的には当事者間の問題であり、絶対的な善悪として第三者が裁くことは困難です。不倫の問題について何年も当事者を社会的に責め立てるのはどうかと思います。 しかし障害者に対する虐待となると、これは基本的人権という社会の根幹に関わる問題であり、1ミリも弁解の余地はありません。これは、立件されていない、法律上時効になっている、時間が経過しているといったテクニカルな問題ではなく、それよりもはるかに上位に位置する概念ですから、社会的に一定の責任が生じるのは当然のことだと思います。 日本社会は法律の条文にさえ抵触しなければ何をやってもよいという雰囲気があり、それが一連の行為を助長している面があることは否定できません(ちなみに民主国家においては、条文にさえ抵触しなければ何をしてもよいという価値観は否定されています)。 筆者の専門分野は経済やビジネスですが、日本の企業社会においても不正行為が平然と放置されるケースがたくさんあります。諸外国では、発覚すれば(立件の有無とは無関係に)トップが辞任するようなレベルの事案であっても、日本では責任を問われないどころか、責任を追及する側の人が逆に批判されることも少なくありません。 今回は辞任という形で、とりあえずひとつのけじめをつけることができましたが、小山田氏が今後も一生涯、社会からバッシングされ続けるというのもおかしな話だと思います。法律では裁かれなかった行為を社会としてどう決着を付けていくのか。まさに日本社会の民度が問われていると思います。
加谷 珪一
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itg*****
|まさしくその通りですね。当時もいじめを容認する社会ではありませんでした。むしろ今よりいじめ問題が大きく取り上げられていたような気もします。たくさんのいじめ問題が生じてそれを直そうとする社会の動きがっぽりありました。時代の価値観なんてデタラメです!
当時、大きく取り上げられなかったのは、小山田圭吾はそれほど大物ではなかった証拠でしょう。
彼と同世代の私も彼を知りません。 -
c
|芸能界の異常な身内への甘さは今にはじまったことではないけど、過剰な批判をたしなめるならまだしも小山田を擁護する人間が一定数いたことには寒気がした。近年、SNS等での強い批判について苦言を言う芸能人がいるが、そもそも芸能界にまともな自浄能力があれば、過剰な批判をする人も少ないのではないか。