狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

★集団自決、最重要証人山城安次郎の沈黙の謎

2021-07-08 12:59:08 | ★改定版集団自決
 

 

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

■良書紹介

「自立自尊であれ」

著者:OXメンバー

本書の著者名は「ОⅩメンバー」とする。

メンバーは沖縄県庁のОBとマスコミ関係者あわせて5人。「ОⅩ」は沖縄伝統闘牛の牡牛をイメージした。元沖縄県知事仲井真弘多の人物像と、仲井真県政の仕事を読者に伝えるのが主眼。チームとして2年半かけて取材し、苦闘した本に完成した共同作品である。

従って、個々人の筆名よりもチームであることを優先して編著とした。すべては事実に基づき書かれた。

 

元沖縄県知事仲井真弘多が語る沖縄振興の現実

普天間基地移設問題、自立経済の確立

教科書では学べない、沖縄のリアリティがここにある。

自立自尊であれ

定価 880円

目次

第一章 奇跡の成果

第二章 理の人 情の人

第三章 強くやさしい自立型社会

第四章 基地問題の「解」

    1 普天間飛行場の危険性除去

    2 マスコミ不信

    3 返還地後利用推進法

    4 安全保障環境と防衛

               ★

 

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

大江・岩波集団自決訴訟で、被告の大江健三郎は沖縄を訪問していながら一度も肝心の慶良間島で集団自決の現地取材をすることなく、事実誤認の多い『鉄の暴風』をネタ本にして『沖縄ノート』を書きあげ、同書で原告に罵詈雑言を浴びせ梅澤・赤松両隊長の名誉を棄損した。

ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和45年以来、既に50版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。

参考までに昭和45年初版の大江健三郎著『沖縄ノート』から一部抜粋してみよう。

 <慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。

沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう

 

 <慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められた記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである>

大江に対する裁判長の判断はこうだ。

沖縄戦史の少なかった当時(昭和45年」、大江が『鉄の暴風』を沖縄戦史の定番として、たとえ内容に事実誤認が多くても、その内容を「真実と考えても仕方がない」(「真実相当性」)という法律概念を適用し、大江の『沖縄ノート』による名誉棄損を免責した。

かくして裁判長は、裁判の争点である「軍命の有無」には深く立ち入らず、原告側の名誉棄損請求を棄却した。

 

『鉄の暴風』の執筆者太田良博記者の証言によると、『鉄の暴風』は事実誤認どころか、太田自身が現地で取材することなく米軍の協力により「社」が集めた「島の人たちのことばをを信じるほかはなかった」などと、裏付の無い伝聞情報を基に執筆した事実を白状している。

梅澤隊長らが裁判を提訴した2005年、『沖縄ノート』以上に両隊長の名誉を棄損している『鉄の暴風』の執筆者・太田良博記者は、本来なら太田記者も名誉棄損請求の被告として法廷に立つべきだった。

ところが太田記者は提訴の3年前2002年に没しており、裁判の証言台に立つことは適わなかった。

太田記者も大江と同様に『鉄の暴風』の執筆にあたり一度も慶良間島に見地取材をしていないが、太田は唯一座間味島の集団自決の生き証人に取材している。

昭和24年、『沖縄タイムス』の太田良博記者は、『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(終戦当時の座間味村助役)に取材していた。

 渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことはもちろん、取材といえば専ら「社」が集めた人々の話だけで、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。

 太田が、当事者への取材もしないで伝聞に頼るずさんさんな取材手法で『鉄の暴風』を書き上げた状況を、『沖縄戦「集団自決」』から引用してみよう。

同書の引用は先ず曽野綾子著『ある神話の背景』(後に『集団自決の真相』と改題)の太田記者の取材部分から始まる。

               ★

  「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」

  この部分に関して太田は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両人が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論している。

太田が宮平、山城の両人と接触した経緯について「辛うじて那覇で≪捕らえた≫のではなく、「(両人が)沖縄タイムス社に訪ねてきた」ということは、取材手段として極めて大きな意味を持つ。つまり「辛うじてて捕らえられた人物」なら、必ずしも証言に積極的態度を示すとは限らないのだが、自ら情報提供の目的で新聞社を訪れた人物なら証言意志の積極性に大きな違いがあるものである。

 戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、当時座間味村の助役をしていた山城が不便な交通事情を押してわざわざ那覇の沖縄タイムスを訪れたのは、並々ならぬ告発の意思を持っていたと考えられる。 だが自分が体験していない「赤松大尉の暴状」について語り、そのことを「戦記に載せてくれ」と告発しておきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。 それが大きな謎である。 そして、新聞に連載され、その後単行本となった『鉄の暴風』の第二章「悲劇の離島」では、渡嘉敷島の集団自決については九頁を費やして「赤松の暴状」を告発しているのに対し、座間味の集団自決については一頁足らず、わずか十一行の記述に止まっている(1986年版)

しかも、その極端に少ない記述には激しい梅澤大佐への憎悪が満ちており、いたずらに読者の興味を煽る捏造記事で溢れている。 例を挙げると次のようなくだりがある。

梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。

いうまでもなく、座間味村の梅澤裕戦隊長は健在で、現在係争中の「集団自決訴訟」の原告の一人として戦っている。人間の生死に関わる明らかな事実誤認は論外としても「梅澤少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった表現には、執筆者自身の感情が滲みだしており、沖縄戦の記述というより、個人攻撃の「回文書」の類といわれても仕方がない。

太田は取材相手を覚えていないし、メモも残っていないと言っているが、筆者(江崎)は、このガセネタの発信源は、梅澤と共に座間味村で米軍の猛攻撃を体験した山城を」おいてほかにあり得ないと確信する。発信源が山城であるとする根拠は後に詳述するが、「梅澤不明死」に関しては、大田記者は『鉄の暴風』が発刊されてから36年後の昭和61年、『沖縄タイムス』紙上で「梅澤隊長”生死”の誤記」と題して弁明記事を書いた。

誤記と弁明

発刊後三十六年経ってからの弁明も不可解だが、その弁明自体が子供の言い訳のような開き直りに終始している。

長くなるが次に引用したい。

戦後四十一年にあたって――梅澤隊長”生死”の誤記ーー

そ慶良間の戦闘だが、『鉄の暴風』のなかの座間味の戦記で、同島の退潮であった梅澤少佐に関する部分に誤記があった。「不明死を遂げた」と記録された、その梅澤元少佐が、現に生きていることが、あとでわかったのである。『鉄の暴風』のその部分(同書41頁末尾)は、1980年7月15日刊行の第九版から削除してあるが、その誤記の責任者は、じつは、当時沖縄タイムスの記者で会った、この私である。(略)あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅澤隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を受けたのである。(『沖縄タイムス』1986年8月15日付)

これでは「誤記」の弁明にはなっておらず。井戸あた会議のうわさ話を鵜呑みにしてそのまま記事にしたと言われても仕方がないが、太田はさらに続けて「誤記」した理由について次のようにとぼけている。「『誤記』のようなウワサがあったようである」と。

何よりも原文の「梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」という侮蔑的記述そのものは引用せずに。「不明死を遂げた」の一言に留めており、しかも「誤記」とカッコ付きで論じているのも不可解である。さらに梅澤が抗議したことに対して逆切れとも取れる次のような発言をしている。

「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅澤氏は抗議しているようだが、「俺は死んでいない」「投降したのだ。そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議だろうか。

 それにしても、と私は思う。というのは『鉄の暴風』の初版が出版されたのは1950年8月15日である。それから三十余年間、タイムス社が自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅澤氏は自分の所在地さえ知らせてないようだし、「誤記」の訂正の申し入れもしていないという。『鉄の暴風』の版元が自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない。

「誤記」の削除はタイムス社が「自主的」に行ったと繰り返し強調しているが、自主的だろうが何だろうが、個人の尊厳を傷つける「誤記」を削除するのは出版社として当然の責務であり、加害者としての認識を欠いて逆切れする太田に怒りさえ感じる。念のため記しておくが。「誤記」による被害者は梅澤であり、それに対する梅澤の抗議を不可解であると逆切れする太田の弁明こそまさに不可解ではないか。

「自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない」という逆切れ記述には、怒りを通り越して言葉を失う。

「梅澤不明死」の記述はすでに削除済みだから問題にするには当たらないという向きもあるが、削除後に「誤記」を恥じて黙していたのならともかく、「ウワサだけど当時は仕方なかった」といった太田の執筆姿勢が問題であり、一事が万事、その執筆姿勢こそ『鉄の暴風』の記述全体が伝聞情報の「物語」であることの証左である。

太田は次のように弁明して『鉄の暴風』のデタラメさを自ら吐露してくれる。

ただ、「誤記」のようなウワサはあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要だった人物が、その後どうなったか知らないほど、島の人たちは全ての情報から遮断され、孤立した状態のなかにおかれていたことがわかる。『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちの言葉を信じるほかはなかった。梅澤隊長がどいう方法で投降したのか、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐりだすほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。(「太田良博著作集⑤ 諸事雑考」41頁)

『鉄の暴風』について、係争中の「集団自決訴訟」(大江・岩波訴訟)第一審判決で裁判長は「民間から見た歴史資料としてその史料価値は否定しがたい」と、その記述内容を評価している。 裁判長が『鉄の暴風』の「梅澤不明死」の記述が削除されなかった事情を承知していたかわからないが、太田の弁明文を読み、取材者も特定できない事実無根の「ウワサ」を記述していたと知ったら、『鉄の暴風』の評価も当然違っていただろう。

誰が「梅澤不明死」を売り込んだか

「不明死はざだんかいのウワサだった」という太田の弁明にもかかわらず、筆者は「誤記」の情報源は山城安次郎であると確信するのであるが、太田記者も山城も既に亡くなってしまった現在、本人たちに確認する術はない。

だが、「梅澤不明死説」の情報元は山城であるという根拠は、次のような書店から明らかである。

①太田は新聞記者として情報提供者を追い求めたという話は皆無に近く、もっぱら受動的に持ち込まれる情報に対応していた。そんな中で山城以外に当時の座間味島の状況を知る人物に取材したという形跡もなければ、本人が座間味に取材に行った事実もない。残る可能性は自ら日本軍の告発にタイムス社を訪れた山城を除いて考えることはできない。

➁『鉄の暴風』は単行本になる前は『沖縄タイムス』の連載記事であり、同時に唯一の娯楽であったラジオ放送で全島に放送されいる。沖縄住民は日本本土でQHGによって放送された『真相はかふだ』を聞いたのと同じ心境で『鉄の暴風』に耳を澄ましていた。『真相はかふだ』は昭和20年に始まったNHKのラジオ番組で、日本軍の残虐性をはじめ、この戦争がいかに間違ったものであったかを繰り返し宣伝し、日本人の心に戦争に対する贖罪意識を植えつけようとした。 だが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報局が担当し、NHK独自番組のように放送されていたのである。

米軍の情報管理の特に厳しかった沖縄で、新聞に情報を売り込んでいた山城が、新聞記事やラジオ放送で放送されていた『鉄の暴風』に全く気付かないはずはなく、むしろ特別の関心を持ってその内容に注目していたことは間違いない。 仮に。山城が「梅澤不明死」という「ガセネタを売り込んでいないとしたら、当然記述の間違いに気が付いて『沖縄タイムス』に訂正を申し出るはずであるが、このガセネタが事実誤認として実際に削除されるのは30年後の改定版になってからである。

梅澤隊長は太田記者によって、実に30年もの間「不明死」させられていたのである。

太田が座間味島の集団自決の体験者である山城に取材しながら肝心の座間味の状況は取材できなかったという取材態度は、記者として失格と言われても仕方がない。このように新聞記者として不適格と思える太田に、『沖縄タイムス』は何ゆえ社を挙げて企画した『鉄の暴風』の執筆を委ねたのか。

その謎を解く鍵は太田の沖縄タイムス入社直前の職にあった。

太田の経歴を見ると『鉄の暴風』の監修者である豊平良顕や共著者の牧港篤三のような戦前からの新聞記者ではない。 そもそも太田と『沖縄タイムス』との関係は、『沖縄タイムス』の月刊誌にエッセイ、詩、短編小説などを寄稿していた、いわば文学好きの投降者と新聞社という関係だったという。 太田が戦後アメリカ民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっているが、太田は戦時中通訳としてインドネシアで軍務経験があり語学は得意であった。

太田の略歴にある沖縄民政府とは琉球政府のことではなく、琉球政府を統治する米軍側の米民政府のことで、沖縄の政治や思想統治に君臨した通称ユースカーという組織を意味している。 米民政府勤務の語学が得意の太田が「米軍の意思」を盛り込んだ沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の執筆に、ベテラン記者をさておいてピンチヒッターのように駆り出されたのだ。

『鉄の暴風』の執筆時に、米軍側と『沖縄タイムス』そして大田の間に「共通の思惑』が有ったと考えても不思議ではないだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』)

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所



このアイテムの詳細を見る

                 ★

山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。      

 事件を追う事件記者が、わざわざ自社(沖縄タイムス)に飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。

『鉄の暴風』を執筆をした新聞記者としては誠にお粗末な取材だ。 

 

  曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

 ≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。

「時代が違うと見方が違う」

と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか

 驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。

  このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。

 この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろう。

曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。

                    ◇

以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、

「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。

これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。

【おまけ】

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >

 

「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)

<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。

太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。

もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 


 太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去

⇒最後にクリックお願いします



コメント (6)

沖タイの嘘、ワイツゼッカー元独大統領は謝罪したか?過去に目を閉ざす者現在にも盲目になる

2021-07-08 09:41:59 | マスコミ批判
社説
沖縄タイムス社説[戦後70年総理談話]歴史問題を着地させよ
2015年1月13日 05:30

 戦後70年、日韓国交正常化50年の節目に当たる今年は「歴史と政治」「歴史と外交」が深くからみあう年になりそうだ。歴史問題の扱いを間違えば日中、日韓関係の悪化は避けられない。それをどうやって防ぐかが東アジア外交の最大の課題である。

 昨年11月の日中首脳会談以降、3年ぶりに「新日中友好21世紀委員会」が開かれるなど、日中関係は徐々にではあるが、改善のきざしがほの見える。節目の年に、関係改善の機運を大切に育てていくことが重要だ。

 その前提となるのは、歴史問題に対する安倍晋三首相の姿勢が中韓両国にとって受け入れ可能なものかどうか、である。

 韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は12日、ソウルの大統領府で記者会見し、旧日本軍の「従軍慰安婦」問題を念頭に、「日本の姿勢の変化が重要だ」と述べた。歴史問題では妥協しないとの考えを明確にしたのである。

 過去の植民地支配と侵略を認めた村山富市元首相の談話や、慰安婦問題に対する反省と謝罪を盛り込んだ河野洋平元官房長官の談話について、自民党の中には見直しを求める声が根強い。安倍首相自身も「侵略の定義は定まっていない」と語ったことがある。

 過去の植民地支配や侵略の歴史を正当化しても名誉回復にはつながらない。それは国内でしか通用しない内向きの姿勢だ。戦争と戦後の冷戦構造を清算し、東アジアに新たな地域秩序を形成するためには、過去と誠実に向き合い、漂流する歴史問題を着地させなければならない。

    ■    ■

 安倍首相は終戦記念日の8月15日に、戦後70年の首相談話を発表する予定だ。

 談話によって中韓との関係が改善する可能性がある半面、両国の国民感情を逆なでし、関係を悪化させるおそれもある。米国務省のサキ報道官がこれに反応したのは、安倍政権に対する米国側の懸念の表れにほかならない。

 サキ報道官は、村山談話や河野談話を「近隣諸国との関係を改善するための重要な区切りだった」と高く評価し、首相周辺の見直しの動きをけん制した

 中国は昨年2月、9月3日を「抗日戦争勝利記念日」、12月13日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」とすることを法律で定めた。ロシアと「反ファシズム・抗日戦争勝利70周年」の記念行事を共同開催することにも合意しており、韓国に対しても、共同行動を呼びかけている。

 歴史問題をめぐって「日本包囲網」が形成されるのは、日本外交にとって大きなマイナスである。

    ■    ■

 1985年に西ドイツ(当時)のワイツゼッカー大統領は「過去に目を閉ざす者は現在も見えなくなる」と語り、世界的な反響を呼んだ。

 終戦記念日の総理談話は、安倍政権がどこに向かおうとしているのかを知る手がかりになる。

 偏狭なナショナリズムによって過去を正当化すれば、歴史問題をめぐる「日本包囲網」に根拠を与え、日本の行く末を案じる空気が国際社会に広がるだろう。

              ★

■ワイツゼッカーは謝罪したのか


ドイツのリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元大統領は、1985年5月8日の連邦議会での演説の中の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(永井清彦訳)という有名な一節は、演説が行われた当初は特に注目されていなかった。

だが、この一節を日本で最初に取り上げたのは、岩波書店の雑誌「世界」1985年11月号で、朝日新聞も同年11月3日にコラムで取り上げて、第二次大戦を謝罪した誠実なドイツの大統領と宣伝された。

 

その一方、「日本人は戦争に対して反省していない」、あるいは「さまざまな残虐な行為について謝罪もしていないではないか。ワイツゼッカーを見習え」という言説が、頻繁に聞かれる。
 
近隣諸国、特に中国と韓国はいつものようにワイツゼッカー談話を持ち出す。
 
日本国内にも一部には、このワイツゼッカーの指摘を引用する人たちがいる。
 
しかし、結局、彼は謝罪やドイツ人の責任というものを全体として認めているのではない。

しかも、その後にすぐ「非人間的行為を心に刻もうとしない者は、また新しい感染の危険への抵抗力を持たない」と述べていうが、これも前後の関係からすると、忘れると同じような犯罪を犯しかねない、ナチスのように再犯しかねないという、一般的なメッセージを出したものだ。
 
 

発言全文を読むと、ワイツゼッカー元大統領は、明快に次のように語っている。
 
「民族全体の罪、もしくは民族全体の無実というものはない」と。
 
罪や無実は集団的なものではなくて、個人的なものだとはっきり明言している。
 
つまり、現代のドイツ人は、自分が生まれてもいない時代、あるいは自分が判断力を持たない小さな子どもであったような時代について、罪を告白することはできないというのが、ワイツゼッカー元大統領の指摘である。
 
結論として、ワイツゼッカー元大統領はドイツ国民が謝罪する必要はない、と言い切っている。
 

過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる

【おまけ】

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」

1985 年 8 月 5 日にドイツの連邦議会でワイツゼッカー大統領が行った敗戦 40 周年を記念する演説の全文。(岩波ブックレットより)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「荒れ野の40年」
ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985 年 5 月 8 日)
5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのをちに思い浮かべておりす。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600 万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス——これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、
捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆——こうした悲嘆の山並みです。
今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。
戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは 1945 年 4 月 30 日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪——これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。
ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか—— このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942 年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)——われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。
そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。
しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。
武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること——これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
1945 年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった——こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。
戦後四年たった 1949 年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この 40 年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
——第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
——人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
——独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
——中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
——東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結 40 年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。
われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40 年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに 40 年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い
人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか——これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
道徳に究極の完成はありえません——いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。

 

⇒最後にクリックお願いします

コメント (3)

デニー知事、「沖縄の声無視」と批判 県はまん延防止を要請

2021-07-08 05:34:59 | 普天間移設

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

■良書紹介

「自立自尊であれ」

著者:OXメンバー

本書の著者名は「ОⅩメンバー」とする。

メンバーは沖縄県庁のОBとマスコミ関係者あわせて5人。「ОⅩ」は沖縄伝統闘牛の牡牛をイメージした。元沖縄県知事仲井真弘多の人物像と、仲井真県政の仕事を読者に伝えるのが主眼。チームとして2年半かけて取材し、苦闘した本に完成した共同作品である。

従って、個々人の筆名よりもチームであることを優先して編著とした。すべては事実に基づき書かれた。

 

元沖縄県知事仲井真弘多が語る沖縄振興の現実

普天間基地移設問題、自立経済の確立

教科書では学べない、沖縄のリアリティがここにある。

自立自尊であれ

定価 880円

目次

第一章 奇跡の成果

第二章 理の人 情の人

第三章 強くやさしい自立型社会

第四章 基地問題の「解」

    1 普天間飛行場の危険性除去

    2 マスコミ不信

    3 返還地後利用推進法

    4 安全保障環境と防衛

               ★

デニー沖縄県知事は、国の安全保障であ辺野古移設には、徹頭徹尾反対しておきながら、その一方感染病安全保障であるコロナ対策では国に要請ばかりしている。

細田元官房長官に「沖縄らしくない」と言われるのも納得だ。

そんなに国と意見が違うなら「コロナ対策」でも、国相手に法廷闘争してみたらどうか。

 

「沖縄の声無視」と批判 県はまん延防止を要請

配信

共同通信
  1. ter*****

     | 

    県は批判できる立場か?ワクチン接種もまだまだだし、自粛は中途半端。それで国より先に緩和策をだす?東京が緊急事態になり、沖縄が解除したら東京からの観光客が大挙して押し寄せるでしょ。県は水際対策もしてないんだし、まずはやるべき事をきちんとしてください。もちろん各種保証も迅速に。

  2. s*******

     | 

    県民ですが、まだまだ解除は早いと思います!
    やっと二桁になったのにまた解除。
    国に文句言ってワクチンや助成金が遅くなっても嫌なので、文句言わずに今県でできる事を行って欲しい。デニーの声=沖縄の声でない事をわかって欲しい。

  3. mih*****

     | 

    まだまだ人口比からしたら
    全国でもワーストの部類だし
    仮にここで宣言解除して、蔓延防止〜
    に移行したら、夏休みに向けて
    また感染爆発しそうだったから
    間違ってはないと思う。
    沖縄は、観光業が大きな収入源だけど
    観光客の方の感染対策を、どこまでお願い出来るかとか、空港検疫とか
    また感染拡大広げないために
    県も努力して欲しい。

  4. avf*****

     | 

    県幹部の皆さん、政府に矛先を向けて責任転嫁する前に、まず自分たちの失策とこのところのクラスター未発表問題や知事のBBQなどの失態を振り返ってみてください。県民の多くが呆れていると思いますよ。

  5. swo*****

     | 

    (国との)事前の調整や根回しもなく、蔓防への移行だの酒類提供の解除などと発表していたことに愕然とする。

  6. aml*****

     | 

    県民ですが妥当だと思います。何ら有効策を打てなかったので。宣言要請しといて自己都合で解除も勝手だと思います。感染中心地の那覇市のワクチン接種も遅れてますよね?そのツケは国支援の大規模接種会場で、ほとんどが那覇に会場がありますよね。観光が他県より割合が大きいのは事実ですが、そこまで観光で食ってるわけでもありません、比較的多いだけです。耐える時は耐えるしかありません。

  7. fir*****

     | 

    GW前にデニーがしっかり緊急事態宣言を要請して来沖する人を抑制していればこんな事にならなかった!
    今回に関しては政府の緊急事態宣言延長が正しいと思う。
    中途半端に解除とまたすぐ再燃する!

  8. rin*****

     | 

    県民です。解除は早いですよ。
    空港検疫はちゃんと機能していますか?
    他に何か対策しましたか? 随分前から20時以降もやってる店は沢山ありますよ。観光は大切ですがもっと先を見てください。
    県政がしっかりしていないから・・・。
    まあ、隠蔽してたら誰も言う事聞かないですけどね。

  9. kin*****

     | 

    声じゃなくて実数値で示してくれ。
    沖縄の実績は冬の宣言解除から1ヶ月でのリバウンド。それが3月に起きて今日まで引きずってるのだから、まん延防止に移行しても感染防止できないのは明らか。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (4)