12日の石垣市議会一般質問で仲間均氏は、玉城デニー知事が18日に国連で米軍普天間飛行場の辺野古移設反対を演説することについて「日本を守る米軍には抗議し、日本の領土を奪おうとする中国には親善訪問する」と批判した。 尖閣周辺で中国艦船が日本漁船を追跡し、領海侵入を繰り返していることを挙げ「そのことには目をつむり、知らぬ存ぜぬでは困ったものだ」と苦言を呈した。 辺野古問題を巡る訴訟で敗訴したことに関しては「敗訴し続けても、これでもか、これでもかと国にたてつき、沖縄県の行政区の尖閣問題は国の問題で、沖縄の問題ではないかのように知らんふりを決め込んでいる」と知事の姿勢を疑問視。 その上で「基地反対の抗議をするなら同じように中国の領海侵犯に対する毅然とした対応を取るよう求める」と語気を強めた。
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・・・17分前
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>12日の石垣市議会一般質問で仲間均氏は、玉城デニー知事が18日に国連で米軍普天間飛行場の辺野古移設反対を演説することについて「日本を守る米軍には抗議し、日本の領土を奪おうとする中国には親善訪問する」と批判した。
ごもっともです。県知事の国連でのスピーチの後に、仲間氏にも国連でスピーチして欲しいものですね。沖縄を巡る各国の実態が全世界に明らかになることでしょう。
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rky********
rky********14分前
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石垣島の漁民の皆さんは
モロに被害を被ってますからねぇ
地元議員のこういう声は逞しいと思う
そして玉城知事は猛省すべきだけど
きっと素知らぬ顔するでしょうね
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koikoi
koikoi1分前
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1回沖縄に予算を投入せずに沖縄だけで予算組めばいいと思う。
どうなるかは知りませんが、少なくとも本土との関わりを知ることにはなると思う。
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ho_********
ho_********15分前
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本当にその通りです。
ロシアの論法と同じなら、中国もそのうち沖縄県民の解放を口実に
沖縄侵略をされかねない。
この知事はそれ位危険な対応をしていると思います。
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pha********
pha********4分前
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「米軍には抗議、中国には親善」。中国から毎日毎日領海侵犯をうけてる沖縄県知事玉城!こう云う人が、沖縄県知事という、全く持って不適当この上ない!中国に行っては、踊り、米国には批判の演説!国益に反する政治家!
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感じるな、考えよ
感じるな、考えよ14分前
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どうしてこういう当たり前の報道が他の大手メディアに
出来ないのか? 普通の日本人は疑問に感じていますよ
【おまけ】
■沖縄の分断を目論んだ『鉄の暴風』
沖縄メディアが歪めた戦後沖縄の歴史、即ち「本土と沖縄の対立と分断」を示す恒例行事が続いている。 例年沖縄で行われる「慰霊の日」は首相が参列するのが恒例だが、左翼団体が式典会場に押しかけ「首相帰れ!」などと自国の首相に罵声を浴びせるのも恒例行事だ。
そして日本が独立した講和条約発効の日を「屈辱の日」と叫んで政府に憎悪を剥き出しにするのも沖縄の恒例行事だ。
良識ある県民なら一部の暴徒の狼藉行為と容易に理解できるが、沖縄メディアは県民の良識を歪んだ方向へ誘導する。沖縄の新聞やテレビが、これらの反日的言動を、あたかも県民の総意であるかのように「対立と分断」を煽るからだ。
さて今年2022年も玉城デニー知事は沖縄戦が終結した6月23日の「慰霊の日」に例年通り岸田首相を招待した。 糸満市摩文仁の追悼式会場周辺にプラカードを掲げる活動家たち集まり、首相がマイクに向かうと、周辺からから「帰れ」とやじが飛んだ。首相が挨拶している間も「基地が県民生活を脅かしている」「銭で(県民を)釣るな」などの声が次々と上がった。式典会場は、首相の前に警察官数人が前に立ちはだかるなど一時騒然とする場面もあった。
玉城デニー知事は、去る5月15日行われた沖縄返還50周年を祝賀する式典でも、政府を批判して祝賀式典を政治利用し顰蹙を買った。 だがデニー知事の政府批判は国の専権事項の安全保障問題にも言及する。翁長前知事から継承した「辺野古阻止」「自己決定権」などの政府批判が加速して、あたかも沖縄は独立した方が良いと言った印象を全国民に与えている。事実、知事の政治基盤である「オール沖縄」の支援者には松島泰勝竜谷大学教授、島袋純琉球大学教授、新川明元沖縄タイムス社長ら沖縄独立主義者が名を連ねている。
■「沖縄人は日本人にあらず」占領米軍の沖縄分断工作
アメリカは沖縄戦当時、沖縄上陸の時から沖縄分断作戦を工作していた。
15年前の本土復帰記念番組で、地元テレビのQAB琉球朝日放送は、次のような「米軍の沖縄分断」を示す番組を放映している。
「復帰を阻止せよ!」~アメリカ軍 宣撫工作~ (2007年5月15日放映)
QAB琉球朝日放送
<沖縄が本土復帰した1972年5月。13年間、毎月発刊されてきた月刊誌がその歴史に幕を閉じました。その月刊誌は『守礼の光』。 沖縄の産業や文化、アメリカの文化などを紹介したカラー写真付きの雑誌で学校や公民館などに無料で配布されました。 『守礼の光』には、琉球の昔話も掲載されました。運玉義留、野底マーペー、空を飛んだ男・・・各地に伝わる昔話を集め、記事にしたのは沖縄のひとりの女性でした。女性は琉球文化を誇りに精力的に仕事を続け、各地を回っては口承されてきた物語を掘り起こしました。 雑誌を発行したのは、米国琉球列島高等弁務官府。しかし、それは表向きの発行元で、実際は「アメリカ陸軍・第7心理作戦部隊」が編集発行を行っていたのです。当時「第7心理作戦部隊」を知る者は殆どおらず、その存在はこれまでベールに包まれたままです。 部隊の任務はビラや放送などでアメリカ軍のアジア戦略をスムーズにする事。沖縄での仕事のひとつが『守礼の光』の発行でした。アメリカ軍は、琉球文化が色濃く表現されたその昔話の数々を大いに評価します。実はアメリカ軍にはある狙いがあったのです。 「沖縄は日本にあらず」ーアメリカ軍は日本とは違う独特の琉球文化を強調して、沖縄の人達の日本復帰への思いを逸らせようとしたのです。 >
第7心理作戦部隊が行った事は、今で言えば広報活動のようなことだが、戦火で荒らされた沖縄にとっては「宣撫工作」としての効果は充分あった。先ず食い物を与え、それから飴と鞭で洗脳するのは情報戦の常道である。
沖縄には「物呉ゆすどぅ我が御主(むぬくゆすどぅ わがうすう)」という諺がある。「物をくれるのが私のご主人」という意味だ。ただ、単純に食物など物を与えるのではなく、生活手段を与えてくれるのが私のご主人という意味だ。
洗脳については「撫順戦犯管理所」からの帰還兵が良く知られている。
1950年にシベリアで捕虜となっていた日本人のうち約1100人が中国にひきわたされ、撫順、および太原で収容された。この施設の一つが撫順戦犯管理所である。日本人が釈放されたのは1956年以降であったが、釈放された日本人捕虜はみな中国を賛美するようになっていた。これが「撫順の奇蹟」と中国では称されている。しかし釈放された人々の言動から、洗脳行為が行われたのではないかという疑いがもたれている。
沖縄を統治した米軍は、沖縄人をあえて琉球人と呼び、「日本は琉球を侵略した異民族」として、沖縄人を洗脳した。これらアメリカの工作は現在も一部ウチナンチュに受け継がれ、琉球独立という幻想は今でも息づいている。
■沖縄返還に反対したマッカーサー
沖縄返還以前の沖縄は、与野党を問わず全県的に「祖国復帰」を切望した。ところが返還実施の前後から、野党勢力を中心に反日的言動をする勢力が沖縄に流入し始めると同時に沖縄メディアには「本土と沖縄の対立と分断」を煽る論調が目立ち始める。
GHQ最高司令官マッカーサーは、沖縄返還に反対しており、沖縄の「分断」どころか米国の領土化を望んでいた。
戦後70余年を経過しても、マッカーサーの置き土産が「沖縄分断」という形でが生きているとしたら、マッカーサー元帥も以て瞑すべしであろう。
4月22日放映のNHKによると、米国(国務省)は米軍が沖縄を占領した後、沖縄を日本の一県として返還する予定だった。一方GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーは米国務省の沖縄返還に反対していた。
■沖縄の領有を求めたマッカーサー
マッカーサーは、イギリスの首相チャーチルの「鉄のカーテン」演説に触発され、沖縄を共産主義に対する防波堤として対ソ戦略の最前線に置くべきと考え、その目的のため「米国領土」にすべきと考えた。
8月15日の終戦当時、すでに沖縄を占領していたアメリカは、戦勝国の強みを生かして、沖縄はアメリカが自国領として領有すべきという意見が強かった。
沖縄戦後史の研究家R・エルドリッジ博士によると、マッカーサーは、米国務省が1947年8月5日の対日講和草案で琉球諸島の返還を認めたことを批判して、同年9月1日次のような覚書を国務省に送っている。
≪同草案は琉球諸島を日本が保持することとしている。 われわれの西太平洋フロンティア防衛のための絶対的必要から、米国による琉球諸島の支配を確保すべきである。 この諸島は日本とは民族的に同一ではなく、日本の経済福祉に貢献せず、しかも日本人はこの諸島の保有を認められることを期待していない。基本的に問題は戦略上のものであり、私の意見では、この諸島の支配権を米国に与えることに失敗すれば、軍事的崩壊を招きかねない。≫
沖縄返還に反対するマッカーサーは、沖縄は日本とは別の民族と捉え、沖縄を失うことは米軍の「軍事的崩壊」を招くと懸念していたのだ。
現在でも沖縄メディアは、沖縄の事を「捨て石」と表現するが、マッカーサーは沖縄を戦略的要所、つまり太平洋の「要(かなめ)石」と考えていた。
ちなみに米軍統治下の沖縄では、米軍車両は「イエローナンバー」と呼ばれ、ナンバープレートにKeystone of the pacific(太平洋の要石)と書かれていた。
第三章 「沖縄分断」を凝縮した『鉄の暴風』
マッカ―サーの「日本弱体化策」(公職追放、教育追放など)が、敗戦利得者(反日サヨク)を生み、戦後沖縄で活躍した敗戦利得者達が「沖縄分断」に寄与した。
そして「本土と沖縄の対立と分断」に最大の貢献をしたのが米軍の広報紙として設立された沖縄タイムスである。沖縄タイムスが報じてきた「沖縄分断」を象徴する言葉が、敗戦直後出版された『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)に見事に描写されている。
敵の米軍を「人道的」と褒め称え、その一方で味方である日本軍を「残酷非道」と決めつける。 このような「沖縄タイムス史観」を植えつけたのは、沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嚆矢である。
■間違いだらけの『鉄の暴風』を押し付ける沖縄タイムス
対立する議論で前提が間違っていたら、その後の議論は全て空虚である。これは論理学の基本である。
約20年前に決着のついた大江岩波集団自決訴訟に関連して、原告(梅澤隊長ら)が虚偽としている大江・『沖縄ノート(岩波新書)』の関係部分を読んでみた。
被告のノーベル賞作家大江健三郎氏は、沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』や一連のタイムス記事に作家として空想力を刺激され、『沖縄ノート』を出版し、原告の元軍人を誹謗中傷し、原告の名誉を著しく棄損した。 大江氏が『沖縄ノート』を書く際、根拠としたのが『鉄の暴風』の内容はすべて正しいという前提だった。ところが裁判の審議の過程で、『鉄の暴風』内容が間違いだらけであることが判明した。
しかし、「戦後民主主義」の信者と思われる裁判長は「大江被告が、当時の沖縄戦の研究レベルでは『鉄の暴風』の内容を真実と考えても仕方なかった」という「真実相当性」という強引な解釈で大江被告の名誉棄損を免責にして大江勝訴が確定した。
結局、大江被告は名誉棄損は免責されたが、大江が前提にした「軍命による集団自決」は立証できなかった。
大江被告が『沖縄ノート』に書いた間違った前提は概略次の2点だ。
➀集団自決命令が事実である(p.169-17)
②渡嘉敷島の戦隊長・赤松嘉次大尉の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していること。(p.208)
本書執筆中の6月30日付沖縄タイムス16面トップに次の見出しが躍った。
「沖縄戦法的な戦争責任問う 32軍に住民処罰権無し ハーグ・ILО条約にも違反 渡名喜守太沖縄国際大学非常勤講師」
記事を一部引用しよう。
《■天皇大権を干犯
沖縄戦において日本軍の沖縄人に対する加害行為の法的問題について考える場合、国内法と国際法の観点から考察できる。
国内法上の問題について考えるにあたって、当時の沖縄の法制上の位置づけを確認し、そこから日本軍に与えられた権限の範囲を確認しておきたい。
沖縄は日本の一県で日本の憲法や法律が施行、適用される日本の法域だった。行政官庁である沖縄県が置かれ、中央から内務官僚である知事が派遣され統治されていた。軍事的には1937年に改正された軍機保護法における特殊地域に指定されていた。昨年成立した土地利用規制法の「注視区域」に沖縄全体が指定された場合、当時の状況に一気に近づく。沖縄戦当時は米軍の包囲を受けており、第32軍の作戦地、国内戦場であった。これは典型的な合意地境であり、戒厳令を施行する条件を満たしていた。》
この記事で、沖縄国際大学非常勤講師の渡名守太氏が言いたいことは、概略こうだ。
「沖縄戦の際、沖縄では戒厳令は発令されていなかったので、第32軍が民間人に軍命を出す法的権限は無かった。」
記事を読むと、『鉄の暴風』に書かれている「軍命」は越権行為であり、軍命による集団自決はあり得ない、と「軍命否定論」に繋がってしまう。
ところが、途中から渡名喜氏の論旨は暴走し始める。渡名喜氏は、急転直下「32軍の沖縄住民虐殺があったのはハーグ条約違反」と主張する。
大江岩波訴訟の審議でも立証できなかった「軍命による住民虐殺(集団自決)」という間違った前提で、新聞の四分の一を駄文で埋める渡名喜氏の論理は余りにも粗雑であり空虚である。
ちなみみに「ハーグ陸戦条約」とは、いわゆる戦時国際法の一つで、1899年のハーグ平和会議で制定された多国間条約。
本条約では、「戦闘員・非戦闘員の区別」「使用してはならない戦術・兵器」「宣戦布告・降伏・休戦」など、戦争における義務と権利が具体的に規定されている。
渡名喜氏は本条約が禁止する「軍隊による民間人虐殺」を見て小躍りして喜んだのだろう。 そして強引に「32軍の民間人虐殺」に結びつけたのだろう。これこそが大江岩波集団自決訴訟でも立証できなかった「間違った前提」である。
■沖縄住民を大量虐殺(ジェノサイド)した米軍
1944年10月10日、米軍は10・10那覇空襲で「民間人の大量虐殺」を行っているが、これこそハーグ条約違反そのものであり、慶良間島集団自決が始まった翌年3月26日には、島を囲む大量の米軍艦で海が黒くなるほど海を埋めつくしていたという。 戦う術も逃げ場もない島の住民達に雨あられと艦砲射撃で攻撃し「島民のジェノサイド」をしていた。 ついでに言うと慶良間島攻撃と同じ日の1945年3月26日、米軍は座間味島上陸と同時にニミッツ布告1号を発令し、全沖縄を米軍統治下に置いた。 自分(米軍)が「占領統治下」に置いた民間人に艦砲射撃で攻撃し住民をパニックに陥れた。米軍の民間人への無差別攻撃こそが渡名喜氏が批判する「ハーグ条約」違反ではないのか。ニミッツ布告1号
那覇市における戦災の状況(沖縄県)
1. 10・10空襲と那覇の壊滅
昭和19(1944)年10月10日早朝、米海軍航空母艦・巡洋艦など100隻余りが沖縄本島東の海上約280kmの地点に到達し、艦載機が那覇を目指して飛び立った。いわゆる10・10空襲である。米軍の攻撃は、小禄飛行場や那覇港など軍事拠点を皮切りに、午前7時前から午後3時過ぎまで5次にわたり行われ、のべ1,396機が出撃した。午後からの市街地への攻撃では、試験的に焼夷弾が多用された。
那覇市の市街地はコンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼失し、その被害は死者225人、負傷者358人で、全市域の90%近くが焼失した。この日より、多くの那覇市民が本島北部などへ疎開し、那覇は復興する間もなく米軍上陸を迎えた。
「戦前の那覇市上空」(那覇市歴史博物館提供)
■「『鉄の暴風』は正しい」という前提
渡名喜守太氏という大学講師の意見を長々と論じた理由は三つある。
➀32軍が民間人の虐殺(ジェノサイド)を行ったのではなく、米軍が民間人虐殺を行った、という事実の確認。
②渡名喜氏の議論は『鉄の暴風』は正しいという前提に立っているので空虚であるという確認。
③沖縄タイムスは忘れた頃、時折『鉄の暴風』は正しいと思わせる記事を書いて読者を誤誘導するという事実の確認。
集団自決の「軍命論」は全て昭和20年発刊の『鉄の暴風』は正しいという前提で行われた。
■執筆者が語る『鉄の暴風』裏話 『ウソの暴風』か?
『鉄の暴風』が沖縄戦の事実は書いておらず、米軍の厳しい検閲の結果書かれた米軍のプロパガンダ本であることを示す沖縄タイムスの記事を紹介しよう。
「翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。」<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>
「座安さん」とは、『鉄の暴風』の陰の執筆者と言われ当時沖縄タイムスの専務をしていた座安盛徳氏の事である。
座安氏は豊富な米軍との人脈を通じて集めた「関係者」の証言を集め、執筆者の新米記者太田良博氏に提供した。その座安氏が『鉄の暴風』の出版許可を貰いにライカムへ行ったという記述から、『鉄の暴風』が米軍の検閲を受けて出版されたことがわかる。
『鉄の暴風』が米軍の強力な検閲の元に出版されたということは、ジャーナリストの鴨野守氏を始め多くの研究者によって明らかにされている。
『鉄の暴風』の集団自決の章の執筆者の遺稿に、誤記の部分を単なるウワサで書いたと告白し、「ウワサだけど当時は仕方なかった」と正直に吐露している部分がある。
詳細については『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所 秦郁彦編)の《『鉄の暴風』と太田良博》(171頁~180頁)を参照されたい。
今回これに加えて、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている記述を発見した。
沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。
1971年といえば沖縄が返還される一年前。まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に真実を語っている。
関連部分を一部抜粋する。
《原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも公表だったわけである。『沖縄の証言』(上巻)(303頁)》
脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らか。
《「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)
太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。
《1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。(305頁)》
「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。
内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。
ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる『鉄の暴風』のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。
《苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)
戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした(307頁)》
『鉄の暴雨風』の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。
戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。
《米軍占領下の重ぐるしい(ママ)時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。(307頁)》
「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。
つまり、書かれた昭和25年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であったという歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる。
太田良博記者が『鉄の暴風』を書いたとき、米軍の顔色伺いながら書いたと、吐露する場面が『ある神話の背景』に描かれている。 以下は『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編)よりの引用である。
曽野綾子は『ある神話の背景』の取材で太田にあったときから、すでに太田の記者としての危うさを察知していた。 曽野は、逆説的に“玄人”という表現を使って、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。
《太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。「太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。 太田氏はそれを私情をまじえずに書き留める側にあった。 「述べて作らず」である。 とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂所あたりでは、又見方が違うという。 違うのは間違いなのか自然なのか。」(「ある神話の背景」)》
驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その当時の米軍の思惑を自著に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で書いたことを正直に吐露していたのである。
このとき太田は後年曽野と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風」を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(183頁、184頁)
■『鉄の暴風』は沖縄戦のバイブルか
1950年に発行された沖縄タイムスの『鉄の暴風』は沖縄戦のバイブルとされ、同書を出典として数え切れない孫引き本が出版され続けてきた。また、旧日本軍の残虐行為という戦記物もその証言を検証した形跡はなく、これに信憑性を持たせる為に度々引用されて来たのが『鉄の暴風』に記されていた「軍命」による集団自決であった。 同書の発行後、続出した状況証拠や新証言から「軍命」による集団自決は、全くの創作(捏造)であり、執筆者等が言っていた沖縄戦記『鉄の暴風』が自社の企画であるという事すら、実はGHQ情報局の差し金であろうことは、動かしがたいものとなった。ちなみに『ある神話の背景』之著者である曽野綾子氏は『鉄の暴風』の物語風の記述を「講談」と言い切っている。曽野氏は、現地取材もせず「見てきたように」記述した太田記者の事を、「講釈師見てきたように嘘を吐き」という講談師に重ねてみたのだろう。
■マッカーサーが介入した『鉄の暴風』
『鉄の暴風』の発刊は、現地沖縄の米軍司令官の企画というより、沖縄の米軍を支配する上部組織の指示であったという証拠を挙げてみよう。 例えば、『鉄の暴風』出版当時の沖縄タイムス紙は、日刊2頁建月ぎめ30円である。先発のうるま新報と違い、ほとんど自己資本が無かった沖縄タイムス社が、一冊200円売りの新書を初版からいきなり、20,000冊(朝日新聞社と各1万)を製作した。また、本土で調達してきた印刷資材の値段は、800万円の輪転機の他、平板印刷機、オフセット版、ジンク版、鋳造機、母型、等々、到底当時の沖縄タイムス社が調達出来る金額ではない。さらに、沖縄タイムスが当初紙や資金不足のため『鉄の暴風』の初版出版を朝日新聞に持ち込み断られたが、沖縄タイムスの座安専務がマッカーサーと面談し、出版に難渋していると訴えたところ、朝日新聞が出版を了承した。 朝日の掌返しの出版協力の裏に、電話一本で済むマッカーサーの強力な介入があった。
GHQの介入を示唆した決定的な新聞報道がある。これは、1950年6月5日付けの沖縄新民報(B)面の記事だ。原文のまま紹介しよう。
・・沖縄戦記〃鉄の暴風〃 沖縄タイムス社が沖縄戦の、なまなましい記録をひろいあつめたもの、―― 人間生死の血みどろな戦史として綴られ、万人に平和の尊さを説く、得がたき快著であり原稿は同社座安理事が空路携行し、朝日新聞出版局長嘉冶隆一氏が渡米にさきだち、親しく目を通し同社杉山出版部長山中刊行部長や杉山業務部次長等が協力してその筋と出版うちあわせ中であり、諸般の準備を整えて朝日新聞社から7月初頭堂々と出版される筈である、B6版三百頁を予定され、・・・。
文中のその筋とは当時のGHQを指す隠語である。同様の隠語には、「関係各方面」などがある。『鉄の暴風』が発売される前日の1950年8月14日付け沖縄タイム紙には、同書が出来上がるまでの経緯を座談会で語り合っている記事がある。そこには、座安氏のコメントとして、GHQとの関わりを推認できる次のような表現がある。
・・・それで朝日社が、一万、こちらから一万と話も決まったわけですが今頃出版パニックでせいぜい売れる本が二、三千だと嘉冶出版局長や杉山出版部長もはなしていました、・・中略・・鉄の暴風出版に当たっては種種各方面の援助もあり、有り難く思っている次第です・・。
当時は、沖縄県でも本土でもまだまだ紙が自由に手に入らない時に、「『せいぜい売れる本が二、三千だ』ましてや今では売れない戦記ものは」と朝日新聞の役員が出版を断ろうとしていたのが、わずか一週間で、下へも置かぬ対応振りで、二万冊やりましょうと変わってしまった訳だから、何処からか「やれ!金は出す」と圧力がかかったと見る以外に解釈のしようは無く、この時代で、このようなことが可能なのは、GHQ以外にはあり得ないことである。
沖縄タイムスは当時県民に鬱積していた反米感情を旧日本軍にむけさせ、更には日本政府に向けさせる為に行われた心理作戦の片棒を担いだのだ。これには本土で成功を治めた心理作戦・WGIP(戦争犯罪宣伝計画)が導入された。この沖縄版が、『鉄の暴風』であり、その筆頭に上げられた物語が、慶良間の「軍命」による集団自決という創作話であり、日本軍の犯罪をあげつらう物語である。
本土では民間情報教育企画課長のスミスが創作した歴史観、「太平洋戦争史」がGHQ情報局の主導で流布され、徹底した洗脳工作が行われた。これまで軍命ありきの語り部として、全国を行脚した方々は、真実が明らかになったこれからを如何に過ごすのだろうか。その中には、渡嘉敷島出身の聖職者金城重明氏もいるのである。これまで、この運動を推し進めてきた方々、とりわけ県内のメディアや教職員組合は、平素、自由や平等、平和を高邁に掲げて他者に説教を垂れているのであるから、このままこれらの被害者等を捨て置く事は、無いようにしてもらいたい。
■崩れ去った前提ー「『鉄の暴風』は正しい」
『鉄の暴風』の読者の側から言えば執筆者の太田記者が一度も現地取材をせずに伝聞のみでしかも短期間に書き上げた事実と、首尾一貫して「人道的な米軍」と「残虐非道な日本軍」という論調で書かれている事実から判断して、その内容が間違いが多いと容易に想像できる。
一方、『鉄の暴風』の執筆者の側からの「自白」を読めば、その内容が間違いであることは自明である。
結論として「『鉄の暴風』は正しい」という前提は崩壊し、以後の集団自決論争はすべて空虚な議論ということになる。
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