そういえば、昨日は天安門事件から25年目だった。
1989年といえば、日本はバブルの只中だった。もう何年か前になるが
ちょうど日本の企業が中国に進出したばかりの頃、広東省に赴任した方
と話をしたことがあった。なんでもその頃は、まだ日本人や外国人の
駐在員は特別な存在だったとかで、様々な特権があり、完全にお客様
扱いだったと聞いたことがある。
改革開放は、広東省が先陣を切る形で進められたそうで、まだまだ
中国全土が貧困の中にあった時代、日本を始め、外国の企業はお金
を運んできてくれる存在に映ったらしい。
私が初めて中国に行ったのは1990年の3月頃だった。当時、中国の個人
ビザは香港でしか取れず、しかも領事館などではなく、香港の重慶マ
ンションの安宿に来た仲介人に申請書とパスポートを渡して取得した。
今はもうないと思うけれど、当時は香港から船で広州に入った。それも
深夜0時過ぎに出て、早朝に着くなんていう便だった記憶がある。
広州からは翌日、雲南省に行くつもりで、列車の切符を購入しようとし
たところから私の中国旅行が始まったのだが、駅に行って現実を知った。
窓口はどこで、どの列に並んだらいいのか、そして切符はあるのか?
並んでいる列の長さを見ただけでも、こりゃ無理だと思った。
それでも意を決して並ぶのに1時間。その後2時間くらい並んで、やっと
窓口に紙に書いた行先を渡すと、ひと言何かを言われ、それがわからず、
退散するしかなかった。結局、その日は3~4時間くらい駅にいて、とう
とう諦めて宿に帰った記憶がある。
そして、広州から、もう、本当にどこにも行けないのではないかと真剣に
悩んだこともはっきりと記憶している。
それほどまでに、外国人を受け入れる体制や整っていなかったのか、いや、
それ以前に、圧倒的に人が多すぎて輸送手段が足りて無かったのではない
かと思う。
結局、広州を出れたのは5日後で、切符は桂林行きの硬座しか買えなかった。
しかもダフ屋から、それも定価の2倍以上で買わされている。しかも乗った
列車は乗車率150%のような混雑で、硬座では一睡もできなかった。
もう、何もかもが最悪で、中国のこういう状況を頭の中で理解して受け入れ
られるようになるまでに、随分、時間がかかった覚えがある。
駐在員と一般の旅行者とでは、随分、受け入れる形に差があるものだと
思ったが、それでも、当時は外国人というだけで、あきらかに優遇される
部分もあったなと、ちょっと懐かしさも思い出す。
ただ、あれから四半世紀後、今のような中国になるなんて、誰が想像できた
だろう。
歴史にもしもはないけれど、もしもあの時の天安門事件で民主化が成し遂げ
られていたら、今の中国のような振舞いはなく、今よりもずっとまともな国
として発展していただろうか?
いや、
それもちょっと想像できない…。
もう随分、昔になるけれど、インターネットをやりだしてから何年後かに
天安門事件の写真を見たことがあった。それはもう、悲惨な写真ばかりで
戦車に轢かれた学生の遺体や、射殺された遺体などグロテスクな写真ばか
りだった。
もしかしたら、あれを、見てしまったせいもあるのかもしれない。
CENTER>
1989年といえば、日本はバブルの只中だった。もう何年か前になるが
ちょうど日本の企業が中国に進出したばかりの頃、広東省に赴任した方
と話をしたことがあった。なんでもその頃は、まだ日本人や外国人の
駐在員は特別な存在だったとかで、様々な特権があり、完全にお客様
扱いだったと聞いたことがある。
改革開放は、広東省が先陣を切る形で進められたそうで、まだまだ
中国全土が貧困の中にあった時代、日本を始め、外国の企業はお金
を運んできてくれる存在に映ったらしい。
私が初めて中国に行ったのは1990年の3月頃だった。当時、中国の個人
ビザは香港でしか取れず、しかも領事館などではなく、香港の重慶マ
ンションの安宿に来た仲介人に申請書とパスポートを渡して取得した。
今はもうないと思うけれど、当時は香港から船で広州に入った。それも
深夜0時過ぎに出て、早朝に着くなんていう便だった記憶がある。
広州からは翌日、雲南省に行くつもりで、列車の切符を購入しようとし
たところから私の中国旅行が始まったのだが、駅に行って現実を知った。
窓口はどこで、どの列に並んだらいいのか、そして切符はあるのか?
並んでいる列の長さを見ただけでも、こりゃ無理だと思った。
それでも意を決して並ぶのに1時間。その後2時間くらい並んで、やっと
窓口に紙に書いた行先を渡すと、ひと言何かを言われ、それがわからず、
退散するしかなかった。結局、その日は3~4時間くらい駅にいて、とう
とう諦めて宿に帰った記憶がある。
そして、広州から、もう、本当にどこにも行けないのではないかと真剣に
悩んだこともはっきりと記憶している。
それほどまでに、外国人を受け入れる体制や整っていなかったのか、いや、
それ以前に、圧倒的に人が多すぎて輸送手段が足りて無かったのではない
かと思う。
結局、広州を出れたのは5日後で、切符は桂林行きの硬座しか買えなかった。
しかもダフ屋から、それも定価の2倍以上で買わされている。しかも乗った
列車は乗車率150%のような混雑で、硬座では一睡もできなかった。
もう、何もかもが最悪で、中国のこういう状況を頭の中で理解して受け入れ
られるようになるまでに、随分、時間がかかった覚えがある。
駐在員と一般の旅行者とでは、随分、受け入れる形に差があるものだと
思ったが、それでも、当時は外国人というだけで、あきらかに優遇される
部分もあったなと、ちょっと懐かしさも思い出す。
ただ、あれから四半世紀後、今のような中国になるなんて、誰が想像できた
だろう。
歴史にもしもはないけれど、もしもあの時の天安門事件で民主化が成し遂げ
られていたら、今の中国のような振舞いはなく、今よりもずっとまともな国
として発展していただろうか?
いや、
それもちょっと想像できない…。
もう随分、昔になるけれど、インターネットをやりだしてから何年後かに
天安門事件の写真を見たことがあった。それはもう、悲惨な写真ばかりで
戦車に轢かれた学生の遺体や、射殺された遺体などグロテスクな写真ばか
りだった。
もしかしたら、あれを、見てしまったせいもあるのかもしれない。
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