ややっ、禅堂到着時間はスタート前の5時45分、
すでに4名の方が坐に着いている。
初めての参禅者がいらっしゃるのかと思いきや、全員、いつもの仲間。
老師の教えが聞こえる、禅堂に一礼、私も静かに坐に着いた。
「こうして身を整え、息をととのえて座る」のですが、
「坐禅は習禅に非ず、唯これ安楽の法門なり」と
道元禅師様がおしられています。
ゆったりと身をくつろがせるのです、勿論緊張は必要ですが、
その中にゆったりゆったりの気持ちが「安楽」です。
坐禅は、足が痛くなれば、隣の方に迷惑にならないよう
左右の足を組み替えたり、しても良いのです。
なかなか時間がたたない思いなどが募るのでは「安楽の法門」にならない。
ゆっくり座ってください・・と。
(ここで老師は外に出られ、午前6時の梵鐘が撞かれる、
同時に般若心経の読経が一際聞こえる、
こんな雰囲気を月1度とはいえ味わえているのです。)
(内外の静寂を破るのは、読経の他、鳥の鳴き声のみ、時は静かに流れる、
禅堂内照明は消されていて、外は明るい時間ですが、薄暗い、
時間経過の中で徐々に明るくなる堂内、
台風余波で突然短時間降る雨音は、邪念を洗い流してくれるのに余りある)
禅堂へ戻られた老師は、「検単(けんたんと読み、姿勢の検査)」の
ため後ろに立たれる、一瞬の緊張が走る。
毎度申すことですが、から坐中の話が始まった。
「回向返照の退歩を学すべし」から・・・。
坐禅は、「姿勢をただし、深く静かな呼吸をすること」このことに尽きる。
何だ、そんなことでいいのか・・・ですが。
坐っている本人には、これでは済まない、
たゆまなく日常生活などへの思いが脳裏を走る。
坐るとこうした雑念?を取り払ってくれるのか、座るとどんな良いことがあるのか、
何か役に立つのか、問われる。
こうした生き方に、「関連付がちである自分はこの程度の人か」と
気付いてほしい、気がついたらその思いを止める、
今、自分は何を思ったのか、自分の姿を振り返ってみる、
これが「回向返照の退歩を学すべし」との教えです。
誰もが同じでない個性、性による異なりを自覚することも大切。
ただ座っているだけでいろいろの雑念が走るのはみんな常。
「妄想(もうそう)」は、何なのか。
これを解決するのは
「仏教における人を救うための手段です」
今の命は息が切れると死を迎える、焼くと灰になる、
人間の形は之で終わりのようですが。
「仏の世界では」、死と言うとき、仏の教えが手を差し伸べている。
すなわち、「死ぬ前に仏の中へ這入りこんで下さい」となるのです。
仏教の考えは、過去・未来・現在の三世を、あなたの人生と考えます,
「妄想(もうそう)」を止める喜び、
こんな中に仏教の手法「坐禅がある」のかもしれません、
坐る姿の中に、今幸せに生きている事を喜び、
「救われた姿が、坐中の私かもしれない」。
つまり、それぞれの自信の有る喜びの世界に出会う、
それが「禅寺で参禅道場を開く理由」なのです、
今日は、深刻な話となりましたが、
「老師自身が、今抱えている課題である」と結ばれた。
この後、鐘2つ(経行鐘)、終わりでない終わりは鐘1つのはず、
これから「立禅」を続けます。
サブの前に立ち、手を組み確かな呼吸の出し入れ、
10分間の立禅、
この後、鐘1つ(放禅鐘)で終わった。
今朝の禅堂義宣寺とその周辺。