@yamamoto1208 山本敏晴 「災害の支援者の矛盾。ソマリアの旱魃で死にかかっている1300万人は見捨てておきながら、「同じ日本人だ」として東日本大震災は助けるのか。では東北地方に嫁いだ中国人・韓国人・東南アジアからの「ジャパゆきさん」はどうするのか?彼女たちがかかえる特殊なニーズに、応えてあげる気はあるのか?」(2011/11/22)
とりあえず,「嫁いだ」なら,彼女たちは定義的に「ジャパゆきさん」ではあるまい(まーお手軽で悪いが日本語版Wikipedia当該項目を参照)(さらに※2)。
その語は,基本的に性を売って商売する人を指すはずで,正当に嫁いで「我々」の一部となった我々を,敢えて『君は生活のために日本人に性を売った他人だ』と「彼ら」扱いするのは,どーも根本的に差別的ではあるまいか。
で,特殊なニーズについては,まず災害発生直後および流通等々に問題のあった一定期間の間は「取りあえず生きてないと後悔も懺悔もなにもあったもんじゃねぇだろう」で回答OKだろう。
でもって,概ねそこそこの余裕の出てきた最近(以降)なら,周囲の配慮等々も期待できるころだろう。田舎もんなめんな。きちんと「我々」になって地域ネットワークに入ったら相互に配慮するぞ,ふつー。
都会人が個々に個性的な人であるのと同様に,田舎もんも個々に個性的なんであってな,お互い,それなりの情報を共有して生きてるわけですな。農家はなんでも作ってると思います? いや,家例で作れない作物とかあったり,パウリの法則宜しく『なんでだがオレつぐっとみなダメんなっつまうんだおん』な作物があったりして(その情報は割と地域住民に把握されてたりして),相互に補いあってるわけで。
「こいづかれっか(これは食べることができますか)?」
「? かれっか? ん,タベラレマス」
「んでけ(そうか,では食べるといい)」
とかやるでしょう,ふつう。
なお本気でジャパゆきさん状態とゆーか,嫁に入って日本国籍を得て母国から「弟」(ないし「兄」)を呼び寄せてやたら親密だと思ったら旦那(日本人・年寄)の家財かっぱいで「弟」と一緒にどこかに消えた,とかゆー場合に対する回答は『知ったことか』でよかろう。
なお残されたほうは,”まぁしばらくとはいえ若いのんと結構宜しくヤッたんだからその分と思えばいいか”とか思った例があるとかなんとか。
@yamamoto1208 山本敏晴 「災害の傍観者の罪悪感。世界では大災害は度々起こっており2011年のソマリア旱魃では1300万人が命の危機にさらされている。だがほとんどの日本人は無視。一方、東日本大震災だと反応する人が比較的多い。「同じ日本に住む人」には「平等倫理」が発動する、ということか。それは正しいことか?」(2011/11/22)
日本国を構成するという契約を結んで,その中にいるわけだから,できるだけ平等にというルールが適用されるのは社会契約的に正しいことなのでは。「我々」を構成するんだから。東北の田舎・農村に嫁いだ,まああっちこっちの嫁さん方は,”おらだづのとつ(土地)”を共に護る仲間であれば「我々」に入る(いやまあ,個々の民族意識を抑圧しかねないほどに同調圧力が厳しく…というような批判をする余地は大いにあろうが ※1)。
…人道的に,『ひとのいのちは世界のどこでも・いつでも平等』なんだからソマリ人にも生きる権利が…とは理屈だが,即座に「平等倫理」(聞き慣れない単語だが)が発動するかどうか(「平等」の中身も不明だしね)。『日本人はお金持ちなんだからそれなりに責任は大きいんですっ! 同じ人間に対する平等倫理を発動させるべきだ!』とか言われたとしても,
…だからと言って即座に任意の”危機に陥った国の市民”への(無限の)責任を負えと言われましても,なんだ。
…今年は割とソマリア関係の日本語報道,多かったけど,あの悲劇というのは毎年のことですからね?
常時人道問題なところなんて,他にもざらにありますからね?
法哲学的な方面から,(無)国籍問題を語るお話を見たばかりでして,「我々の範囲」の問題にはちょいとよけいめにメモを付けてしまった。
おおやにき 「可哀想と気の毒(1)l」
「著者は公金が運営に大量投入されている日本の国立大学で学び、その大学院に進学し、公的予算で運営されている日本学術振興会から特別研究員としての手当(私が大学院にいた頃、PDで月額35万円だったか)を受けてハーバード大学に留学している。これだけの待遇をされていてなお、日本の国家は私を愛さないと著者が主張することは正当なのだろうか。むしろ、自分がそれに値することをまったくしていないとしても国家は私の望むことを何であれ提供すべきだと主張しているだけではないのだろうか。だとすればそれは、甘えの論理に他ならないのではないだろうか」
おおやにき 「可哀想と気の毒(2・完)l」
本来やるべき仕事の方は進まない。これではいかんのですが。
※1
そこで「田舎者は/意識の低い者は個々の国民性・民族性に配慮した行動ができないであろうから,自分たちがその点を指摘してやろう」となると,「田舎者」を啓蒙されるべき対象として捉えることになり,また,嫁いできたX国出身者が(X性を薄めて)その田舎に溶け込むことを阻害する恐れもでてくるでしょう。だって何年経とうが,『彼女のX国性を尊重しなさい!』と偉い先生がご指導くださるのだ! 『したらアレだ,こごのとヅさあわさせんのもごいべさな(この土地の流儀に合わさせるのは可哀そうだな)』と,いつまで経っても,彼女は”お客様”でありつづけるだろう。
―そうまで「よそ者」性を維持するのはどんなもんだろう。
「よそ者」の力を,適宜活用しつつ取り入れつつ,民俗社会は動いてきたものだろうに。
彼女と「我々」を隔てるのは,この場合,究極的には「生まれ」だけだろうに,そこまで生まれは重要なことなんだろうか?
とりあえず,「嫁いだ」なら,彼女たちは定義的に「ジャパゆきさん」ではあるまい(まーお手軽で悪いが日本語版Wikipedia当該項目を参照)(さらに※2)。
その語は,基本的に性を売って商売する人を指すはずで,正当に嫁いで「我々」の一部となった我々を,敢えて『君は生活のために日本人に性を売った他人だ』と「彼ら」扱いするのは,どーも根本的に差別的ではあるまいか。
で,特殊なニーズについては,まず災害発生直後および流通等々に問題のあった一定期間の間は「取りあえず生きてないと後悔も懺悔もなにもあったもんじゃねぇだろう」で回答OKだろう。
でもって,概ねそこそこの余裕の出てきた最近(以降)なら,周囲の配慮等々も期待できるころだろう。田舎もんなめんな。きちんと「我々」になって地域ネットワークに入ったら相互に配慮するぞ,ふつー。
都会人が個々に個性的な人であるのと同様に,田舎もんも個々に個性的なんであってな,お互い,それなりの情報を共有して生きてるわけですな。農家はなんでも作ってると思います? いや,家例で作れない作物とかあったり,パウリの法則宜しく『なんでだがオレつぐっとみなダメんなっつまうんだおん』な作物があったりして(その情報は割と地域住民に把握されてたりして),相互に補いあってるわけで。
「こいづかれっか(これは食べることができますか)?」
「? かれっか? ん,タベラレマス」
「んでけ(そうか,では食べるといい)」
とかやるでしょう,ふつう。
なお本気でジャパゆきさん状態とゆーか,嫁に入って日本国籍を得て母国から「弟」(ないし「兄」)を呼び寄せてやたら親密だと思ったら旦那(日本人・年寄)の家財かっぱいで「弟」と一緒にどこかに消えた,とかゆー場合に対する回答は『知ったことか』でよかろう。
なお残されたほうは,”まぁしばらくとはいえ若いのんと結構宜しくヤッたんだからその分と思えばいいか”とか思った例があるとかなんとか。
@yamamoto1208 山本敏晴 「災害の傍観者の罪悪感。世界では大災害は度々起こっており2011年のソマリア旱魃では1300万人が命の危機にさらされている。だがほとんどの日本人は無視。一方、東日本大震災だと反応する人が比較的多い。「同じ日本に住む人」には「平等倫理」が発動する、ということか。それは正しいことか?」(2011/11/22)
日本国を構成するという契約を結んで,その中にいるわけだから,できるだけ平等にというルールが適用されるのは社会契約的に正しいことなのでは。「我々」を構成するんだから。東北の田舎・農村に嫁いだ,まああっちこっちの嫁さん方は,”おらだづのとつ(土地)”を共に護る仲間であれば「我々」に入る(いやまあ,個々の民族意識を抑圧しかねないほどに同調圧力が厳しく…というような批判をする余地は大いにあろうが ※1)。
…人道的に,『ひとのいのちは世界のどこでも・いつでも平等』なんだからソマリ人にも生きる権利が…とは理屈だが,即座に「平等倫理」(聞き慣れない単語だが)が発動するかどうか(「平等」の中身も不明だしね)。『日本人はお金持ちなんだからそれなりに責任は大きいんですっ! 同じ人間に対する平等倫理を発動させるべきだ!』とか言われたとしても,
…だからと言って即座に任意の”危機に陥った国の市民”への(無限の)責任を負えと言われましても,なんだ。
…今年は割とソマリア関係の日本語報道,多かったけど,あの悲劇というのは毎年のことですからね?
常時人道問題なところなんて,他にもざらにありますからね?
法哲学的な方面から,(無)国籍問題を語るお話を見たばかりでして,「我々の範囲」の問題にはちょいとよけいめにメモを付けてしまった。
おおやにき 「可哀想と気の毒(1)l」
「著者は公金が運営に大量投入されている日本の国立大学で学び、その大学院に進学し、公的予算で運営されている日本学術振興会から特別研究員としての手当(私が大学院にいた頃、PDで月額35万円だったか)を受けてハーバード大学に留学している。これだけの待遇をされていてなお、日本の国家は私を愛さないと著者が主張することは正当なのだろうか。むしろ、自分がそれに値することをまったくしていないとしても国家は私の望むことを何であれ提供すべきだと主張しているだけではないのだろうか。だとすればそれは、甘えの論理に他ならないのではないだろうか」
おおやにき 「可哀想と気の毒(2・完)l」
本来やるべき仕事の方は進まない。これではいかんのですが。
※1
そこで「田舎者は/意識の低い者は個々の国民性・民族性に配慮した行動ができないであろうから,自分たちがその点を指摘してやろう」となると,「田舎者」を啓蒙されるべき対象として捉えることになり,また,嫁いできたX国出身者が(X性を薄めて)その田舎に溶け込むことを阻害する恐れもでてくるでしょう。だって何年経とうが,『彼女のX国性を尊重しなさい!』と偉い先生がご指導くださるのだ! 『したらアレだ,こごのとヅさあわさせんのもごいべさな(この土地の流儀に合わさせるのは可哀そうだな)』と,いつまで経っても,彼女は”お客様”でありつづけるだろう。
―そうまで「よそ者」性を維持するのはどんなもんだろう。
「よそ者」の力を,適宜活用しつつ取り入れつつ,民俗社会は動いてきたものだろうに。
彼女と「我々」を隔てるのは,この場合,究極的には「生まれ」だけだろうに,そこまで生まれは重要なことなんだろうか?
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