車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

衣浦(きぬうら)観音 in 愛知県高浜市

2016年09月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

名鉄三河線高浜港駅から三河高浜駅までは電車で移動、途中の神社参拝の含めて、実に3時間半の鬼道ウォークも、かわら美術館森前公園で終了。現在17時15分、「衣浦観音」がおわす観音寺への参拝、時間的には如何なものか・・。ですが、この機会を逃して次が有るかどうか、いつも微妙な私たちの車泊旅。ここは潔く決行あるのみ(笑)

森前公園入り口近く、「森前地蔵尊」横の薬医門の奥に見える細い石段、これが観音寺へと続く参道。秋の日はつるべ落し、急がなければ。

悲鳴を上げて駄々をこね始めた膝を宥めすかしつつ・・一段、もう一段。観音寺のお堂が見えた瞬間に膝から崩れそうな疲労感と、それに増しての達成感。頑張った甲斐がありました(〃∇〃) お導きに心から感謝いたします。

「高台の観音寺には陶製の大観音像「衣浦観音」が街を見下ろすように立っています。この観音像は、高浜の鬼板師で「鬼長」の屋号を持つ浅井長之助氏の製作で、これを焼成したのは、陶管の窯元、森五郎作氏です。歳月約4年の苦心の末、昭和34年3月完成しました。高さは8メートル、中央は鉄筋コンクリートの円柱を基礎にして、12角面の外観台の上に建っています。
製作に当たっては本尊48蓮台を24の部分に分けて造り、これを組立て結合しています。焼成には、粘土の収縮率がそれぞれ異なるため、非常な苦心研究の上製作されたとのことです。陶製の観音としては日本一です。観音さんの台座の十二支やお堂壁面に埋め込まれた十神将、三邪鬼が支える大香炉、観音寺の屋根の飾り瓦もみどころです。」高浜市観光協会HPより

穏やかに・・たおやかに・・・頬に浮かぶのは慈母の笑み。見上げる私たちの上に注がれる眼差しは、唯々優しく慈愛に満ちています。

これほどまでに優しさに満ちたお顔を生み出された『浅井長之助氏』。「鬼長」のHP内に「高さ7mの観音様を作成するにあたって【72歳まで生きられれば本望だ。】と言って観音像を72個に割って作成。まるで予知していたかのように72歳で亡くなりました。」とありました。私たちがこの事実を知ったのはずっと後の事ですが、そうと聞いて改めて見直す観音様のお顔の何と優しい事・・・

連台の上に立つその姿の何と優しい事

観音像が立たれるお堂の前では三邪鬼が大香炉を支え・・・

堂壁面には観音菩薩像を見上げる十神将。

幾年もの長き時を身じろぎもせず、神将たちの眼差しは厳しくも優しく観音像に注がれ続けています。

境内の一画に建立されていた「針供養塔」

参拝を終えて森前公園に戻った二人を迎えてくれるのは、夕焼けの色にうっすらと染まりながら物憂げにまどろむ名も知らぬ巨大魚・・・

何を表したのかわからない不思議なモニュメント・・黄昏の気配が色濃く増してゆく公園の中の不思議な空間。

もう少し時間が有れば、もっとゆっくり参拝したかったと・・いつもの事ですが、同じ後悔を繰り返している私。でも言い換えれば、それは後悔するくらい忘れ難い思い出だという事なのです。最後は鬼道ウォークの前に写しておいた「森前渡船場跡」碑。「このあたりは、もと森前と呼ばれていて、衣浦大橋が開通するまでは対岸の亀崎へ船で往来した。その渡船場の跡である。 「森前の渡し」の起源について明らかでないが、江戸時代刈谷藩はこの渡船場を重視し、浦役を庄屋に命じて船の出入りを取り締まり年貢五百石を免じていたといわれる。 以来、高浜と知多を結ぶ交通の要路として重要な役割を果たしてきたが、大橋の開通と共に廃止となった。 」~案内板より~

参拝日:2011年9月19日

 

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