明石市二見町東二見にある白いモダンな建物は昭和13年に建てられた「旧二見村役場」。現在は「明石市二見市民センター」として利用されています。
主産業が漁業の町であった二見村にこの洋館ができた時、村の人たちはどんな思いでこの建物を眺めたのでしょう。特に大きなガラス面を持つ半円形の階段室は、今の時代に置いても斬新です。
建物の随所に見られる丸枠に半円の開き窓は、まるで二見を象徴するかのようにも見えて、実のところは旧明石市の市章に似ている所為だと気が付きました。
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続いて訪ねたのは、明石市相生町にある「明石市立中崎公会堂」。明治44年(1911)4月に、当時の明石郡の1町・11村が共同で「明石郡公会堂」として建設したもので、建設費は地元の寄付などで賄われました。市内最古の公共施設で、2000年に明石市の都市景観形成重要建築物に、2012年に国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けました。
設計を行ったのは、東大寺大仏殿の修繕にも携わった経験のある『加護谷祐太郎』。当時は西洋風の建築様式が流行しており、それらは今も各地に残されていますが、ここではあえて奈良時代や鎌倉時代の建築スタイルが採用されました。
下屋を回した入母屋造や唐破風の車寄せなど、仏教寺院を思わせる外観に、エンタシス風の加工が施された角柱や、鎌倉風の虹梁・蟇股、大仏殿風の繰形など、細部の意匠にも伝統的な和風様式が採り入れられています。
こうした設計については、廃城令で失われた城に代わるシンボルを求める地域住民の意向や、西洋文化ばかりが有難がられる時勢に逆らって日本古来の文化を貴ぼうという意識があったのだろうと推測されています。
落成記念では『夏目漱石』の講演が行われましたが、彼はこの建物について「成程あれ程の建物を造れば其中で講演をする人を何処からか呼ばなければ所謂宝の持腐れになる許でありませう」と評したといいます。
その後も『菊池寛』や『佐藤春夫』の講演が開催されるなど、明石郡の人たちの自尊心を大いに満足させる結果となったようです。
この中崎公会堂の西に、『東郷平八郎』の筆による「日露戦争忠君碑」が建立されています。青々と茂った松に隠れてしまって、その美しい書体をきちんと見られなかったのが残念。
訪問日:2010年5月8日
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