津山市川崎、旧出雲街道沿いに大正九年(1920)に当時の頭取『妹尾順平氏』によって建てられた「旧妹尾銀行林田支店」。その後、第一合同銀行、次いで中国銀行津山東支店となり、昭和48年(1973)に東津山駅前に移転するまでの約半世紀、銀行として使用されていた建物です。
棟梁には『池田豊太郎氏』、建具師は『磯島政吉氏』。名工が手掛けた本館は木造二層入母屋造、千鳥破風の玄関付きで、寺院建築風の外観。屋根は檜皮葺の上に銅板を張り、さらに玄昌石の天然スレートで葺くという実に凝った造りです。
本館の裏には、赤レンガ敷きの中庭、外壁を石積みで覆われた金庫棟、倉庫として使用された赤レンガ造の建物が当時のまま残されており、文化的価値も高いことから1992年に市指定重要文化財(建造物)に指定。。
銀行の役目を終えたこの建物を、市は建物の保存を目的に譲り受け、昭和52年(1975)津山洋学資料館として整備・活用してきましたが、2009年の同資料館新築移転に伴い、資料館としての役目を終えました。
と言う事で、楽しみにしていた津山最初の歴史的建築は、門扉の「閉館しました」の張り紙であっけなく終了😭。
後記:この素晴らしい建物は、2018年に芸術文化の創造・発信拠点「PORT ART&DESIGN TSUYAMA(ポート アート&デザイン 津山)」として再生したそうです。
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津山市西今町、津山城下町の西部、城西地区の出雲往来沿い。タイムスリップしたかのような情緒ある古い町並みの中に一際目立つ木造洋風建築は「旧土居銀行本店」。
明治42年(1909)に土居銀行本店として竣工。左右対称のルネッサンス式の意匠を要所に取り入れ、木造でありながら西洋古典様式風のオーダーが付く石造風の非常にモダンな外観は、先の旧妹尾銀行林田支店とは真逆の美しさ。
その後は、当時の地方銀行と同様、周辺他行との合併を繰り返し、作備銀行、山陽銀行を経て現在の中国銀行の母体の一つに。銀行としての役目を終えた建物は、「日本塩回送会社」「吉井川漁業組合」等に所有権が移り、1992年に津山市が取得。「作州民芸館」として活用されることになりました。
私たちが訪問した月曜日は休館日と言う事で館内の見学はできませんでした。建物の裏手が駐車場になっていたので、とりあえず裏手の写真を・・・
考えてみれば・・・月曜日が休館の施設って普通に多いのです。もしかしてこの次も・・・と嫌な予感😓
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津山市田町、津山城西方の市街地に所在する「中島病院旧本館」。木造2階建で、東正面にポーチ。小豆色のモルタル掻き落としの壁に、コリント式の柱や窓飾り等を人造石で装飾。ドーム状の屋根が異国風の佇まいを見せ、城下の町並に彩りを添えています。
「中島病院創始者の中島琢之は東京帝国大学医科大学医学科を卒業後、日本医学専門学校内科部長を辞し、看護師2名を伴って、医師である父、中島大次郎の後継者として帰津した。病院には人力車が列をなすほど患者さんが詰めかけたが、琢之は研究などで再度上京の意思を知人に漏らした。それを聞いて、「せっかくの名医を失っては大変」と、妹尾銀行頭取の妹尾順平氏の発案で約5万3千円を借入し、旧本館は完成。琢之はその後10年かけ、建築費を返済したが、その際に『これで東京にでるチャンスを失った』と冗談交じりに話した。」中島病院HPより
大正6年、地元出身の名医『中島琢之(たくし)氏』を慰留するため、最先端の医療器具を揃えて竣工した「中島病院」。津山を代表する美しい洋風建築は、国登録有形文化財の指定。現在は「城西浪漫館」として一般開放されています。
正面にドームを配し、屋根や窓には細かい装飾を施し、その外観は小躍りしたくなるほど素敵で、その上さらに、内部は各部屋ごとに、異なる材質の大理石を使った暖炉があってエトセトラ・・etc、なのに無情にも「本日 定休日」の札・・嫌な予感は的中😭
訪問日:2010年3月1日
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